某月某日、都内某所。 駅前の繁華街に位置する居酒屋に、彼らはいた。 駅雨という立地で、今日が週末という事もあり、仕事帰りのサラリーマンで賑 わう店の奥に陣取る二人の男は、それぞれの手にグラスを収めつつ、赤みがかっ た顔を綻ばせて会話を進めていく。 「しかし爺さん、お姫さんを追いかけて仕事フケるとは、なかなか面白いじゃね えか」 ノーネクタイの黒のスーツを身に着けた男、真島烈は、獣のような精悍さを持 つ顔を崩し、豪快な笑声をあげる。 「いやあ、すまねえ。ちっとばかし盛りあがっちまってよ」 烈の対面に座るのは、居酒屋には似つかわしくない白衣を身に着けた初老の男、 高遠光次郎。 言葉とは裏腹に悪びれた様子の無い光次郎は、軽い悪戯を咎められた少年のよ うな笑みを浮かべながら、日本酒の入ったグラスを傾ける。 「なにしろ、クレイオンの奴がいてもたってもいられねえ、って様子だったもん だからよ」 向かいでグラスに入ったテキーラを一気に煽り、次の酒を注文する烈を見なが ら、光次郎はクレイオンと共に孫娘の後を追いかけた日の事を思い返す。 友人と買い物に出かけた孫を見届けるはずが、思わぬ波乱の連続になってしま い、ちょっとした事件となった日の事を思い出す光次郎の口の端が持ち上がる。 「騎士さんも大変だな。早希はアレを分解したがってやがるし」 「クレイオンのやつぁ困ってるが、あのお嬢ちゃんは活きが良くていいねぇ。最 近の若いモンはどうも冷めてていけねえや」 「爺さんになっても活きが良いと、孫を追いかけて自分の仕事フケちまうんだろ?」 「それが長生きする秘訣、ってモンよ」 そりゃ結構、と笑い飛ばした烈は、新たに手にした酒を一気に飲み干す。 「おいおい、そんなに飲んで大丈夫かよ?」 「破鋼拳を使う奴は、呼吸のおかげでアルコールの分解が早いらしくてな。こう でもしないと酔えねえんだよ。酒代がかかってしかたねえ」 空になったグラスをテーブルに置き、代わりに懐から取り出した煙草に火を点 けた烈に合わせ、光次郎も煙草を取り出す。 この日、二人が互いの庭の外で酒席を共にしているのは偶然ではない。 光次郎がクレイオンと共に孫娘、マドカを追いかける日に果たすべきであった 用件である科学雑誌、「月刊 科学野郎Aチーム」の取材が今日改めて行われ、 その場に烈が同席していたのだ。 科学者でない烈がその場にいたのは、雑誌の特集として予定されている「鋼騎 の明日を考える」という対談のためであり、それはつまり、 「あの日はずっと待ちぼうけだったのかい?」 「俺個人への取材もあったけど、対談は一人じゃできねえよ」 「そりゃ悪かった。まあ、たまには島の外で一息つけた、って事で許してくれや」 「ああ、そういう事にしときますか」 口から紫煙を吐き出し、吸い終わった煙草を灰皿に押しつける二人の男の間に 入るように、店員が注文された品をテーブルの上に置く。 「……おい、爺さん」 新たな酒を注文し、二本目の煙草を取り出そうとした烈の言葉と表情が、突如 として硬質なものへと変化していく。 「ん?」 「こりゃ、どういうこった?」 先ほどまでの笑みの一切を消した烈の視線が注がれているのは、今テーブルに 運ばれた皿。 その上に盛られているのは、 「どうもこうも、焼き鳥じゃねえのか?」 「ああそうだよ。これは焼き鳥だ」 皿の上に盛られた十本ほどの焼き鳥を前に、烈は、だけどよ、と言葉を続ける。 「何で一本もタレがかかってねえのか、って事が言いたいんだよ、こっちは」 「あぁん? タレだぁ?」 烈の言葉を受け、今度は光次郎の表情から笑みが消える。 「焼き鳥つったら塩に決まってるだろうが。