咬牙王に内蔵された転移装置が起動し、鋼鉄の巨体を創世島から遥か上空の居城「黒刃」 へと移動させるまでの間に、凌牙の意識は過去へと向かっていた。 人間が未だ持ち得ない技術である瞬間移動が、その目的を果たすまでに要する時間は、お よそ数秒ほど。 過去を思うには短すぎる時間ではあるが、人間がわずかな睡眠時間にも関わらず壮大な夢 を見る事があるのと同じように、凌牙の思考は深く沈んでいく。 自分の運命を変えた、七年前のある日へと。 『お疲れさん、今日はもうええよ』 聴覚とリンクした通信機から聞こえる声に合わせ、凌牙はHMLSを停止させる。 直後、鋼鉄の身体から生身の肉体へと意識を戻した凌牙は手元のコントロールパネルを操 作してコクピットハッチを開く。 抑えられた音と共に開いていくハッチの奥に広がるのは、彼にとって馴染みのある風景、 メタル・ガーディアンの第二格納庫であった。 四方を無機質な灰色の壁に覆われた広大な空間は、かつてこの組織が「メサイア」であっ た頃には本来の用途を果たしていたが、現在は第一格納庫でさえも持て余す状態であるため に、第二格納庫は屋内の実験場として使用されている。 鋼騎が動き回るには十分すぎるほどの空間をコクピットから見渡した凌牙は、無造作にそ の身をコクピットから宙へと投げ出す。 鋼騎の胸部に位置するコクピットは地上三十メートル近くの高さにあり、この高さから自 らの意志で宙を舞おうという人間は、命綱のような安全策を講じている者か、もしくは自殺 願望を持った者くらいであろう。 だが、倒れるような姿勢で宙を舞う凌牙はそのどちらでもない。 今まで搭乗していた鋼騎、ナイトUの装甲をなぞるように落ちていく凌牙は空中で姿勢を 変えると鋼の腰部に足を着け、膝の屈伸運動で落下の加速と衝撃を殺す。 そのまま軽く跳躍し、再び宙を舞った凌牙は次に鋼騎の膝に着地、先ほどと同じように加 速と衝撃を殺すと、足の甲に三度目の着地。 最後は後方に宙返りをして格納庫の床に軽やかに着地した凌牙は、眼前で呆れた表情を表 情を浮かべる女性に視線を向ける。 「アンタなぁ……もうちょっと普通に鋼騎の乗り降りできへんの?」 油汚れが目立つ手でずれた眼鏡を直しながら問うタンクトップ姿の女性、篠原早希は、こ の問いかけが初めてではなく、何度言おうと意味の無い事だと理解しながらも口を開く。 「普通にやるのは面倒だ。どのみち、俺以外に使う人間がいないから構わないだろう」 少し拗ねたような表情で早希の予想通りの言葉を返す凌牙は、それにしても、と付け加え る。 「このナイトUに何をした? 以前とはまるで感覚が違っていたぞ」 「まぁね。HMLSを最新のものに換えてるから、大分感覚が違ったんちゃう? 見てる側 からしても、動きが違うのは一目瞭然やったし」 「HMLSを換えるだけで、ここまで変わるのか」 早希の言葉に、凌牙は軽い驚きの表情で傍らに立つナイトUを見上げる。 無骨な甲冑を思わせるデザインのこの機体は、以前から何度も搭乗した事のある鋼騎では あるが、今回搭乗したのは見た目が同じだけで中身は全くの別物ではないか、そう思わせる ほどの違いがあった。 そして、それは決して間違ってはいなかった。 鋼騎に搭乗するフェンサーの能力がいかに優れていようとも、その動きを機体にフィード バックし、実際に動かすためのシステムが不完全では意味が無い。 人類初の鋼騎であるナイトから搭載されているHMLSは、鋼騎に関する技術の進歩と共 に何度もバージョンアップを重ねてきたが、それでもなお人間の、特に凌牙のような武術の 達人の動きを完全に再現する事は出来なかった。 それは、人間の動きを機械とリンクさせるシステムであるHMLSの限界であった。 鏖魔の脅威が――当面の間ではあるが――去り、鋼騎が戦闘以外の分野に進出するように なっても、その事実は変わらない。 つまり、凌牙のような人間は鋼騎とHMLSからしてみればイレギュラーであり、現在の 人類が持つ技術の限界を超えた存在であった。 