パラディンと咬牙王の戦いの一部始終を見ていたメタル・ガーディアンの司令部は、絶望 的な空気で満たされていた。 今の自分達が持つ最強の力が敗北したのだ。 それも、かつての自分達が誇りとしていた力によって。 「相変わらず反則みたいな強さしやがって」 左腕を失ったパラディンを見る烈の口から苦々しく吐き出された言葉に応える者はいない。 誰もが同じ想いを抱いているために。 この場にいる全ての者が月守凌牙と咬牙王の力は理解しているつもりだった。 だが、彼が敵になった時の恐ろしさは、その理解を遥かに超えていた。 「怖いわね。もう笑うしかないくらい」 烈の隣に座るソフィアの顔には自身の言葉とは違い、一切の笑みは無い。 彼女の持つ青い瞳は、我が子同然の兄妹が戦う光景を、ただ静かに見つめていた。 『今の一撃で分かっただろう。お前は決して俺には勝てないという事が』 モニターを通して聞こえるのは、勇者と呼ばれた男の声。 冷たく、背筋の凍えるようなその声に、五年前の面影は無い。 「司令、通信です」 『次の相手がやってきたようだ』 続けて放たれる凌牙の言葉と、力を失ったオペレーターの言葉が重なる。 「繋いでくれ」 『久しぶりだな、レツ。相変わらず猿山のボスに相応しい粗暴な顔をしているな』 地上の戦闘と切り替わってモニターに映し出された金髪の男は、挨拶としては無礼が過ぎ る言葉を英語で伝える。 表情だけは取り繕ったような笑顔のままで。 「英語は分からねえって言ってるだろ、このメリケン野郎。おいソフィア、このヤンキーは 何言ってやがる」 「烈の事愛してるらしいわよ。まったく、ジェラシー感じちゃうわね」 モニターに映る男、ブラウン中佐と同じく表面だけの笑みを浮かべた烈とソフィアは日本 語で言葉を交わした後、英語を話せるソフィアがモニターに向けて口を開く。 「無断で人の庭に土足で入ってきて、随分な挨拶ね。恥知らずなのはアメリカの伝統的な文 化なのかしら?」 『君にだけは言われたくはないな。私としては、君のような人間が過去の罪を償う事無く、 今こうやってその場所にいる事の方がよっぽど恥知らずだと思うがね。……まあいい、今日 はそんな話をしに来たのではない』 ソフィアとの会話を中断したブラウンは、右手に持っていた凌牙の写真をモニターに映す。 『今日は、君達の頭上で暴れているこの鏖魔をこの世界から消し去ろうと思ってね。鏖魔に 対しては国家や人種を超えて全人類が協力しなければならない、これは世界の常識だよ』 「あなた! 今凌牙の事を」 「止めろソフィア」 声を荒げ、椅子から立ち上がろうとするソフィアを烈が手で制する。 英語が分からない彼でも、息子同然に育ててきた凌牙を鏖魔と呼ばれた事がソフィアの感 情を乱した事は理解できた。 確かに凌牙の身体は鏖魔と化し、自身も彼を鏖魔として戦う事は決めている。 だが、部外者とも言える人間がいとも簡単に凌牙を鏖魔と呼ぶ事に耐えられるほど、その 関係は浅くない。 『見た所、君達の鋼騎は左腕を失って戦えそうにない。ここは我らの『ヴァルキリー』に任せ たまえ』 一方的な言葉と共に通信を終了したブラウンの顔がモニターから消え、映像が地上へと切 り替わる。 そこに映っていたのは、咬牙王の周囲を囲むように立つ五機の鋼騎の姿であった。 「五機か」 自分を包囲するような形で降下してきた五機の鋼騎が、背につけられた降下用装備を切り 離す光景を見ながら呟く凌牙の声に、感情は無い。 西洋の甲冑を思わせるデザインはパラディンと同じアメリカ製鋼騎の特徴だが、無駄な装 甲を徹底的に排除し、丸みを帯びた姿は女性の騎士を彷彿とさせる。 重装甲のパラディンと違い、装甲よりも機動性に重きを置いた設計の鋼騎は、そのスマー トなシルエットから女性型鋼騎と呼ばれる事が多いが、創世島に降り立った五機の鋼騎は、 まさに女性型と呼ぶのが相応しいものであった。 