これだから若いヤツぁいけねえ」 普段なら気にも留めない事なのだが、酒の影響もあり、反論する光次郎の語気 は荒く、強い。 「おいおい爺さん、もうボケがきちまったか?」 運ばれてきた酒を変わらず一気に飲み干した烈は、グラスを少しだけ強くテー ブルに叩きつける。 「焼き鳥はな、タレで食うんだよ、タレで。これだから脳ミソが止まりかけてる 世代は」 「真島の倅(せがれ)め、言ってくれるじゃねえの!」 酒の力が加わった、元来の短気な気性に火が点いた光次郎は声を荒げ、身を乗 り出す。 店内に響き渡った怒声に、周囲の客の視線が集中するが、二人はそれらの視線 など意に介さない。 「こちとらテメェが生まれる前から塩で食ってんだ! 鼻タレ坊主は黙ってろ!」 「先に年食っただけで威張ってんじゃねえよ! 棺桶が近いジジイは大人しくし とけ!」 その剣幕に気圧され、店内が静まり返る。 「あ、あの……お客様?」 この事態を収拾すべく、店長である中年の男性が二人に声をかけるが、 「んだテメェは!? グダグダ抜かしてるとテメェの家の前で鋼騎の演習すんぞ!」 咆哮にも似た烈の怒声の前に言葉を失ってしまう。 「ともかく、俺ぁタレなんてニセモノなんざ絶対に認めねえ!」 「上等だジジイ! 表出ろ! タイマンだコラ!」 永遠に分かりあえる事の無い命題を背負った二人の舌戦は、この後、二時間に渡っ て繰り広げられ、店長の決死の懇願により、ひとまずの終焉となったのであった。 「で、こういう事になったのね?」 居酒屋の一件の翌日、自室のベッドで横になっている烈を見下ろしながら、白の ワンピースを着た白人女性、ソフィアは呆れた顔で手に持っている一枚の紙に目を 通す。 そこには、「合同模擬戦開催の件」というタイトルの下に、その詳細が書かれて おり、最後は烈の直筆のサインで締められている。 ソフィアは紙を折りたたみながら、破鋼拳の呼吸をもってしても御しきれないほ どのアルコールを取り込み、二日酔いでダウンしている夫に再び視線を移す。 「……模擬戦の話自体は、前々から話には出ていたんだよ」 ベッドで横になったままの烈の言葉は、普段から考えられないほどに弱々しい。 烈の率いるメタル・ガーディアンを始めとして、人型の戦闘用機動兵器を有する 組織が協力関係にある現在、各組織はそれぞれの持つ技術や知識を共有し、互いの 発展に役立てている。 その中で話題にあがっていたのが、それぞれの組織が有する機体を直接戦わせ、 戦う者は経験を、バックアップする者はデータを手に入れよう、というものであっ た。 だが、直接の戦闘行為は模擬戦であろうとも危険である事に変わりなく、万が一 の事態を考えると、なかなか実行に踏み出せないままでいたのだ。 「ちょうどいい機会、と捉えるべきじゃないか?」 「こうなった経緯を知らなければね」 昨夜遅く、泥酔して帰って来た夫の口から今回の経緯を全て聞いたソフィアは、 苦笑しながら烈に水を渡す。 「それにしても、男って変な所にこだわるのね。ヤキトリの食べ方一つで大騒ぎし ちゃうなんて」 「男には引けない場面があるからな」 上体だけを起こして水を飲み干した烈は、ソフィアの持っていた紙を受け取ると、 泥酔した勢いのまま綴った自分の文章を改めて確認する。 他の組織とは違い、日本の公的機関であるメタル・ガーディアンの長としての真 島烈が書いたその文面は非常に硬く、文章だけを見れば、いかにも堅物の役人が書 いたのだという印象さえ与えてしまうものであった。 ソフィアにチェックを任せたとはいえ、泥酔しながら書いたにしては上手く出来 た文面に目を通す烈は、その内容を再度確認する。 