暗く、深く、遠い、海の底にも似た、意識の果て。 時間と空間の概念さえも失った世界で、「彼女」の中にいくつかの映像が浮か び上がる。 焼き尽くされる世界。 人々の絶望と怨嗟の悲鳴。 共に破壊を尽くした者達。 そして、 『リョ、ウ、ガ』 「彼女」の口が小さく動き、それに合わせて気泡が生み出される。 その名が示す通り、牙のように鋭く攻撃的な肉体と、彼の持つ能力と同じく、 あるいはそれ以上に低い温度の心を持った男の姿が、「彼女」の中に鮮明に描 かれていく。 愛する女性を失い、人としての道を捨て魔人となった男は、その右手で全て を葬り去った。 文字通り、自分の全てを。 『いや』 「彼女」の口が再度小さく動く。 ――なら、私はなぜ生きている? 追憶の中で浮かび上がる疑問。 「彼女」は、その答えを持っていない。 ――そもそも、私は誰だ 続いて湧き上がる疑問にも、答えは無い。 夢と現実の区別もつかない世界の中で、「彼女」は思考する。 ――私は 答えは無い。 ――我は 答えは無い。 ――ワタシハ 答えは無い。 『私は』 思考は声となり、「彼女」の意識を覚醒させる。 意識の覚醒と同時に開けた視界に映るのは、一面の鮮やかな緑。 次いで認識する身体の浮遊感から、自分が緑の液体の中に浮かんでいるのだ と理解した「彼女」は、ゆっくりと左手を前に伸ばし、自分を浸す液体を湛え た容器へと密着させる。 ――燃えろ 前方にある容器の存在を感じる左手に意識を集中させた「彼女」は、それが 至極当然であるかのように、そう意識した。 次の瞬間、「彼女」の意志は具現化された。 「彼女」自身が左手に生み出した、漆黒の炎によって。 夜の闇がそのまま燃えているかのような黒の炎は、「彼女」を封じ込めてい る容器を一瞬にして灰へと変貌させる。 同時に、「彼女」を包む緑の液体は前方への障害を失い、逃げるように外へ と流れ出る。 自分を縛る楔を断ち切った「彼女」は、確かな足取りで緑に染まった床へと 一歩を踏み出し、周囲を確認する。 この世のどんな宝石よりも鮮やかな深い紅の瞳に映るのは、灰色一色に染め られた、殺風景な部屋。 十メートル四方ほどの広さを持つ部屋の中には、今自分が破壊したものと同 じ、緑色の液体を湛えた円筒形の容器が規則正しく並んでいるだけで、他には 何も存在しない。 そして、腰よりも長く伸びた、全ての色を寄せ付けない純白の髪から緑の滴 を垂らしながら歩く「彼女」の瞳に、部屋を占拠する無機質な容器に映った自 分の姿が映る。 見る者全ての心を奪う顔立ち、絶妙なラインを描く、女性として一つの究極 を体現した肢体には、神の領域というより、むしろ悪魔によって造形されたと 考える方が相応しいほどの美しさがある。 「これが……私なのか」 自分の姿を確認した「彼女」の口から、言葉が漏れる。 「私は、私は誰だ」 容器に映った自分の姿を見つめながら、「彼女」は何度も同じ問いを繰り返 した。 人間である事を捨てた凌牙が、悠羽と最悪の形で再会を果たし、米軍の最新 型鋼騎を破壊し尽くした、悪夢のような夜から三日という時間が過ぎた。 鏖魔の再来と、かつての勇者が人類の敵となった光景の一部始終は、映像、 音声を問わずリアルタイムで世界中に広がっており、その圧倒的な力を五年ぶ りに目の当たりにしたのだ。 そして、戦闘の場となった、かつての勇者の故郷ともいえる地、創世島の格 納庫では、もう一つの戦いが繰り広げられていた。 「鉄男さん! ビッグバードの引き上げが完了しました!」 