新たに現れた敵、ヴァルキリーを見渡す凌牙は、自分の正面に位置する一機を除き、他の 四機が武器を持っていない事に気付く。 彼らが持つ唯一の武器は、ヴァルキリーと同程度の長さを持つ、対鎧鏖鬼用の大型ライフ ルであった。 『凌牙様』 「放っておけ。もう勝負はついた」 命中すれば咬牙王の装甲を容易く貫くであろうライフルの存在に視線と意識を向けた瞬間 と、斬華からの通信は同時であった。 そして、斬華が言わんとしていた事を確認するかのように、凌牙は視線を別の方向に向け る。 その先に映っていたのは、地下へと繋がるリフトの上にまで移動し、この場から離脱しよ うとしているパラディンであった。 リフトが動き出し、地下へと姿を消していくパラディンを、咬牙王は止めようとはしない。 それは、もはや戦闘能力を失ったパラディンに何の価値も見出せなくなったためか、これ から始まる戦いに妹を巻き込まないためか。 間も無くリフトは完全に沈み、創世島の地上に存在するのは、咬牙王と五機のヴァルキリー のみとなった。 『聞こえるか、リョウガ=ツキモリ』 パラディンの姿が消えるのを待っていたかのように、咬牙王のもとへ、英語で話す男の声 が届く。 ソフィアから英語を教わっていたので、英語でのコミュニケーションに不自由の無い凌牙 だが、返事を返そうとはしない。 だが、通信機の向こうにいる相手は凌牙の返事を待つ事無く言葉を続ける。 『お前の身体に黒い血が流れている事は知っている。何がお前をそこまでの行動に駆り立て たのかもな』 通信機を通して聞こえる声は平坦であり、眼前の敵に対する憎しみのような感情を窺う事 はできない。 『アマネ博士の死の責任が全て我が国にあるというのは事実だ。その事に関しては、どれだ けの謝罪を重ねようと許されるものではないと理解している。だが』 淡々と語られる言葉に、凌牙は口を開こうとはしない。 『だが、五年前にお前のとった行動は、決して許されるものではない』 ここで言葉を切った男は、わずかに震え出した声を落ち着かせるかのように呼吸を整える。 『俺達はお前から愛する人を奪った。それは事実だ。だが、お前はその何万倍の人間の愛す る人や仲間、故郷を奪ったのだ! 自分の味わった苦しみを周囲に撒き散らす事に何の正義 がある! それが勇者と呼ばれた男のやる事か!』 「話は終わりか」 通信機を通して爆発する感情をぶつけられた凌牙は、相手に向かって初めて口を開く。 そこから放たれた言葉は、やはり氷のように冷たく、鋭い。 「どいつもこいつも同じような事ばかり口にして、何が楽しい。素直に過去の過ちを認め、 謝罪すれば俺が全てを許して握手を求めてくるとでも思っているのか。正義を説く事で何も かもが上手くいくという妄想をいつまで抱いているつもりだ」 嘲りの笑みを浮かべながら、凌牙は言葉を続ける。 その胸の奥に、一人の女性の姿を思い浮かべながら。 「お前達の愛する人間や仲間など何人死のうが知った事か。この世界の全ては静流への供物 なのだ。多少早く死んだ所で、何の問題がある」 『貴様!? 本気で言っているのか!?』 「嘘や冗談を言ったつもりはない。静流のいない世界に何の価値がある。静流の世界いない 世界にどんな意味がある。例え俺の目と耳を塞いだとしても、俺が自らの命を絶とうとも、 静流のいない世界は回り続ける。それならば、俺が世界を止めると決めた。静流のいない世 界を終わりにするために」 氷の冷たさで語られる狂気の言葉に、迷いは無い。 『……お前に少しでも人間性を期待した俺が愚かだったようだ。かつては同じフェンサーと して少なからず尊敬の念を抱いていたのだがね』 男の声と同時に、ライフルを持つヴァルキリーは左手を上げて後退する。 