目的――あくまで表向きの、ではあるが――は、組織間の交流と発展。 日程は一週間後。 場所は、創世島の地下にある鋼騎の室内演習場。 模擬戦を行うのは、 「それにしても」 自分の思い描いていた予定が間違い無く書かれている事を一つずつ確認していく 烈の頭上から、妻の声が投げかけられる。 「悠羽とクレイオンで模擬戦なんて、ね」 「まあ、元々は俺と高遠の爺さんが原因だしな」 内容全てに目を通し、ミスが無いと判断した烈はソフィアに紙を返し、新たに注 がれた水を飲み干す。 「剣を相手にどう戦うか、悠羽にとっても良い経験になるだろうさ。……じゃ、そ いつを各組織に通達しといてくれ」 「ええ、分かったわ。それじゃ、おやすみなさい」 最後に、夫の唇に自身の唇を重ねたソフィアが部屋を出ようとドアノブに手をか けた時、 「ソフィア」 「あら、どうしたの?」 ソフィアの持つ青の視線と、烈の黒の視線が重なる。 「……お前は、焼き鳥は塩とタレ、どっちが好きだ?」 「そう、ねえ」 普段あまり食する事の無い料理の好みを聞かれたソフィアは、宙に視線を移し、 思案する。 「私なら、チーズとバジル、あとはトマトソースで頂くわね」 「……それ、焼き鳥じゃねえだろ」 「細かい事は気にしないの。それじゃ、また来るわ」 烈の批難しみた視線を笑顔一つで流したソフィアは、手を振って部屋を後にす る。 「さて、あの爺さん、ちゃんと応えてくれっかな」 一週間後の事を思いながら、烈は再び眠りに落ちた。 これが、後に「焼き鳥代理戦争」と呼ばれる、合同模擬戦の始まりであった。 マドカの尾行で流れてしまった、科学雑誌、「月刊 科学野郎Aチーム」の取 材を改めて受けている高遠光次郎博士を迎えるため、銀のスポーツカー、「HA YATE」に魂を宿した鋼の騎士クレイオンは、博士のいるホテル付近の道路に 停車していた。 自身の前後に何台も並ぶ命を持たぬ車と同様に、路上駐車という形で停車して いるクレイオンは、ホテルから出てくる博士を見落とさぬよう、また、路上駐車 を取り締まる者の存在を感知できるよう、動きを止めながらも、意識を周囲へと 拡散させる。 それなりに大きな駅前の道路は交通量が多く、様々な車が自分の右側を横切っ ていく。 左に意識を移せば、道路と同じく広い幅を持つ歩道の上を、多くの人が行き交っ ている光景が見える。 そろそろ夕刻から夜に差し掛かろうという時間のため、歩道を行く人は、これ から帰宅するのであろうサラリーマンや学生が主体であるが、今日が週末という 事もあり、繁華街の方へと流れていく人の数も決して少なくは無い。 博士が出てくるまでの間、下手に動く事も出来ないクレイオンは、ただ漠然と 人の生み出す流れを見ていたが、その中のある一点に意識を奪われる。 それは、自身が仕える姫、高遠マドカの通う聖流女子学園の制服を着た少女で あった。 無論、クレイオンの意識の先にいる少女はマドカではない。 それどころか、マドカと同じく姫としての宿命を背負った志穂やアスミでもな い。 クレイオンが捉えているのは、ただマドカと同じ学校に通っている、というだ けの、自分とは何ら関係の無い存在でしかない。 「……むぅ」 自身の左側を歩く歩行者に気付かれないほどの音量で、クレイオンは唸り声を 放つ。 ブレイブナイツのメンバーを始めとする仲間の存在は、非常に心強く思う。 だが、多くの仲間との出会いは、同時に多くの敵との遭遇でもあった。 新たな敵の出現は、命を賭けて守るべき姫の危機に直結する。 いつ、誰が、どのような理由で姫を狙うのか分からないのだ。 結果、クレイオンは以前にも増して姫、マドカの警護に力を注ぐべく、決意を 新たにしたのだが、今の状況は、その決意通りとはいっていない。 