「よし、あのデカブツは流されんようにしっかり固定しとけ!」 格納庫の中央で若い技術者の声に応えるのは、二メートル近い巨躯を持つ男。 短く刈り上げた黒髪と日に焼けた肌を持つ男は、「メタル・ガーディアン」 の司令である真島烈の長年の友であり、整備班の長、大熊鉄男である。 その名の通り熊のような顔をしかめながら、鉄男は自分の持ち場を見渡す。 「何度見ても、ひでえもんだ」 影の落ちた声の先にあるのは、粉々に砕けたヴァルキリーの破片。 絶氷葬の氷が溶けた破片の数々は、たとえ素人でも、一目見ただけで修復が 不可能だと断言できるほど、無残に破壊された姿を晒している。 「特にアレはな……」 鉄男が続けて発した声は、破片の周囲の人間に向けられたものであった。 そこには作業員だけでなく、白衣を身に着けた者の姿もいくつか見受けられ る。 機械を扱う格納庫に似つかわしくない白衣の者達は、鉄男と同じく、烈と古 くからの付き合いである医師、相馬和彦を中心とした医療スタッフである。 白衣と同色のマスクとゴム手袋を装着している医師達は、整備班のスタッフ に指示を出し、コクピット周辺の残骸から何かを取り出していく。 それは、かつてヒトを構成していたモノの一部。 自らの機体と共に粉々になったフェンサー達を一部ずつ取り出していく白衣 の者達はそれらをじっくりと観察し、それが人体のどの部位にあたるのかを見 極めていく。 これを繰り返し、既に原型を失った死者の復元を出来る限り行っていく。 人の死に触れる機会の多い医師達と違い、死に免疫の無い技術者達は一様に 顔を背け、中にはこみ上げる吐き気を必死に堪える者の姿も見受けられる。 「鉄男さん、戻ったで」 背後からの声に振り向く鉄男の先には、油汚れに塗れたカーゴパンツと緑の タンクトップを着た女性、篠原早希達の姿があった。 彼女らは地下の格納庫ではなく、地上に出て、両断され海に墜落した米軍の 輸送機、ビッグバードの回収作業を担当していたのだ。 「途中で早希さんに三回ほど海に落とされましたけど、何とか大丈夫です!」 早希の横で全身を濡らせて震わせているのは、まだ幼さがわずかばかりに残 る小柄な男、梅崎である。 「だから普段から服は脱いでおけと言っているのに」 その横で大きなため息をつくのは、実用性よりも見た目を重視した筋肉に覆 われた上半身を完全に晒している青年、竹村。 「ま、若い内は海に落ちるくらいが丁度ええわ」 早希の後ろで愉快そうな笑みを浮かべる中年の男、松井は少し出てきた腹を 撫でながら言葉を放つ。 「四人ともご苦労だったな。少し休むか?」 「それじゃ、とりあえず服を」 「いや、休憩はええよ」 早希の言葉に自分の声を掻き消された梅崎の顔が驚愕で彩られるが、彼は反 抗の言葉を出す事も無く、表情を諦観に切り替える。 「ウチらはこのまま、アレをくっつけるわ」 早希が言葉と共に指さすのは、格納庫の隅に立てかけられたパラディンの左 腕であった。 「それにしても」 原型を留めない破片となったヴァルキリーとは違い、完全な形を残したまま 破壊された左腕を見る早希の口から、言葉が漏れる。 「何をどうすれば、あんな綺麗に物を切れるんやろうか。どんな道具使っても、 あそこまで完璧に鋼騎を切る事なんて出来へんのに」 その言葉に恐れの色は無い。 むしろ、ただの蹴りをここまでの領域にまで高めた凌牙に対して、恐怖とい う感情を通り越し、呆れにも似た感情しか湧いてこない。 世界中のフェンサーの中でも、間違いなく彼にしか出来ないであろう卓越し た技術の結果を見つめる早希の横で、梅崎が口を開く。 