その動きに合わせ、四機のヴァルキリーの包囲が更に狭まり、互いの手が届く限界にまで 肉薄する。 四方から圧迫されるような形で包囲された咬牙王は、未だ構えすら取ろうとせず、ただ悠 然と成り行きを見守っている。 『遺言くらいは聞いておこう』 片膝をつき、手にしたライフルを構えながら、男は凌牙に最後の言葉を投げかける。 それは、かつて勇者と呼ばれた男への、せめてもの情けであった。 今にも飛びかかりそうな四機の鋼騎に囲まれ、その奥でライフルに狙われる。 そんな絶望的な状況においてなお、ヴァルキリーの通信機から聞こえてきたのは遺言ではな く、乾いた笑い。 他人を見下したその笑い声は、男に残された最後の情けを断ち切るには十分すぎるもので あった。 もはや以前の面影の残っていない凌牙に本当の絶望を抱いた男は、静かに口を開く。 『各員、作戦を実行せよ』 そして、指示を受けた四機のヴァルキリーが一斉に動き出す。 祖国の仇、人類の敵を滅ぼすために。 創世島の遥か上空に待機する鏖魔の戦艦、黒刃の制御室では、終破が床に投影される地上 の様子に視線を送っていた。 彼は今、皇魔である凌牙が座るための玉座に腰かけて地上の様子を見ているが、それを咎 める者はこの場にいない。 凌牙は地上、斬華は鋼騎を降下し終えた輸送機の始末をするための準備中である。 「しかし、実に面白くない戦いだね。数を揃えればいいという問題じゃないんだ、彼に対し ては」 誰に向けたわけでもない言葉が、終破の口から零れる。 顔立ちと同じく少年のような澄んだ瞳に映るのは、五機の鋼騎に囲まれながらも余裕の態 度を崩さない咬牙王であった。 決して虚勢ではない本物の余裕を持ち、緊迫した状態の周囲とは異なる世界に存在してい るかのようなその姿は、その名が示す通り、王の威厳さえ感じる。 「絶対的な強さ、特に彼の右手の前では、数など何の意味も持たない」 吐き捨てるように呟く終破の脳裏に浮かぶのは、かつて自分が見た月守凌牙の戦いと、彼 の右手が持つ驚異的な力。 数多の鎧鏖鬼を葬り、先代の皇魔をも滅ぼしたその力は、鏖魔である終破でさえ恐怖を覚 えるほどのものであった。 「さて、久しぶりに見られるかな。彼の右手、神氷掌(しんひょうしょう)を」 「恐らくは」 広い空間に、終破ではない女性の声が響く。 「斬華、まだいたのか」 「単身での転移はこの場でしか行えませんので」 終破の声に応えた白いスーツ姿の女性、斬華は足音を立てずに制御室の床を歩く。 「どうしたんだい?人間を始末するのにわざわざ『離界刀(りかいとう)』を持ち出すなん て」 「久しぶりに使ってみたくなりましたので」 軽い驚きの表情を見せる終破の視線は、斬華の左手に握られた物に集中する。 斬華の左手に握られていたのは、異様な長さを持つ一振りの日本刀のような物であった。 真紅の鞘に収まった反りのある刀身は斬華の身長よりも遥かに長く、その名の通り世界を 切り離すかのような妖しいまでの迫力を放っている。 「凌牙を見て君の血が騒いだのかな」 「そうかも知れません。やはり、私も鏖魔です」 妖刀を携えた斬華の歩みは、ある一点で止まる。 玉座へと続く赤い絨毯の一部、ちょうど地上の様子が映し出されている真上で。 「それでは、転移を行います」 斬華の言葉と共に彼女の足元で映し出される映像が消え、代わりに膨大な数の文字のよう な記号が浮かび上がる。 「なるべく早く帰って来てほしいね。でないと、地上の様子が見えない」 「努力します」 鎧鏖鬼や咬牙王の転移と同じく、斬華の身体が黒い霧状に変わっていき、彼女自身の輪郭 が失われていく。 やがて完全な霧となった斬華の姿は消え、制御室に残されたのは終破と斬華を送り出した 膨大な文字だけであった。 