凌牙自身もその事については機体とシステムの限界という事で納得しており、特に不満を 抱く事は無かった。 だが、今回搭乗したナイトUに搭載されたHMLSは違った。 自分が思い描く動きが、ほぼイメージ通りに再現されていく状況に、凌牙は軽い感動と興 奮さえ覚え、いつしか夢中で鋼の身体を動かしていた。 機体の柔軟性が足りないために再現できない動きはいくつかあったが、それでも凌牙とし ては非常に満足のいく完成度であった。 「なんでも、凌牙のために開発した専用のHMLSらしいけどね」 「俺のため?」 鸚鵡(おうむ)返しで応える凌牙に早希は頷き、格納庫の一角を指さす。 彼女の指が示す先にある物は、格納庫の一角を占有する多数のコンテナ。 通常のコンテナよりも大きなサイズと、側面に書かれている文字から鋼騎用と分かるコン テナの群れを指さした早希は、コンテナの意味する所が分かっていない凌牙を見ながら口を 開く。 「あれ、アメリカで造るはずやった新型鋼騎のパーツなんやけど、計画が途中でオジャンに なってしもうたから、こっちで続きをやるんやって」 その言葉の先が見えないといった表情を浮かべる凌牙を横目に、彼女は続ける。 「でな、その新型鋼騎ってのが、素手で戦う事を前提とした格闘専用機らしいんよ。で、そ の機体のフェンサーとして凌牙が選ばれて、専用のHMLSが開発されたんやって」 「なるほどな」 短い感想をこぼした凌牙はコンテナに目を通し、すぐに視線を外す。 「なんや、素っ気ないなぁ。もっと興味持ってもええのに」 「そうでもないさ。これでも興味津津、ってやつだ」 口の端を軽く歪め、おどけた口調で応える凌牙に、早希はポケットから一枚の畳まれた紙 を取り出し、それを広げた状態にして差し出す。 凌牙がその紙を受け取り、そこに書かれている内容を認識するタイミングを見計らい、早 希は口を開く。 「その興味津津なHMLSと新型鋼騎の生みの親、ちょっと前からこっちに来てるんよ。で、 凌牙に一度会いたいから、これが終わったら部屋に来てほしいんやと」 言葉を聞きながら、凌牙は渡された紙に書かれた文字に目を通す。 早希のポケットに入っていたためか、所々に汚れのついた掌ほどの紙に書かれていた文字 は「天音静流」という名と、彼女がいるであろう部屋番号だけであった。 「ほな、ウチは他の仕事あるし。ちゃんと行くんやで」 言葉が終らない内に背を向けて格納庫を出て行く早希を黙って見送った後、凌牙は再び渡 された紙に目を通す。 「天音、静流か……」 早希が去り、独りとなった格納庫で、凌牙はこれから自分が会う事になる人の名を口に出 した。 大型のトラックがすれ違えそうなほどに広い通路の左右に無数の扉が存在する、メタル・ ガーディアン職員用の居住区を、凌牙は早希に渡された紙を見ながら歩いていた。 東京湾に浮かぶ人工島という立地のため、基本的にこの組織に属する人間は住み込みとい う形で働いている。 そのため、スタッフの部屋がある居住区は広い。 メサイア時代から比べて縮小した組織の規模に合わせて一部を閉鎖したとはいえ、それで も十分すぎる広さを持つ居住区を歩く凌牙は、右手の扉に書かれた「D」の文字と、後に続 く数字を確認する。 現在、メタル・ガーディアンで使用されている居住区はAからDまでのブロックに分かれ ており、多くの場合は所属によって与えられる部屋が決められる。 人類の存続を賭けた緊急事態の中で作られたためか、組織内の交通網はそれほど発達して はおらず、居住区とのアクセスが悪い場所も珍しくない。 ひどい場合は、徒歩ならば移動だけで業務に支障が出てしまうほどに時間がかかる事もあ る。 そのため、その人間が働く場所になるべく近い部屋を与え、移動のロスを最小にしている のだ。 幸い、通路の大部分は自動車での移動も容易な幅を有しているので、居住区以外の移動に は自動車やバイクを使う者が多い。 さすがに居住区内に自動車は持ち込めないが、多くのドアの付近に原付や自転車が置いて ある事が、この場の広さを物語っている。 