「そういえば、ビッグバードも同じくらい綺麗に切られてましたよね。あの大 きさの輸送機を、誰がどうやって切ったんでしょうね?」 「それはこれから調べなければ分からんが、刀剣類で一気に切ったってのが有 力な見方だな。もっとも、二百メートル超のアレを両断できる化物みたいな剣 が存在する、という前提が必要だがな」 鉄男の言葉に続く者はいない。 彼の言葉通り、現在の人類に大型の鋼騎輸送機を一気に両断する大きさの武 器は存在しない。 無論、この斬撃が人類ではなく鏖魔の手によるものである事は誰もが理解し ている。 しかし、それ故に人類の理解を超えた存在である鏖魔に対する恐怖は募る。 「ま、分からん事を考えても仕方あらへんね」 流れ始めた重い空気を振り払うよう、早希は努めて明るい声を出し、切断さ れた左腕とは違う方向に視線を移す。 そこには、ハンガーに固定された状態で直立する聖炎凰の姿があった。 初出撃となった三日前は戦闘を行わなかったために損傷は無く、金と紅に 彩られた鮮やかな装甲はそのままだが、その姿は完全なものとはいえない。 背部の大型スラスターと左手の機結陣を欠いた状態の聖炎凰は、自分を完全 な形に仕上げる事の出来ない技術者達を、無機質な緑の瞳で見下ろしている。 「悠羽、大丈夫やろか……」 これから迫りくる鏖魔に、凌牙に唯一対抗できる可能性を持った最新鋭の鋼 騎を見上げる早希は、その主の名を呟いた。 『俺が世界を救っただと。馬鹿も休み休み言え。いいか悠羽、俺が鏖魔と戦って守りた かったのは人類でも国家でもお前でもない。俺が守りたかったのは唯一つ、天音静流と いう名の女の幸せだけだ』 閉じた視界の中、三日前、五年ぶりに聞いた兄の言葉が繰り返される。 『この黒い血こそが、俺が人間の肉体を捨て、鏖魔になった事の証だ。俺は、お前達を 滅ぼすため、人間である事さえも捨てたのだ』 脳裏に焼きつく、新しい兄の身体。 『どうした悠羽。そんな攻撃では俺を止めるどころか、攻撃をガードする必要さえ無い のだが』 言葉と共に思い返すのは、自分の攻撃を悉(ことごと)く回避する、兄の舞うような 動き。 『やはり、その程度だったか』 その一言は、自分の五年間を否定する言葉だった。 『見せてみろ悠羽、お前の限界を超えた先にあるものを』 兄が最後に残した言葉が、胸に響く。 そして、視界が開かれる。 瞼を開いた悠羽の視界に映るのは、明るく輝くいくつもの照明。 過剰なまでな明るさで悠羽とその周囲を照らす照明を数秒眺め、彼女は自分が今、水 に浮かんでいるのだという事を再認識した。 「…………兄さん」 しなやかな長身に白のビキニを着けた姿の悠羽は、「メタル・ガーディアン」の施設 内にあるプールに浮かんだまま、静かに言葉を漏らす。 「まだまだ、兄さんには届きませんでした。身も心も、何もかも」 現在、プールには悠羽以外に誰もいないため、彼女の言葉を聞く者はいない。 「五年間、私なりに必死に頑張ってきたつもりだったのに、全く駄目でしたね」 戦う者としての強さと、女性の美しさを絶妙なバランスで両立させている身体を水に 任せたまま続く悠羽の顔に、感情の色は無い。 焦点が合っているのかさえ疑わしい視線を宙に漂わせたまま、長く伸びた黒髪を水に 揺らす悠羽は、虚ろな表情のまま口元をわずかに歪める。 まだ幼さを感じ取る事の出来る顔には似つかわしくない自虐の笑みを浮かべた悠羽は、 照明から逃げるように左腕を自分の眼前へと動かす。 