「さて、凌牙と斬華が戻ってくるまでに、僕は仕上げに入るとしようかな」 ゆっくりと玉座から立ち上がった終破は、絨毯の上の文字を踏みしめながら制御室を後に する。 「ここの鏖魔を全員目覚めさせるなんて、実に久しぶりだね。楽しみだよ」 終破の残した言葉は、無人となった制御室の空気に混じって溶けた。 四機のヴァルキリーが動き出す光景を、視覚とリンクしたライフルのスコープで確認する 男、スティーブ=グリーンフィールド中尉は、照準を咬牙王のコクピットに合わせながら悔 恨の念に囚われる。 ――すまない 決して口には出さないと誓った言葉が、何度も胸の中で反響する。 今回、月守凌牙と咬牙王を確実に倒すために彼らがとった作戦の内容は、あまりに残酷な ものであった。 ヴァルキリーは最新鋭の機体、対する咬牙王が五年前の機体とはいえ、彼らは自分達に勝 ち目がない事を理解していたのだ。 だが、それで諦めがつくほどに月守凌牙という男の存在は軽くは無かった。 彼の手によって命を奪われた多くの者達のためにも、そして、これから奪われるであろう 多くの命を守るためにも、スティーブ達は、今この場で咬牙王を倒す必勝の策を考えた。 それは、スティーブ以外の四機が文字通りの壁とって咬牙王の動きを封じ、その奥から対 鎧鏖鬼用の大型ライフルを撃ち込むというものであった。 当然、ライフルの射線上にいる者も咬牙王と同時に装甲を貫かれ、それ以外の者は爆発に 巻き込まれる。 つまり、成功したとしても、スティーブ以外に生き残る者は誰もいない。 それが、咬牙王を滅ぼすための唯一の道であり、彼らが選んだ作戦である。 ライフルを握るヴァルキリーの、スティーブの指がわずかに震える。 唯一生き残る事の出来るポジションにいる彼の心境は、決して穏やかなものではない。 咬牙王を倒すためとはいえ、長い時間を共にしてきた仲間に死を命じ、自らの手で撃たな ければならない事実が、スティーブの指に重い枷をはめる。 いつも陽気な巨漢のムードメーカー、ロイ。 女性ながらも勇ましく激しい魂を持ったフェンサー、ジュリア。 いつか自分のレストランを開きたいと言っていたレオナルド。 軍人には見えない少年のような風貌のロバート。 スティーブの脳裏に浮かぶのは、仲間と過ごした長い日々。 共に訓練に励み、国家のために尽くすと誓った仲間との思い出が、幾重にも折り重なって 浮かび上がり、スティーブの胸を熱くする。 この作戦を決めた時に、文句一つ言う事無く笑顔で応えた四人の部下を誇りに思う一方で、 彼らの命を使うこの作戦に失敗は許されないと決意するスティーブは、震える指に力をこめ、 咬牙王のコクピットを狙う。 「中尉! 今です!」 咬牙王の左半身を掴むロイが、振り絞るように叫ぶ。 「今こそ咬牙王を!」 咬牙王の右半身を抑えるジュリアの声が、大気を切り裂く。 「祖国の無念を晴らす時です!」 咬牙王の背を固めるレオナルドから放たれる魂の声。 「僕達の想いは一つです!」 咬牙王に正面から立ち向かうロバートの咆哮。 「お前達の犠牲、無駄にはしない!」 そして、全てを受け止めたスティーブは、自身の持つ全ての力をこめてライフルの引き金 を引く。 五人の想いを乗せた弾丸は音速を遥かに超えた速度で放たれ、正面に立つロバートの機体 を貫き、その奥にいる咬牙王の胸部に大きな風穴を空ける。 そのはずだった。 少なくとも、スティーブの中では。 「残念だったな」 通信機から聞こえるのは、今まさに自分の手で葬った男の声。 本来なら聞こえるはずの無い声に、スティーブの鼓動が一気に跳ね上がる。 「な…………」 返事にならない声を発したスティーブは、決して信じたくない現実を確認するため、ヴァ ルキリーの頭部カメラをズームさせる。 弾丸は、ロバートの機体、そのコクピットに空いた風穴の奥に映る咬牙王の元へと、確か に届いていた。 