本来なら自宅にいる姫の傍を離れたくは無かったのだが、その姫に直接、博士 の迎えを頼まれたのでは、断る事が出来なかった。 こうなったら博士を出来る限り早く乗せて、急いで帰ろうと思っていたクレイ オンの思惑とは裏腹に、予定の時間を過ぎても博士の姿は見えない。 ――姫 太陽が完全に沈みかけ、鮮やかな人工の光に包まれた街が昼の顔を脱ぎ捨てて 生まれ変わっていく流れを路上で眺めるクレイオンの内側に、焦り不安を凝縮し た感情が生まれ始める。 「随分と迷っているな」 それは、左側から聞こえた。 抑揚の無い、ヒトとしての決定的な何かが抜け落ちた男の静かな声は、助手席 側からのものであった。 街の騒音に消されそうな音量の声は、しかしクレイオンに確実に伝わり、それ が自分に向けられたものだと理解出来るものであった。 「何者だ!」 夜の装いを施した街の騒音の中に溶ける限界まで音量を上げたクレイオンは、 警戒心と敵意を声に乗せ、問いかけると同時に、声の主を確認すべく、左へと意 識を向ける。 助手席側のドアに背を預ける体勢のため、顔は見えないが、それが、黒のスー ツを身に着けた長身の男という事を認識する。 靴から髪に至るまでが黒一色に染められた男は、街を眩く照らす人工の光の一 切を拒絶したかのような存在であった。 「確か、クレイオン、といったか」 夜の闇を体現したかのような男の口から漏れる声は、地獄の底で研ぎ澄まされ た氷の冷たさと鋭さで放たれる。 「お前は何者かと聞いている!」 第三者が見れば、男が愛車に寄りかかっているようにしか見えない構図のまま、 両者は言葉を交わす。 先ほどよりも攻撃性を強めた問いを発しながら、クレイオンは、突如として現 れた男について考えを巡らせる。 前提として、この男は敵、あるいはそれに限りなく近い存在である事に疑いは 無い。 敵、という単語からクレイオンが最初に連想するのは、仇敵であるギルナイツ だが、この男の雰囲気は暗黒騎士のものとは違う。 加えて、自分は声が聞こえるまで、男の存在を感じられなかった。 自分の身体の一部に接触されているのにも関わらずに。 「そう吠えるな。今日は事を構えるつもりは無い」 クレイオンの問いには応えない男の黒い髪が風に揺れる。 「今日はお前を、クレイオンという騎士を見に来ただけだ」 「私を見に来た……だと」 男の告げた意外な言葉に、クレイオンは警戒する事さえ忘れ、思わず言葉を返 してしまう。 この男が姫を狙う可能性は考えていたが、まさか自分に会う事が目的だったと は、全くの予想外だったのだ。 「ああ。お前という存在に興味がある、と言った方が分かりやすいか」 クレイオンに背を預けたまま、男は氷の声を紡ぎ続ける。 分かりやすい、と言われたが、クレイオンは未だに男の意図を掴めないままで いた。 そんな騎士の内心を読み取ったのか、男は相手の返事を待たずに言葉を続ける。 「お前は、かつての俺と同じだ」 この時、夜の空気を凍らせる男の声に、初めてわずかな感情が浮き上がる。 「世界を守る、という理想を掲げた集団の中にあって、お前は守るべき想いを、 ただ一人に向けている」 言葉の奥にかつての自分を重ねているのか、男は顔を上げ、視線を夜空へと移 す。 「お前にとっての守るべき世界は、その一人を中心としたものでしかない」 淡々と告げられていく言葉を聞くクレイオンは、それに対し、何かを返そうと はしない。 その無言は、どんな言葉よりもはっきりと、男の言葉を肯定しているという事 に気付きながら。 騎士であるクレイオンにとって、姫の存在は世界の全てに優先される。 