「兄さんがいなくなってからの五年は、一体何だったんですか……? あの時、兄さん を止めるって決めたのに、実際に戦ったら、手加減されて、生かされて。私は結局、何 も出来ていないじゃないですか」 「でも、悠羽は生きているじゃない」 予想外の返答に、悠羽は左手を顔から離し、声の方へと視線を向ける。 仰向けのために天地が逆転した視界の中に映るのは、プールサイドに立つ一人の女性。 シャギーの入った柔らかなセミロングの金髪に、プールという場所にそぐわない黒の スーツの上からでも分かる、性別を問わず虜にするほどに魅力溢れる身体を持つ女性、 ソフィアは、軽く右手を振って悠羽に自己の存在をアピールしている。 「お母さん」 育ての母の姿を確認した悠羽は、彼女の元に向かうべく、身を翻して泳ぎ始める。 長身と身体能力を生かした悠羽の泳ぎは速く、ソフィアの立つ側の端に到着するまで、 さほど時間はかからなかった。 「お仕事はもう終わったんですか?」 「とりあえず一区切りって感じかしら」 プールサイドでしゃがみ、水に浸かったままの悠羽と会話をするソフィアは、挨拶代 わりに娘の濡れた黒髪を優しく撫でる。 「あれからすぐ烈と一緒に世界中の偉い人と会議の連続だったから、少し疲れたわ。お かげで悠羽にも会えなかったし、ね」 悠羽の髪を撫でながら話すソフィアの表情には、彼女の言葉通り疲労の色が滲み出て いるものの、それ以上に娘と会えた事による嬉しさの方が強く出ている。 「じゃ、お父さんも?」 「ええ。烈も帰って来てるわよ。ちゃんとお土産も用意してるみたいだから、楽しみね」 先ほどと違い、ソフィアの笑顔を見る悠羽の表情が穏やかなものに変わっていくが、 それでもまだ翳りは消えない。 「悠羽」 娘の名を呼んだソフィアは、立ち上がると同時に悠羽の左腕を掴み、そのまま一気に 彼女を水から引き上げる。 次の瞬間、ソフィアは、わっ、という小さな驚きの声をあげる悠羽を抱きしめた。 「お母さん……」 「悠羽、今、あなたは生きている。それだけは確かよ」 スーツが濡れる事も気にせず、ソフィアは娘をこの世の全てから守るように、力強く 抱きしめる。 「大丈夫。生きていれば、それだけで可能性はいくらでも広がってくる。あの子を、凌 牙を止める事だって、きっと不可能じゃない」 静かに、だが強い口調で話すソフィアの言葉は続く。 「悠羽。私は、今までに多くの人の可能性を奪ってきた。そして、それと同じくらい、 自分で可能性を捨てる人間を見てきた」 母の抱擁に身を任せている悠羽は、返事をする事も無く、静かにその言葉に耳を傾け る。 「悠羽、あなたが凌牙を止めると決めたのなら、その想いが続く限りは、決してその可 能性を諦めないで。でも、もし悠羽の想いが変わったというなら、私はもう何も言わな いわ。あなたには自分の人生を決める自由があるもの」 言葉を終えたソフィアは悠羽を抱き留めていた手を離し、自身から娘を離す。 「ごめんね、悠羽。あんな事があったのに、今まで会う事すら満足にできなかったなん て」 「いえ、お母さんにはお母さんのやるべき事がありますから……でも、一つだけ、いい ですか?」 「どうしたの? 可愛い娘の言う事は、何でも聞いてあげるわよ」 普段の笑みを見せるソフィアに対し、少しだけ迷いを見せた悠羽は、迷いの分だけ時 間を置いた後、母の胸へと飛び込んだ。 「お母さん……私、私、頑張りますから……兄さんを止めてみせますから……! だけ ど、今は、今は泣いても、いいですか……」 「ええ。