凌牙がこれから会う事になる人物、天音静流の部屋は、彼がいるDブロックにある。 Dブロックは、早希のような鋼騎に直接触れる技術者が多く住む場所であり、それを主張 するかのように床や壁には機械油の汚れが斑模様に点在している。 「天音静流……やはり、女性だろうな」 もはや内容を完全に覚え、見る必要の無くなった紙を見ながら、凌牙は呟く。 職人ともいえる技術者が多いこのブロックは、必然的に男性の比率が圧倒的に高い。 女人禁制を掲げている訳ではないが、早希のような女性の技術者は、やはり少数派である。 この辺りの部屋に住んでいる面々を考えた後、少し心配だな、と内心でまだ見ぬ女性の身 を案じた凌牙は、自分の眼前にあるドアの番号と紙に書かれたものが同一であるかを確認し、 軽くドアをノックする。 『どうぞ』 「失礼します」 ドア越しに聞こえる女性の声を確認した凌牙は、ゆっくりとドアを開き、中に入る。 それなりのランクのホテルを連想させるような広さと内装は、当然ながら自分の部屋と何 も変わらない。 ただ一つ、部屋の面積の多くを占有しているグランドピアノの存在を除けば。 そして、今までそのピアノを弾いていたであろう白いワンピース姿の女性が、ドアの方向、 凌牙のいる方向へと顔を向ける。 「はじめまして、月守凌牙君。急に呼び出してごめんね」 聞く者の耳に安らぎを与える、滑らかな絹のような声で、彼女は告げた。 これから月守凌牙という男の運命を変える事になる名を。 「天音静流です。これからよろしくね」 そう言って笑みを浮かべる彼女、天音静流を見た凌牙は、疑問が内側から込み上げてきた 事を実感した。 それは、彼女の容姿であった。 見た目だけで、凌牙は彼女が二十代の前半か半ばくらいであろうと判断した。 学生だ、と言われれば疑いを持たず納得してしまいそうなその若さは、HMLSを刷新し、 新型鋼騎の開発に携わるほどの人間には見えない。 加えて、凌牙は彼女の容姿に関して、もう一つの疑問があった。 彼女の名は天音静流であり、先の挨拶には至って標準的な日本語を用いていた。 だが、彼女の容姿は平均的な日本人とはかけ離れていたのだ。 細い、と呼ぶには細すぎる肢体に、部屋の照明で透けてしまいそうな白に近い金髪、白人 の中に混じってもなお際立つであろう白く美しい肌、少し垂れた、浅い海面を思わせる薄い 青の瞳を持つ彼女の容姿は、どう見ても日本人のそれではない。 凌牙の育ての母親であるソフィアは純粋な白人だが、彼女と見比べても違いが分からない と思わせるほどに、天音静流という女性は日本人とは思えない容姿を有していた。 「どうしたの? そんなにじっと見つめちゃって」 自分を凝視する凌牙に首を傾げた静流は、すぐに彼の視線の意味を理解し、小さく頷く。 「不思議よね。名前は日本人なのに見た目が外国人みたいで」 恐らく、今までの人生において嫌気が差すほどに向けられたであろう疑念を笑みのまま受 け取ると、それに応えるより先に部屋の中央に置かれている一人掛けのソファーへと視線を 送る。 「じゃ、話は座りながらにしましょうか」 促されるままソファーに座る凌牙に、備え付けの冷蔵庫からグラスと水を出した静流は、 小さなテーブルを挟んで彼の正面にあるソファーに腰を下ろす。 「ごめんね、水しか無くて」 「いえ、ありがとうございます」 差し出されたグラスに注がれた水を飲み終え、一息ついた凌牙は、意外そうな顔で空のグ ラスを見つめ、どこか納得できない、といった表情でグラスをテーブルに置いた。 「どうかしたの?」 「あ、いえ、本当に、ただの水だったな、と」 静流の疑問に途切れ途切れの言葉で返す凌牙は、自分が今まで飲んできた、正確には飲ま されてきた「水」と称される液体について思い起こす。 口内の細胞が残らず消し飛びそうになる刺激的な味の「水」や、飲んだ瞬間に服を脱ぎ捨 てて叫び出したくなる衝動に駆られる「水」や、意志とは関係無く真実だけを話してしまう ようになる「水」。 