だが、それはあくまで弾丸が「届いた」だけであった。 スティーブの放った弾丸は、ロバートの機体のコクピットに添えるよう置かれていた咬牙 王の右手の前で静止していたのだ。 それも、完全に凍りついた状態で。 音速を超えて空を切り裂いていた弾丸が一瞬で凍りつくという、異常な現象を目の当たり にしたスティーブは、同時に更なる異常に気付く。 咬牙王を取り囲んでいた四機のヴァルキリー、その全てが弾丸と同じように凍り付き、そ の動きを停止しているのだ。 「ジュリア! レオナルド! ロバート!」 通信に応える者は無く、ただスティーブの声だけがコクピット内に反響する。 「まさか……これが」 「そう、これが『神氷掌』だ」 部下の返事の代わりに聞こえる凌牙の声は、スティーブの予想を裏付けるものであった。 「今更驚く事も無いだろう。五年前に散々見せているはずだからな」 咬牙王の右手に掴まれた氷の弾丸は無造作に放り投げられて地面に落ち、硝子の砕ける音 にも似た高音を響かせる。 その音を合図にするように、氷の彫像と化していた四機のヴァルキリーがゆっくりと後方 に倒れ、弾丸と同じ末路を辿る。 「これが、神氷掌だというのか……」 硝子細工のように砕け散り、破片となった四人の部下とその愛機を呆然と眺めるスティー ブは、神氷掌という言葉について思い起こす。 それは月守凌牙という男の右手に宿る、特殊な能力の名である。 全ての物を一瞬にして凍りつかせるその驚異的な力は、現代科学の粋を集めても何一つ解 明できない、まさに神の力としか思えない奇跡の力であった。 天音静流という一人の科学者を除いては。 世界でただ一人、神氷掌のメカニズムを解析した彼女は、その力を鋼騎にフィードバック するための特殊機関『機結陣(きけつじん)』を完成させ、製作中であった当時の最新型鋼 騎であった咬牙王の右手に組み込んだのだ。 その結果、氷の力を身に着けた凌牙と咬牙王は鏖魔との戦いで驚異的な強さを発揮し、世 界中の人間から勇者と呼ばれる事になった。 スティーブ自身、神氷掌を使って鎧鏖鬼を倒す姿を映像ではあるが幾度と無く見ており、 その能力については把握しているつもりだった。 だが、実際にこの目で見た神氷掌の力は、彼の予想を遥かに上回っていた。 引き金を引いてから弾丸が到着するまでの一瞬にも満たない時間で、音速を超える速度の 弾丸と、三十メートル近い大きさの鋼騎四機を完全に凍りつかせるなど、スティーブは実際 に目の前で起こった現実を見ても、まだ信じられる気持にはなれない。 「悪魔め……」 スティーブの中で、目の前で砕かれた部下の姿と凌牙に殺された祖国の人間の姿が重なり、 絶望と恐怖で塗り固められた言葉が口から漏れる。 恐らくは何かを感じる間もなく凍死したであろう部下の仇を討ちたいという気持ちは強く 持っているが、それ以上にスティーブは、目の前の男に恐怖していた。 赤い血を捨て、文字通り悪魔に魂を売った月守凌牙に抗う術は無い、と本能が告げている のだ。 「鏖魔となった男に向かって悪魔とは、この期に及んでも冗談だけは忘れないらしいな」 元はヴァルキリーであった氷の破片を踏み砕き、咬牙王はゆっくりとスティーブの下へと 歩き始める。 「俺の右手、神氷掌が生み出すのは、絶対零度の世界だ」 一歩ずつ距離を詰める鋼の悪魔に対し、スティーブのヴァルキリーはライフルを捨て、腰 に装着していた鋼騎用のナイフを構える。 敵わないと知りながらも抵抗する姿勢を見せたのは、長年訓練を続けてきた軍人の習性か、 恐怖に飲み込まれたスティーブに残された最後の勇気か。 「神氷掌によって生み出された絶対零度の世界は静止の世界だ。全てが凍りついた世界では、 何者も動く事など出来はしない。