あなたはいつだって泣いていいのよ。だって、悠羽はその涙の意味を理解して、 先に進める子ですもの」 ソフィアの言葉を合図とするようにして、悠羽は幼児のように、大きく声をあげて泣 いた。 ソフィアは身を震わせて泣く娘の頭を軽く撫で、それに応えた。 「おう、お前ら、元気にやってっか?」 ソフィアがプールで悠羽と会っていた頃、「メタル・ガーディアン」の司令であり、 創世島の主である真島烈は、格納庫へと足を踏み入れるなり声を発した。 多くの人間が作業をする上で発生する、幾重にも重なる騒音の中でもはっきりと聞き 取れる烈の声に、その場にいた者の作業の手が一瞬止まり、視線が入口に注がれる。 凌牙と鏖魔の出現により、緊急で開かれた対鏖魔会議に参加していた司令の突然の帰 還に、一同は驚きの表情を浮かべるが、 「そこのオッサン!」 その空気を壊すように、一つの怒声が響き渡る。 「ここは禁煙やって、何回言えば分かるんや!」 作業の騒音全てを塗り潰すかのような声の主、早希は大股で入口に立つ烈に近付くと、 一向に態度を改めようとしない上司を見上げる。 早希の眼前に立つのは、若い、という言葉が厳しくなってきてはいるが、未だに獣の ような凶暴さを漂わせた精悍な顔に、その攻撃性を体現しているかのような逆立てた黒 髪。 そして、白のスーツを押し上げる、異常なまでに発達した筋肉。 鍛え抜かれたプロの格闘家の肉体を猛獣と例えるのなら、烈の持つそれは、大型の肉 食恐竜のものである。 普通の人間がどれだけ鍛えた所で、この肉体を手にする事は出来ない。 日々の鍛錬に、天性の体質が加わる事によって初めて成立する神域の肉体。 それこそが真島烈という男の最大の武器であり、彼が彼であり続ける理由なのだ。 「そう噛みつくなって。欲しけりゃ一本くらいやるからよ」 早希の怒声に、その肉体の凶暴性とは正反対な人の好い笑みで返した烈は、懐から煙 草の箱――ラッキーストライクの両切り――を取り出し、彼女に差し出す。 「ウチの話聞いとらんかったんかい! それに、ウチは煙草なんて吸わへんわ!」 「おぉ、相変わらず怖ぇな、整備班のお姫様はよ」 おどけた口調で返しながら煙草の箱を懐に戻した烈は視線を素早く動かし、周囲の状 況を確認した後、一瞬前とは違った、真剣な表情で早希に言葉を投げかける。 「で、どんな感じだ?」 「ち、地上に散らばった新型の回収と、海に落っこちたビッグバードの引き上げは終わ ってるし、後は米軍に引き渡せば大方は終わりやね。パラディンの腕は断面が綺麗すぎ るから、修理に時間はかからんと思うし」 突然の真剣な問いに早希は一瞬言葉に詰まりそうになるが、すぐに持ち直して現状を 伝える。 「よく働いてくれてるじゃないか。あのデカいのも、たまにゃ役に立つな」 「税金泥棒界の帝王が、よく言うぜ」 少し離れた所に立つ鉄男の返事に対し、へへっ、と少年のような笑みを返す烈を、早 希は呆れた表情で見つめる。 「……そこは笑う所ちゃうと思うんやけど?」 「思い当たる節が多すぎるから、笑ってごまかすっきゃねえんだよ」 「自覚があって何よりだ。罪悪感、という言葉の存在も覚えてくれると更に良いが、お 前にそこまで期待するのは酷というものか」 早希との会話に加わったのは血と機械油に汚れた白衣の男、相馬和彦であった。 医師らしい知的で端正な顔にかかる、銀のフレームの眼鏡の位置を直した和彦は、眼 前に立つ烈を一瞥し、わずかばかり落胆した表情を浮かべる。 