何かを間違えた「水」を多く飲まされてきた経験があるだけに、今飲んだ物が正真正銘、 ただの「水」であった事に、凌牙は肩透かしを食らった思いさえ抱いてしまう。 ――いや、時間差攻撃という可能性が…… 新たな可能性を見出し再び手元のグラスへ視線を向ける凌牙に、今度は静流が不思議そう な表情を浮かべる。 「やっぱり、何かあった?」 「……大丈夫です、きっと」 自分に差し出されたのが本当に何も無い普通の水と確信した凌牙は気を取り直し、改めて 静流を見据える。 話し方や物腰は日本人に違いないが、容姿だけは紛れも無い白人のものである奇妙な違和 感が凌牙の中で大きくなっていく。 「そんなにじっくり見ても、私の顔は日本人みたいにはならないわよ」 凌牙の視線を、小さな子供の他愛の無い悪戯を見咎めるような笑みで返した静流は、彼の 抱く疑問に応えるべく口を開く。 「私はね、ハーフなの。父は日本人で鋼騎の設計者、母はオーストリア人でピアニスト。で、 私は驚くくらい母親に似てしまったから、こんな顔をしている、って訳」 そこで小さく喉を鳴らした静流は、それでね、と続ける。 「私がこんな顔だから、お父さんが『自分の子じゃないかもしれない!』って大騒ぎした事 があって。結局、DNA鑑定までさせたれたんだから」 話しながら当時を思い出したのか、静流の笑みに小さな声が混じる。 それにつられ、凌牙の口元にも笑みが浮かぶ。 「それで、新しいHMLSはどうだった?」 凌牙が言葉を紡ごうとした瞬間、柔らかな笑みを伴った静流の声が響く。 「た、大変素晴らしい完成度でした」 女性が持つ優しさを凝縮したような静流の笑みに、一瞬だけ言葉を詰まらせながらも、凌 牙は独創性の無い、しかし率直な感想を返す。 「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ。あなたの動きは映像でしか見た事が無かっ たから、ちゃんと合わせられるか不安だったの」 言葉通り胸の内にあったわずかな不安が消え去った安堵から、静流は軽く息を吐き、グラ スを傾ける。 ――なぜだ? 目と耳で水が静流の白い喉を通過する様子を確認しながら、凌牙は彼女の言葉と、それに 付随する疑問を振り返る。 『でな、その新型鋼騎ってのが、素手で戦う事を前提とした格闘専用機らしいんよ。で、そ の機体のフェンサーとして凌牙が選ばれて、専用のHMLSが開発されたんやって』 ここに来る以前に聞いた早希の言葉にも、それはあった。 ――なぜ、俺の事を知っている? 早希の言葉が真実なら、格納庫に眠っている新型鋼騎と共に、彼女は最近までアメリカに いたはずである。 どういう経緯で格闘専用の鋼騎を開発していたのかは知らないが、鏖魔との戦闘が行われ ていない今、アメリカにいた彼女が日本の人工島から外に出た事の無い無名のフェンサーを 知っている理由が説明できない。 加えて、彼女は自分の動きを映像で確認した、と言った。 育ての親である真島烈の父、真島剛から真島流破鋼拳を長年教わっているが、その間に自 分の動きを撮影された覚えはない。 消化できない疑問が、凌牙の胸に不快な想いを募らせる。 「どうして私が凌牙君の事を知ってるのか、不思議に思う?」 自らの心を覗いたかのような言葉に、凌牙の目がわずかに見開かれる。 なぜ、と口を開くより早く、静流はからかうような笑みと言葉を続ける。 「顔に書いてあるわよ。じゃあ、一つずつ答えていこうかしら」 空になっている凌牙のグラスに再び水を注いだ静流は、自身のグラスに残った水を飲み干 す。 「まずは、なぜ私が凌牙君を知っているのかというと、昔、ソフィアさんとちょっとした縁 があったのよ」 「母さんと?」 「そう。あの人に狙われて生きていた人間って今までに二人しかいないって知ってた?一人 は私で、もう一人は真島烈、あなたのお父さんね」 静流の言葉に、凌牙は育ての両親を思い出す。 