例え音速超過の弾丸であろうとな」 スティーブを追い詰めていくようにゆっくりと進む咬牙王の右手に、機結陣の起動を示す 淡い青の光が宿る。 「絶対零度の世界は静死の世界だ。神氷掌はあらゆる活動を停止させる。生命も機械も、全 て等しく」 眼前のヴァルキリーが手にしたナイフで攻撃を仕掛けるよりも早く、スティーブが視認で きないほどの速度で右腕を伸ばした咬牙王は、青く光る手で相手の頭部を掴む。 「凍りつけ、その魂ごと」 言葉は、青く光る右手と同じ温度で放たれた。 そして、音も無く輝きを失った右手に掴まれていたヴァルキリーは、装甲だけでなく、内 部の部品さえも一つ残らず凍結した、氷の像と化した。 「神氷掌か」 物言わぬ彫像となったヴァルキリーを左の拳で粉々に砕いた凌牙は、右手に残った頭部を 後ろに放り投げながら声を漏らす。 「……いや、もはや神の名を冠する事もあるまい」 背後でヴァルキリーの頭部が砕ける音を聞きながら、凌牙は改めて右手を見る。 音の無い殺戮を生み出す氷の右手を。 「絶氷葬(ぜっひょうそう)」 自らの右手に向かって宣言するように、凌牙は自らの右手に込めた新たな名を呟く。 「もはや人ならぬ身となった今は、この名の方が相応しいだろう」 そう残し、自分以外に動く者の無い大地から夜空を見上げる凌牙の口に笑みの形が作られ る。 自分を嘲る、哀しい笑みの形が。 「静流、この手は五年前と変わらず、全てを終わらせる事が出来る。でも、君の所に届かせ るには余りにも短い。君の事を何一つ取り戻すができない」 夜空に浮かぶ月の更に向こう側へと声を届かせるように言葉を紡ぐ凌牙は、視線を地上へ と戻す。 彼の耳に聞こえた一つの音、鋼騎運搬用リフトの起動音がそうさせたのだ。 先ほど悠羽のパラディンを地下へと運んだものと同じリフトが起動して地上から姿を消し、 再び現れる。 新たなる鋼騎を伴って。 「その鋼騎、まさか」 自分の前に立つ鋼騎の姿を見る凌牙の表情に、わずかだが驚きの色が混ざる。 「そう、これが聖炎凰(せいえんおう)。天音博士が完成させる事が出来なかった、咬牙王 の兄弟機です」 咬牙王の眼前に現れたのは、赤と金の装甲に包まれた鋼騎、聖炎凰であった。 絶対の自信をもって送り込んだ五機のヴァルキリーが成す術も無く全滅する光景を見るブ ラウンは、目の前のモニターに映っている映像が間違いだと言わんばかりに首を左右に振る。 彼が聞いていた作戦は、ヴァルキリーの機動性を生かし、剣や槍による一斉攻撃で咬牙王 を葬り去るというものであった。 当初の作戦とは全く違う行動が展開された挙句、一瞬にして部隊が全滅した事実を受け入 れられないブラウンの表情が、小刻みに震える。 「何が、何が起こったというのだ! スティーブ! 状況を説明しろ!」 通信機に向けて声を荒げるブラウンの言葉に返事は無い。 「中佐、ここは撤退を」 「馬鹿を言え! 何もできんまま新型を五機失った俺の立場はどうなる!」 同じく地上の様子を見ていた黒人機長に、ブラウンの怒声がぶつけられる。 部下を失った事よりも自分の立場を優先して考えるブラウンの言葉に、吐き気さえ覚えそ うなほどの侮蔑の感情を抱いた機長は、同時に一つの異常に気付いた。 自分の隣に座るブラウンが頭上から何かに貫かれている事に。 その異常に対応する間も無く、機長の意識は途切れた。 彼が、ブラウンと同じく頭上から何かに貫かれて絶命したという事実に気付く事は永遠に 無い。 「永遠の死、思う存分に堪能して下さい」 ブラウンと機長の二人に死を与えた白いスーツ姿の女性、斬華は静かな言葉で幕を引いた。 彼らの頭上、遥か上空を飛ぶビッグバードの上から。 普通の人間なら立つどころか、存在する事さえ許されない高度の中でも平然とハイヒール で立つ斬華は、彼らの命を奪った凶刃、離界刀を引き抜く。 