もし、有り得ない事だが、姫が心から世界の破滅を望めば、自分はそれを叶え るために動くだろう。 「例えば、だ」 死鳥の爪牙にも似た男の右腕が、ゆっくりと水平の高さに上がる。 「今ここで、俺が目の前の人間を何人か殺したとしても、お前は動じたりはしな い。それがお前の守る対象と無関係である限りはな」 「……お前は何が言いたい」 結論の見えてこない男の話に、クレイオンの言葉に怒りと苛立ちの色が滲む。 が、右手を上げたままの男は、人混みに視線を移したまま応えようとしない。 冬の到来を告げる冷たい夜風が、二人の間を通り過ぎる。 「お前の護る姫、マドカという女」 その夜風さえも熱風に感じられるほどに冷え切った言葉が、男の口から吐き出 される。 ゆっくりと右腕を戻した男は、自分が背を預ける銀の騎士がわずかに動揺して いる事を認識し、口元に酷薄な笑みを浮かべる。 「それが、人間の手によって殺されたなら……どうする」 告げられた言葉に返されたのは、銀の車体から発せられる膨大な怒気と闘気。 クレイオンが放つ圧倒的な圧力は夜の大気をも震わせ、周囲の通行人が思わず 足を止め、路上に停車する銀の車と、それに寄りかかる男へと不審な視線を投げ かける。 「予想通りの反応だが、心配するな。少なくとも俺は何もしていない」 足を止めていた通行人が再び動き始めたタイミングに合わせ、クレイオンの圧 力を前に顔色一つ変えない男は、口元の酷薄な笑みを更に深める。 「やはりお前は俺と同じだ。あの姫が人間に無惨な殺され方をした時、お前は人 間を鏖(みなごろし)にする」 そう一方的な結論を突きつけた男は、その身を銀の車体からわずかに離す。 「待て! 今の言葉はどういう意味だ!」 「今日はここまでだ」 もはや周囲の事など気にかけないクレイオンの叫びを軽く受け流した男は、別 れの挨拶とばかりに右手で助手席側のドアを軽く叩き、そのまま人混みの中へと その姿を溶け込ませる。 「こうなれば――」 例え何者であろうと、姫に対して危害を加える可能性のある男を放置するわけ にはいかない。 そう判断したクレイオンは、街中であるにも関わらず変形し、男を排除しよう としたが、それを実行に移す前に二つの異変に気付く。 一つは、男の気配が完全に消失しているという事。 まるで存在そのものが消失したかのように。 もう一つは、 ――身体が……凍っている 「おぉ〜い! クレイオンさんよぉ!」 男が別れ際に触れた助手席側のドアが凍っている事を認識するのと、ホテルか ら出てきた高遠光次郎博士の声がかかったのは同時。 「いやぁ、すまねえ。待たせちまって申し訳ないんだが、これから真島の小僧と 飲みに行く事になってよ。クレイオンさんは一足先に帰っててくんねえか?」 「……そうさせてもらいます」 つい先ほどまで渦巻いていた感情を気取られぬよう、強く意識しながら短く応 えたクレイオンは、その穏やかならぬ内心を急加速に変え、姫の安否を確かめる べく、夜の街を疾走した。 「クレイオンさんよ、聞こえてんのかい?」 フロントガラス越しに車内を覗きこむ光次郎の声が、クレイオンの意識を現実 に引き戻す。 「申し訳ありません。こちらは大丈夫です」 「ならいいけどよ」 口にした言葉とは違い、完全に納得していない光次郎を見るクレイオンは、自 分の置かれている状況を再確認すべく、周囲を見渡す。 機械油が染みついた壁に囲まれ、大小様々な機械や部品が点在する空間、メタ ル・ガーディアンの格納庫は、あくまでスポーツカーの大きさしか持たないクレ イオンにとって広すぎるスペースではあるが、現在、この空間には、クレイオン と光次郎以外の者はいない。 