真島烈とソフィア、現在のメタル・ガーディアン指令と副司令という立場にある夫婦は、 出会いから結婚に至るまで、その全てが血に塗れていたと聞く。 「赤い満月の夜に、朽ち果てた教会で血塗れの二人だけで挙げた結婚式……凌牙君の両親は 随分とロマンチストね」 「今では半ば伝説ですよ。まぁ、あの二人以外に証人がいないんで、実際はどうだったのか は知りませんが」 既に飽きるほど聞いた、冗談としか思えない育ての両親の逸話に、凌牙は苦笑いで応える。 「そういう訳で、私はソフィアさんを通じて凌牙君の事を何度も聞いていたわ。あの人が本 当に嬉しそうに話すものだから、こうやって会うのをすごく楽しみにしていたの」 「そ、そうでしたか」 屈託の無い静流の笑みを正面から見る事が出来ず、凌牙は顔を下へと向けながら言葉を返 す。 「次の疑問は、私がなぜ凌牙君の動きを知っているのか、といった感じかしら?」 静流の言葉に、凌牙は沈黙で応える。 それを肯定だと理解した静流は、それはね、と机の下に置いてあった薄い青のノートPC を取り出し、起動させた。 「あなたの動きを見たい、って言ったら、ソフィアさんがこれをくれたのよ」 細く白い指を滑らかに動かした静流は一つのファイルを開き、その内容が凌牙に見えるよ うにノートPCを彼の方へと向ける。 そこに凌牙が視線を向けると同時に、それは始まった。 『このエロ助! ド変態! 腐れ外道! お前なんか阪神戦の日に巨人帽かぶって阪神電車 乗ってまえ!』 そこには、凄まじい怒号と共に手当たり次第物を投げつける一人の下着姿の女性が正面か ら映し出されていた。 少しばかり小振りな胸と、健康的な肢体の中で最も大事な部分を隠す飾り気の無い白い下 着以外に何も身に着けていないその女性、篠原早希は、恐らくは風呂上がりであろう湿った 髪を振り回しながら、部屋の中にある物全てを吐き出さんばかりの勢いで物を投げ続ける。 『待て! 落ち着け! とりあえず落ち着け! 俺は落ち着いているから、お前が落ち着け!』 早希と相対する形――この光景の撮影者に背を向けている形――で彼女に声を投げかけて いるのは、黒いジャケットを羽織った長身の男。 『……なんでウチのこんな姿を見て落ち着いてるんや、このアホたれ! 豆腐の角に頭ぶつ けて死んでまえ!』 男の言葉を聞いて更に怒りのボルテージを上げた早希は、物を投げるペースを加速させて いく。 本、工具、食料品、服、ぬいぐるみ、その他ありとあらゆる物が早希の手に収まり、投げ られていく。 『だから待てと言っている! 俺はただ、お前に借りていた本を返そうと』 『その本返していらんから今の記憶を全部ウチによこせ!』 いまだに怒りを抑えきれない早希は、部屋の入り口付近に置いてある赤いマウンテンバイ クを掴む。 『いっぺん死んでこい!』 力仕事の多い鋼騎の整備で培ったものか、それとも興奮状態が彼女の力を引き出したのか、 軽々とマウンテンバイクを頭上へ掲げた早希は、勢い良く両手を振り下ろす。 「…………」 ディスプレイの中で繰り広げられる大騒動を見つめる凌牙の表情は動かない。 ただ、何かの言葉を発しようとする口だけが、死にかけた魚のように空しく動いている。 「こ、れ……は?」 ディスプレイの中の早希が『これで死なんかったら鋼騎用のドリル持って来ちゃる!』と 叫ぶ声を聞きながら、凌牙は静流の方へと恐る恐る顔を向ける。 「凄いわよねえ、凌牙君。あれだけの物を投げられて一つも落とさずにキャッチしてるんだ から」 その言葉に、凌牙は改めてディスプレイを見直す。 さすがに投げる物が無くなってきたのか、下着姿のままの早希は冷凍庫の扉を開け、その 中に入っている氷を投げつける。 静流の言葉通り、黒いジャケットの男、月守凌牙はそれを一つも落とす事無く受け止めて いる。 彼の足下には今まで早希の投げた物が山と積まれているが、その周辺以外に物が落ちてい る場所は無い。 それは、凌牙が全ての物を掴み、自分の足下に置いている事の証明に他ならない。 「自分では気付いていないかもしれないけど、凌牙君の動きはとても綺麗で無駄が無いのよ。 