地上よりも遥かに近い位置にある月の光に照らし出された離界刀の刀身は、初めて見る者が いれば思わず感嘆の声を漏らすであろう美しさであった。 尋常ならざる長さを持つ刀身、その全てが水晶に似た物質で出来ているために。 鮮血が結晶化したかのような鮮やかな輝きを放つ紅の刀身は、その奥に見える世界を赤に染 めるほどに透き通り、命を奪った二人の血を受けて妖しく輝く。 「これで与えられた仕事は終わりですが」 離界刀を完全に引き抜いた斬華は、月光に透ける白に近い金髪を強風に晒しながら、血に塗 れた長大な刀身を肩に担ぐように構える。 「離界刀よ、今こそ滅びの輝きを」 言葉と共に、斬華の右腕が高速で振るわれる。 その動きに合わせて描かれた離界刀の軌道は半円を描き、最終的に左手の鞘へと収められる。 そして、離界刀が鞘に収められない内に身体を黒い霧に変化させた斬華は、間も無く夜空か ら姿を消した。 全長二百メートルを超えるビッグバードの胴体が左右に両断されたのは、その直後であった。 氷の破片と化したヴァルキリーの破片が散乱し、絶氷葬の余波を受けて凍りついた大地に立 つ、パラディンに代わる新たな鋼騎、聖炎凰に乗る悠羽は、再び対峙した兄を前に、機体の状 態を感覚で確認する。 早希達の働きにより、通常起動に問題は無い程度に仕上がっているはずだが、それでも初め て搭乗する聖炎凰という新しい鋼の肉体は、悠羽に今までとは違う感覚を伝える。 先ほどまで搭乗していたパラディンと聖炎凰では、サイズや重量だけでなく、細かな部品に 至るまでの全てが違うために。 人間の感覚を鋼騎と合一させるHMLSにおいて、異なる機体に乗り換える事は、自分の身 体が別人のものに変わる事に等しい。 身長や体重、筋肉や関節の柔軟性などの全てが大幅に変化した状態にある悠羽は、先ほどま でとは異なる距離感に戸惑いながらも、自分の感覚を新しい身体に順応させていく。 パラディンと比べて小柄なサイズと、最新の装甲や駆動系で身を固めた聖炎凰は悠羽の身体 を軽くさせ、強力な新型エンジンは悠羽の心臓に力強い鼓動を与える。 センサー類も最新のものを内蔵しているため、より鋭敏になった悠羽の五感は、聖炎凰の姿 を正確に伝える。 夜の闇の中でも鮮やかに輝く赤と金の装甲に包まれた聖炎凰の四肢は、分類するなら女性型 に入るであろう細身のものであるが、しかし華奢な印象を与えず、むしろ限界まで引き締まっ た筋肉を思わせる力強さを悠羽に伝える。 頭部や肩など、各所が攻撃的な鋭角で構成されているのは、兄弟機である咬牙王と共通する 意匠である。 そして、悠羽の意識は背に取り付けられた大型のスラスターに向けられる。 獅子を模した咬牙王に対し、鳳凰を模した聖炎凰の名を象徴するかのような一対の短い羽根 のようなスラスターは、悠羽の背に確かな重みと力を与える。 『悠羽、聞こえてるか?』 聖炎凰を自分のものにしていく悠羽に、早希からの通信が入る。 『さっきも言ったけど、聖炎凰は完全やない。悠羽の動きに合わせた調整も不完全やし、背中 の翼も満足には動かん。それに、左手は完全に使われへん』 悠羽の返事を待たずして続けられた早希の言葉には、不完全な状態の鋼騎に悠羽を乗せてい る事に対し、技術者としての自分の無力さが滲み出ていた。 『咬牙王の右手に内蔵されてる機結陣、あれの完成はウチらだけじゃできへん、情けない話や けどね。ウチらが出来るのは、機結陣の外側を作る事だけや』 「大丈夫ですよ、早希さん」 自らを責めるような言葉を吐き出す早希に、悠羽は優しく包むような声をかける。 「例え機結陣が使えなくても、私は兄さんを止めて見せます」 通信機を通して感じる早希の不安を振り払うため、自分の中に渦巻く不安を振り払うため、 悠羽は構えを取り、咬牙王と向き合う。 