普段は鋼騎を整備するためのスタッフがひしめくこの格納庫は、本日に限り、 クレイオンの「控え室」として機能している。 「訓練とはいえ遠慮する事ぁねえよ、月守のお嬢ちゃんに目にもの見せてやんな」 そう言ってフロントガラスを軽く叩いた光次郎は、それを別れの挨拶として、 クレイオンに背を向けて格納庫を後にする。 間も無く、広大な空間に残ったクレイオンは、これから行う模擬戦の相手、月 守悠羽という人間に思いを巡らせる。 特殊な呼吸をベースにした格闘術、真島流破鋼拳の使い手にして、メタル・ガー ディアンの有する鋼騎、聖炎凰を駆るフェンサー。 そして、左手に神の炎を宿す者。 ――恐らく、あの時の男は クレイオンが思い描く悠羽の姿に、先日出会った男が重なる。 同時に彼の中で、いつか聞いた、彼女の過去が甦る。 魂を凍らせ、悪魔の肉体を手に入れた男の話が。 彼の言葉通り、マドカの身に何も起こっていなかったため、あの日の接触は、 誰に伝える事も無く、クレイオンの中に留められている。 悠羽や、彼女の両親である烈やソフィアに伝える事も考えたが、あの男が「本 物」だという証拠が無いため、それも躊躇われる。 ――まずは、今回の模擬戦だな わずかな迷いを振り払ったクレイオンは、先日の接触から、間も無く始まる模 擬戦へと意識を切り替える。 光次郎と烈のつまらない諍いから開催の運びとなった模擬戦に乗り気でなかっ たものの、いざその時が近付くにつれ、精神が研ぎ澄まされていくのが分かる。 騎士としての誇り、純粋な闘志、そして何よりも姫の前で行う戦いに、いかに 模擬戦とはいえ、醜態を晒す訳にはいかない。 自らの持つ最大の信念を胸に、鋼の騎士は、ただ静かに戦いの始まりを待つ。 クレイオンが格納庫で控えている頃、彼の相手であるもう一人の主役、月守悠 羽の姿は自室のベッドにあった。 「せ、雪那さん」 模擬戦の開始までさほど時間が残されていない状況下において、未だベッドの 中にいる悠羽の口から漏れるのは、困惑の声。 「ん? なぁに?」 それを受けるのは、悠羽を正面から抱き締めて離さない白髪赤眼の女性、雪那。 一糸纏わぬ互いの鼓動を確かめるように、雪那は悠羽の首に腕を回し、自身の 方へと引き寄せる。 「そ、そろそろ時間が……」 わずかに頬を上気させ、身をよじる悠羽は、壁にかかった時計を見るよう視線 で促すが、雪那は意地の悪い笑みで応える。 「大丈夫だって。聖炎凰の調整は昨日のうちに済ませてあるんでしょ?」 「それはそうです、けど」 「じゃ、悠羽の準備はシャワーと着替えくらいじゃない。だから、まだ大丈夫」 「……雪那さん、ひどいです」 これ以上何を言っても無駄だと理解した悠羽は、視界の隅に時計を納めておく 事を意識しつつ、全身の力を抜いて雪那に身を委ねる。 「うんうん。素直でよろしい」 異世界の技術者によって設計された究極の造形を有する雪那は、見る者の魂を 奪う悪魔の美しさを持つ笑みを浮かべる。 その笑み受けた悠羽の鼓動が跳ね上がったと同時、二人の唇が重ねられる。 「んっ……はぁっ……」 不意打ちに等しい口づけに、悠羽は一瞬驚きの表情を浮かべるが、すぐに瞼を 閉じ、両腕を雪那の背中へと回す。 閉じた視界の中で感じるのは、雪那の本来の姿とは全く異なる、甘さと爽やか さの入り混じった匂いと、柔らかな唇に、自身の口内に侵入した舌の感触。 視覚以外の全てを酔わされ、狂わされていく口づけの音が、静かな室内に響く。 自らが奏でるその音が聞こえる度、悠羽の感覚は深く堕ちていく。 「よし、今はここまでにしようか」 いつまでも続くと思われていた口づけを、雪那は一方的な言葉で終わらせ、自 身の身体から悠羽を引き離す。 