だから、そういう事が出来る」 話をしながらノートPCを操り、動画を停止させた静流は、凌牙の顔を覗き込むかのよう に身を乗り出す。 静流の持つ薄い青の瞳が、凌牙の黒い瞳を捉える。 「だから、私は凌牙君を選んだのよ。私の設計した新型鋼騎、咬牙王のフェンサーに」 互いの吐息が重なりそうな距離で、静流はゆっくりと言葉を紡いだ。 凌牙は何も応えない。 応えられない。 何か言葉を発そうとするが、過剰な運動を始めた心臓のせいで口が上手く動かない。 「でもね」 顔を真っ赤に染め、動きを停止してしまった凌牙の額を静流は人差指で軽く突き、悪戯っ ぽい笑みを浮かべる。 「女の子の下着姿を覗くような子に咬牙王を預けるの、ちょっと不安かも?」 「いや……! あ、あれは」 「分かってるわよ。この映像の事はソフィアさんから聞いているから」 そう言った静流は身を戻し、代わりに右手を差し出す。 「何はともあれ、これからよろしくね」 「はい。よろしく、お願い、します」 何とか呼吸を整え、途切れ途切れ言葉を発した凌牙は、ゆっくりと手を伸ばし、静流の右 手を握る。 この時、彼女の手から伝わったきた温もりは、もう二度と戻らない。 『凌牙様、咬牙王の転移は無事に終了しました』 耳に入る静かな声が、凌牙の意識を現実に引き戻す。 同時に視覚も現実に戻した凌牙は、黒刃の格納庫の壁を見ながらも、言葉を発しない。 『何か問題でもありましたか』 「いや、何も無い」 次いで聞こえてくる斬華の声に応えた凌牙はHMLSを停止させながら、自分の右手に視 線を移す。 つい先ほど自分の故郷とも言える場所で破壊を行った右手に、敵の命を奪い尽くした感触 は残っていない。 代わりに感じるのは、わずかな時間の間に見た過去の風景で握った、最愛の女性の温もり。 正確には、その温もりを思い返して得られる擬似的な感触にしか過ぎないが。 咬牙王とのリンクを断った凌牙はコクピットハッチを開き、鏖魔の本拠地である巨大空中 戦艦「黒刃」の格納庫に身を晒す。 「お帰りなさいませ」 コクピットから出てくるタイミングを見計らっていた斬華が、咬牙王の足元で深く礼をす る姿を見下ろした凌牙は、過去の姿と同じく、地上二十メートル以上の高さから何気ない動 作で宙へと身を投げる。 そして、やはり過去の姿と同じく咬牙王の装甲を足場にして地面へと降り立つ。 「新しい身体の調子はどうでしたか」 「思ったよりも使えるな。さすがは鏖魔の肉体、といったところか」 斬華の言葉に応えつつ、凌牙は足早に格納庫の入り口に向かって歩を進めていく。 「終破様が他の鏖魔を目覚めさせ、制御室で凌牙様を待っています」 「ほう」 凌牙の一歩後ろの距離を正確に保ちながら告げる斬華の言葉に、凌牙は足を進めながら彼 女の方に顔を向ける。 絶望と怨嗟に塗れた底の無い黒の瞳が、斬華の黄金の瞳を見据える。 「確か、鏖魔七将と言っていたな。ならば、お前と終破以外に五人の鏖魔がいるのか」 「はい。あとは」 そこで、斬華の言葉が止まる。 「どうした」 「いえ、気になさらないで下さい」 珍しく言葉を濁した斬華にわずかな疑問を感じながら、凌牙はそれ以上を問う事無く、視 線を正面に戻して歩き続ける。 西洋の城を思わせる内装が施された黒刃の長い通路に、二人の足音のみが規則正しく響く。 やがて、二人はそれ以降一切の言葉を交わさないままに、制御室の扉の前に到着した。 「さて、残りの鏖魔と対面させてもらおうか」 重厚な木製の扉を前に、凌牙は言葉とは違う無感動な表情で呟き、扉に手をかける。 見た目を裏切り、音も無くスムーズに開いた扉の奥に広がるのは、黒刃の心臓部であり、 鏖魔の頂点に立つ皇魔である凌牙の座るべき玉座の置かれた制御室。 そして、 「やあ。やっと来たね、僕達の新たな王、月守凌牙」 愛らしささえ感じる少年のような顔に微笑を貼りつけて、終破が二人を迎える。 その左右に五人の鏖魔を従えて。 「この鏖魔達の紹介をしたい所だけど、皇魔を立たせたままにする訳にもいかないね。