「兄さん、もう一度戦ってもらいます」 「その必要は無い」 黒の中で輝く紅の瞳を妹に向けた咬牙王は、今までと同じく構えを取らずに応える。 「お前との勝負は終わった。それに、聖炎凰がその状態でまともに戦えるとは思えん。それに」 わずかな動作だけで聖炎凰の状態を見抜いた凌牙は、足下に転がるヴァルキリーの破片を踏 み砕きながら一歩進む。 「静流のいない今、機結陣を完成させる事もできまい。お前の左手に宿る力、『神炎掌(しん えんしょう)』が使えん以上、勝負にはならんだろう」 淡々と語られる凌牙の言葉を、悠羽はただ唇を噛み締めて聞いていた。 兄と同じ、特殊な力を宿した自分の左手を見ながら。 凌牙の持つ力、極限の低温を生み出す絶氷葬に相反する能力を、悠羽はその左手に宿してい る。 あらゆる物を燃やし、灰に帰す、神炎掌と呼ばれる能力が。 だが、聖炎凰が左手にその能力を発現させる事は無い。 世界で唯一、この兄妹の持つ特殊能力を解析し、機結陣というプログラムにする事を可能に した天才、天音静流の存在が永遠に失われているために。 機と気を結ぶシステムである機結陣の無い聖炎凰の左手は、悠羽の神炎掌をフィードバック する事は無い。 「だとしても、だ」 天音静流が遺した、世界で唯一の完成型機結陣を右手に組み込んだ咬牙王は、更に一歩足を 動かす。 ただ凌牙の持つ能力を鋼の肉体で発現させるだけでなく、全てを止める絶対の冷気を身に宿 しながらも、決して自らにその影響が及ばない事実に、機結陣というシステムの完成度の高さ が垣間見える。 「お前は、どうあろうとも俺の前に立つだろう。その不完全な聖炎凰と共に」 「はい。それが五年前に出した答えです」 接近する咬牙王に警戒を強めながら、悠羽は過去を振り返る。 兄の全てが狂ってしまった夜の事を。 初めて兄の慟哭を聞いた夜の事を。 あの日、悠羽は誓った。 いつか全てを滅ぼすために動く兄を止める事を。 「そうか」 妹の意志を確認した凌牙は短く頷くと、更に一歩前進する。 互いの手足が届く距離にまで接近した兄妹の間に、冷たい風が流れる。 「もう一度だけ聞く。お前は本当に俺を倒し、人類を守るというのか」 「何度聞かれても、私の答えは変わりません。例え身体が鏖魔になったとしても、兄さんがこ れ以上何かを壊すのを見るのは、もう耐えられないんです。私だけじゃない、父さんも母さん も、早希さんや他のみんなも同じ気持ちのはずです」 兄の言葉に、悠羽は五年前から変わらぬ想いを声にして解き放つ。 想いは決して届かず、兄は決して戻らぬと知りながらも。 「……ならば、お前にはチャンスをやろう」 五年前と変わらぬ妹の言葉を受けてもなお、凌牙は右手と同じく一切の温度が排された声で 言葉を続ける。 「今ここでお前を倒す事はしない。人類の殲滅も後回しにしてやる」 咬牙王の右腕がゆっくりと持ち上がり、その指先が上空を指す。 人間のそれと比べ、わずかに鋭く尖った黒の指が示す先にあるのは、宙に浮かぶ一本の巨大 な剣のようなシルエット。 「代わりに、あの中にいる鏖魔をお前に差し向ける。俺を、皇魔を止めるというのなら、全て の鏖魔を乗り越えてみせろ」 ほぼ同じ高さにある聖炎凰の黄金の瞳と咬牙王の紅の瞳を通し、凌牙と悠羽、二人の視線が 交錯する。 「それが兄さんを止めるための道だというのなら、私は鏖魔と戦います。この聖炎凰で」 兄の挑戦を受ける悠羽に、迷いは無い。 「見せてみろ悠羽、お前の限界を超えた先にあるものを」 言葉と共に、咬牙王の全身が黒い霧状へと変化していく。 間も無く、その姿を完全に霧へと変化させた咬牙王は、最初からその場にいなかったかのよ うに、創世島から消失した。 咬牙王の去った後に残されたのは、凍りついた大地と、粉々に砕け散った氷の破片。 そして、兄が消えた夜空を見上げる聖炎凰であった。 第三話 絶氷葬(後編)