余りにも呆気ない幕引きに、悠羽は湿り気と熱を帯びた吐息を繰り返しながら、 潤んだ瞳で雪那に説明を要求する。 互いの唇を名残惜しそうに結ぶ銀色の橋を指ですくう雪那は、小さく喉を鳴ら しつつ、白い歯を剥き出しにして、サディスティックな笑みを浮かべる。 「どうしたの? もっと欲しいの?」 問いに、悠羽は俯き、言葉を紡ごうと何度か小さく口を動かすが、それらは言 葉にならないまま彼女の中に溶ける。 そして、気付れないほど小さく、首を縦に動かす。 その弱々しい自己主張を見届けた雪那は、しかし彼女の希望には応えようとは しない。 魔性の笑みを浮かべたまま、雪那は深紅の唇を悠羽の耳に近付ける。 「欲しいものは勝ち取らないと、ね?」 「勝ち、取る……?」 雪那に告げられた言葉の意味が呑み込めない悠羽は、惚けた表情を浮かべたま ま、耳に残る単語を繰り返す。 「そ。おねだりする悠羽も好きだけどね」 軽く悠羽の頭を掻きまわし、彼女の意識を覚醒させた雪那は、焦点の定まった 悠羽の瞳を見据え、つまり、と改めて口を開く。 「今日の模擬戦で、あのクレイオンって騎士に勝ったら、ご褒美をあげるって事。 どう? やる気出てきた?」 「……そんな約束が無くても、クレイオンさんとの模擬戦では全力を出します」 少し不満そうな響きを伴った言葉とは違う悠羽の内心を見抜く雪那は、内側か ら沸き上がる笑声を噛み殺しつつ、言葉を続ける。 「じゃあ、ご褒美はいらない?」 「それとこれとは話が違います!」 思わず身を乗り出して反論する悠羽は、自身の発言を顧みて赤面。 「そ、そろそろ準備しないと!」 顔を紅潮させたまま勢いよくベッドから飛び出した悠羽は、小走りで洗面所へ と向かう。 「ふふっ、本当に可愛いんだから」 間も無く聞こえてきたシャワーの音を合図に、雪那は大きな欠伸と共に腕を伸 ばして身体をほぐす。 「さて、今日の勝負はどうなるかな」 シーツの中で身を丸めながら、雪那は間も無く始まる模擬戦の行方を思う。 悠羽とクレイオンの戦いは、言い換えれば、格闘術と剣術の戦いである。 素手と剣、リーチを見れば悠羽の不利は明らかだが、それは逆に、懐に潜り込 む事が出来れば立場が逆転するという事でもある。 ゆえに、勝負の鍵を握るのは、両者の間合いであると見て間違いない。 だが、勝負の要所が明らかである以上、クレイオンが悠羽の接近を容易に許す はずなど無い。 今日まで、悠羽に多くの技術を教えてきたが、その中に、刀剣類を持つ相手へ の対処法は一切含まれてはいない。 そもそも、真島流破鋼拳には、他者に合わせた戦い方の定石というものが存在 しない。 己の肉体が持つ攻撃力を最大限に発揮する事に終始する破鋼拳にとって、他者 の持つ戦術や武器に意味は無い。 そこにあるのは、どのような相手であろうと圧倒的な暴力をもって制するとい う信念のみ。 ――まあ、今更アタシが教えられる事もない、か シーツの中で丸まりながら心地良いまどろみを享受する雪那は、シャワーを終 えた悠羽が服を身に着けていく様子を耳で確認する。 「雪那さん」 「ん?」 普段と変わらない服を身に着けた悠羽をベッドから見上げながら、雪那は眠た げな言葉を返す。 「本当に見に来ないんですか?」 「まあ、ね」 わずかに翳りを含ませた悠羽の言葉に応えながら、雪那はベッドから上体を起 こし、背もたれに身を預ける。 「正直言うとね、アタシ、あの騎士連中が苦手なんだ」 「苦手、ですか?」 物怖じしない、人見知りとは無縁にも思える雪那の口から出た意外な言葉に、 濡れた髪を拭く悠羽の手が止まる。 