さ、 玉座に座りなよ」 終破の言葉に従い、凌牙は名も知らない鏖魔達の視線を一身に浴びながら絨毯の上を進 み、玉座に腰を下ろす。 それに合わせ、七人の鏖魔は、凌牙の正面に終破を中心に横一列で並ぶ。 「さて、それじゃ、君から見て左から紹介していくよ」 七人の鏖魔の中心に立つ終破は左右に視線を動かし、再び口を開く。 「流鰐(るがく)」 その言葉に、左端に立つ赤いレザースーツに似た服に身を包んだ長身の女性が一歩前に出 る。 服と同じく燃えるような赤いロングヘアーを持つ、流鰐と呼ばれた女性は、言葉の代わり に鋭い、と呼ぶには余りにも凶暴な視線を凌牙に突き刺す。 だが、常人ならそれだけでショック死してしまいそうな凶悪な視線を受けた凌牙だが、そ れを全く意に介さないまま、無言で終破に次を促す。 自分の威嚇が応えないどころか、完全に無視されてしまった形になってしまった事に、流 鰐は名が示す通りの攻撃的な顔に怒りを浮かべるが、終破の無言の制止を受けて引き下がる。 「相変わらず流鰐は気が荒いね。そう思わないかい、虎強(こごう)」 次いで呼ばれたのは、流鰐の隣に立つ、二メートル半はあろうかという巨漢。 下は膝までのジーンズに上は獣の皮を思わせる素材のベストのみというラフな格好の巨漢、 虎強は、過剰とも思えるほどの筋肉の鎧に覆われた巨体を揺るがし、凌牙の正面に立つ。 「お前さんが新しい皇魔かい。確かに恐ろしい目をしとるわ」 顎から頬を覆う力強い髭を撫でながら、満足そうな笑みを浮かべた虎強は元の位置に戻る。 「で、斬華と僕はもういいとして。次は」 「俺だよ」 終破の言葉を遮って凌牙の前に踊り出たのは、彼の右に立っていた中肉中背の男。 見る者の目を引く青の短髪を持ち、ビジュアル系バンドのメンバーを思わせる黒い派手な 上下に銀の鎖や指輪で装飾を施した男は、凌牙を侮っているかのような軽薄な笑みを浮かべ る。 「俺の名は臥重(がじゅう)。ま、よろしく頼むわ皇魔さんよ」 見た目と違わぬ軽い声でそう告げた臥重は、踊るような身軽さで元の位置へと戻る。 「やれやれ、この場を仕切ってる僕の立場が台無しだよ……双滅(そうめつ)」 臥重が戻ると同時に苦笑交じりの言葉を漏らした終破は、次の鏖魔の名を告げる。 それに応じたのは、臥重の右に立つ長身痩躯の男。 「……双滅だ」 ただ痩せているのではなく、病的な身体の細さを有する双滅は、他の鏖魔とは違い、その 場から移動する事無く、生気の宿らない顔を凌牙に向け、消え入りそうな声で自分の名を告 げる。 顔を覆い隠すように垂れている黒髪も、彼の不気味な印象を際立たせている。 「心配無い、彼はあれで普通なんだよ。じゃ、最後は戯弾(ぎだん)だね」 「拙者は戯弾。今よりお主の家臣となる」 終破の言葉に応じたのは、鮮やかな金髪を後ろで結んだ着流しの男。 体格はそれほどではないが、無骨な顔から覗く力強い青の瞳と、鍛え上げられた鋼のよう な筋肉が、それぞれに戯弾の実力を自己主張している。 「これが鏖魔七将だよ。どうだい凌牙? 君の役に立ちそうかい?」 「さて、な」 自分の部下の紹介を一通り聞き終えた凌牙は、自分の手足となる七人の鏖魔に何ら興味を 示す事無く玉座から腰を上げる。 「他の鏖魔がどんなものかと思えば、大した実力も無い奴ばかりだな。これなら目覚めさせ る意味など無い」 新たなる主の言葉に、目覚めたばかりの五人の鏖魔に不穏な空気が流れる。 表情に出ている者と出ていない者の差はあるものの、それぞれが決して愉快ではない想い を抱いている状態の中、凌牙は正面に立つ部下を見渡し、再び口を開く。 「分からなければもう一度言ってやる。実力の無い連中が集まっても無意味だ。眠りたい奴 はもう一度眠っても構わんぞ。二度と目覚める事は無いがな」 そう告げ、凌牙は制御室の入口へと歩きだす。 「ちょっと待ちな!」 制御室を出ようとする凌牙の背に、怒りに塗れた声が降り注ぐ。 声を発したのは、赤いレザースーツの女、流鰐であった。 