「苦手、というよりは、嫌悪とか憎悪って言葉の方が近いかもね」 笑みを絶やさない表情とは裏腹に、雪那から放たれる言葉は重く、硬い。 その言葉の意味を解せない悠羽に小さな頷きを返した雪那は、少し説明をしよ うか、と告げ、ベッドの上に胡坐をかく。 「悠羽は、魂ってモノを理解できる?」 「ん……何となく、ですけど」 思いがけない方向からの問いに多少戸惑いながらも、悠羽は漠然と浮かんだイ メージを言葉に変換する。 「魂っていうのは、生命の根幹というか、それなくして生物は生きていけない、 というか、そういったモノでしょうか?」 「そうだね、遠くないよ。肉体、脳と並んで、生命のあるソレをソレとして確立 させている要素の一つ、それが魂。この三つが揃って初めて生命は生命としての 自己を確立できる。脳だけで生きていける、って話を聞くけど、それはただの生 命活動の維持に過ぎない。自己の確立を表現する手段を持たないソレは、生命と 呼ぶには、余りにも弱いからね」 ここで一息入れ、悠羽の反応を伺った雪那は、話を続けても大丈夫だと判断し、 再び口を開く。 「でね、魂っていうのは、その生命の生き方、存在の在り方を決める重要な要素 なんだよ。王が王として生きていけるのは、生まれながらにして王の魂を持って いるから。歴史上に転がってる王位の簒奪者もまた、王として生まれなかっただ けで、紛れも無く王の魂を持っていたはずだよ。同じように、聖職者には聖職者 の、奴隷には奴隷の魂のカタチがある」 そして、 「あの騎士たちは、騎士としてのカタチをした魂を持っている。剣を手に執り、 誰かを護る事を本分とする魂を。あのお姫様達にも、姫としての魂が宿っている」 ここで、紅い視線が悠羽を射抜く。 ここから先は言わなくても分かるだろう、そう告げる視線を逸らした雪那は、 もう既に言う意味を失った続きを口にする。 「アタシに宿っているのは、鏖魔の、純粋な破壊者としての魂。アタシとあの騎 士達は、壊すモノと護るモノ。正反対のカタチをした魂を持つモノが一緒にいる と、ロクでも無い事が起こっちゃうからね」 破壊者としては余りにも美しすぎる裸身をベッドの上に曝け出した雪那は、口 元に、しかし破壊者にこの上なく相応しい歪んだ笑みを浮かべる。 「アタシがあの騎士達と出会ったら、さ。きっと、その瞬間に殺し合いだよ。ア タシは破壊者として、騎士達は騎士として。理屈じゃなく、魂が反発しあって互 いを滅ぼさなきゃいけなくなる」 ――だから、アタシはここにいる。 最後の結論を視線だけで伝えた雪那は、喋り疲れたのか、大きな欠伸をすると、 そのままシーツの中へと潜ってしまった。 「……分かりました。そういう事なら仕方ありません」 雪那の言葉を胸に落とした悠羽は、未だ名残惜しそうな表情を浮かべながらも、 それ以上の言葉を口にはせず、部屋の入口へと身を向ける。 「それじゃ、行ってきますね」 「うん。頑張って。ガツンとぶちかましておいで。悠羽の様子は、この部屋のテ レビからでも見れるしね」 シーツから顔だけを出して応える雪那の声を背に、悠羽は模擬戦に向かうべく 部屋を後にする。 ドアの閉まる音を合図に、部屋とは切り離された悠羽は、雪那の話を聞いて抱 いた疑問を、胸に浮かべる。 ――雪那さんが護るモノの魂を持つ人と一緒にいる事が出来ないのなら 知らず、神の炎を宿す左手に力が入り、掌の中に小さな火が生まれる。 ――雪那さんに惹かれる私の魂は破壊者のカタチ、という事でしょうか 胸の内で大きくなっていく想像を振り払うかのように、悠羽は走り出す。 既に炎の消えた左手で、魂の宿る胸を強く握りながら。 激突! 焼き鳥大決戦!(前編)