「新しい皇魔だか何だか知らないけど、随分私達を舐めてくれるじゃないか!」 怒りを爆発させた流鰐は、彼女の怒りを象徴するかのような赤いロングヘアーを振り乱し ながら、この場を去ろうとする皇魔へと詰め寄る。 「流鰐様、そのような事は」 「まあ、ここは流鰐に任せようじゃないか」 凌牙に詰め寄る流鰐を止めようとした斬華を手で制した終破は、興味深そうな瞳を流鰐に 向け、笑みを浮かべる。 「今目覚めた彼らが凌牙の事を知るいい機会だよ」 言葉を紡ぎながら、終破は過去を思い返す。 絶対の存在と信じていた皇魔、始炎(しえん)が人間に敗れた日の事を。 「人間風情が我に、皇魔に向かって戯言を」 五年前、先代の皇魔であった始炎は、玉座に座ったまま、自らの前に立った人間を前に嘲 笑と共に告げた。 腰の位置よりも長く伸びた、全ての色を寄せ付けない美しく輝く純白の髪に、妖しく輝く 深い紅の瞳を持つ始炎は、何者よりも強く、美しい存在であった。 「すぐに笑えなくしてやる」 対する人間の男は、この世の全てを喰らい尽くしても足りないほどの殺意を全身から発し ながら、始炎に一歩詰め寄る。 「あくまで我に逆らうか。それも良かろう」 立ち向かってくる人間を前に、始炎は皇魔としての威厳を見せつけるかのように、ゆっく りと玉座から立ち上がる。 きめ細やかな美しい白い肌と、深いスリットの入った艶やかな深紅の紬がそれぞれにこの 世のものとは思えぬ美しさを生み出し、彼女こそが唯一無二、至高の存在であると高らかに 主張していた。 「来い、人間。お前の短い生に、我が最後の楔を打ち込んでくれる」 「お前の死が、俺の復讐への第一歩だ」 殺意に満ちた言葉を交わした直後、二人は戦闘を開始した。 そして、最後に生き残ったのは、人間の男。 次なる皇魔、月守凌牙であった。 「終破様は、本当に流鰐様にこの場を任せるつもりですか」 「まあね。とはいえ、ここで暴れられのは勘弁してほしいかな」 わずかな間ではあったが、始炎の姿と、彼女と凌牙の戦いを思い出した終破は、今にも爆 発しそうな流鰐を見て苦笑し、彼女らの所へと歩き始める。 「流鰐も凌牙も、ここで暴れるのは遠慮してほしいんだけどね」 「終破、あんたに用は無いんだよ!」 凌牙のみならず、声をかけた終破にさえも殺意を向ける流鰐を前に、終破は先ほどからの 苦笑を浮かべたまま応える。 「そう尖らないでほしいな。僕は君を抑えようとしている訳じゃない。むしろ、暴れるなら 好きなだけ暴れても構わない。君も他の鏖魔も、凌牙の実力を確かめたら気が済むだろう? ただ、ここで暴れられると最悪の場合、黒刃が沈んでしまう」 凌牙の言葉を聞き、わずかながら冷静さを取り戻したのか、一呼吸の間を置いた流鰐は、 先ほどよりも落ち着いた口調で問いかける。 「それじゃあ、場所さえ選べばアタシがこいつを殺しても文句は無いって事かい?」 「そういう事さ。凌牙もそれでいいかい?」 「構わん。目覚めたばかりで死にたがるとは、酔狂な奴だ」 凌牙の言葉に、再び流鰐の怒りが爆発しそうになるが、終破の言葉を思い出し、限界寸前 の所で踏みとどまる。 「終破! こいつを殺せる場所に案内しな!」 「分かったよ」 流鰐の怒号に応え、二人を先導する形になった終破を先頭に、三人は制御室から姿を消し た。 「それでは、私は凌牙様の元へ参ります」 それを追うように、斬華は残された鏖魔に一礼をし、足早に部屋を去る。 「さてと。先走っちまった流鰐は、どうなるんだろうな」 制御室に訪れた静寂を即座に打ち破ったのは青い髪の鏖魔、臥重であった。 「流鰐では、あの男に勝てんじゃろうな」 「然り」 その言葉に、巨漢の虎強と着流しの戯弾がそれぞれ応える。 「……死んだな、流鰐」 その後に、双滅の消え入りそうな声が続く。 「流鰐が死ぬなんて事はどうでもいいが、あの皇魔の力は一度見てみたいな。……よし、俺 達も行くぜ」 臥重の言葉にそれぞれが応じ、四人の鏖魔は制御室を後にした。 第四話 鏖魔七将(前編)