「少し見なかったが、相変わらずの元気そうな姿にやり場のない怒りがこみ上げるばか りだよ」 「そりゃお互い様だ、このエロ医者が。俺のいない間に何人のスタッフを食ったんだ?」 互いの顔を見るなり、もう長い間繰り返している、挨拶代わりとなる軽口の応酬を済 ませる。 二人が出会い、共に行動をするようになった高校の頃から変わらないやり取りに笑み を浮かべた烈が再び口を開く。 「ったく、お前らは少し俺を労ってもいいんじゃないのか? お前らを、というか日本 を代表して、ついさっきまで世界のお偉いさん相手にワイワイ騒いでたってのによ」 言葉通り、世界規模の会議に出席していた事に間違いはないが、それをまるで学生の 会議にでも出席してきたかのような気軽さで語る烈は、獣のような顔に照れ笑いを含ま せ、右手で頭を掻きながら言葉を続ける。 「つっても、俺は言葉が分からんから、メインを張ってたのはソフィアだけどな。俺は 偉そうにしてる奴にガンを飛ばすのが主な仕事だったし」 「このオッサン、それでようこの組織のトップに立ってられるな……って、ええ加減煙 草吸うのやめんかい! ウチが気付かん内に二本目になってるし!」 「嫁は嫁で難儀な女だがな……ところで烈」 新たに火の点いた煙草を奪い取ろうとする早希の動きを、華麗なフットワークで避け 続ける烈に、和彦の理知的な視線が注がれる。 「京香には、天愛(あまみ)京香には会えたのか?」 真剣な表情で告げられた和彦の静かな言葉に、烈の表情が曇る。 天愛京香。 それは、名が示す通り天に愛されるだけでは飽き足らず、悪魔の寵愛さえも欲しいが ままにした女性。 そして、烈にとっては高校の同級生であり、ソフィアと出会う以前に愛を交わした女 性の名である。 かつての最愛の女性の名を聞いた烈は、脳裏にその姿を思い起こす。 彼女の意志の強さが表れた、高校生にして幼さや隙の無い美しい顔立ち、モデル顔負 けのスタイルと長身、日本人離れした長い手足は、そこにいるだけで周囲の人間の視線 を惹きつける魅力に溢れていた。 また、傲慢にも見えるほど堂々とした振る舞いを常としていた彼女は、男のような口 調と、長い黒のポニーテールも合わさり、しばしば周囲の者から「まるで侍のよう」と 評されていた。 『私は、成功や失敗、勝利や敗北といった概念が他人よりも希薄なんだよ。全てのテス トが満点だと、そこに差を見つける事はできないからな』 これは、出会って間もない頃に聞いた京香の言葉である。 見た目だけでなく、能力まで桁違いに完璧であった京香は、普通の人間が目指す「成 功」という地点に何の苦労も無く辿り着く事が出来た。 烈と出会ったのは高校入学と同時だが、その時既に彼女は高校生だけでなく、世の中 の殆どの人間が辿り着けない領域に手が届く状態にあった。 望めば地位も名誉も金も好きなだけ手に入れる事が出来る才に恵まれた京香だが、そ の心中は決して良い状態ではなかった。 彼女にとって、全ての物事が力や情熱を傾ける対象に成り得ないために。 それ故に、彼女は飢えていた。 自分の全てを賭ける事の出来る対象と、身を焼き尽くすような刺激に。 やがて、彼女はギャンブルへと行き着いた。 それも、技術を要するゲームの類ではなく、運のみで全てを決する種類のギャンブル に、彼女は進んでその身を投じた。 文字通り命を賭ける狂気の沙汰も一度や二度では無かったが、今までの人生と同じく、 彼女の所へ敗北は訪れなかった。 『どうして私は勝ち続けるのだろうな。私の中に巣食っているのが神か悪魔か他の何か なのかは知らないが、随分と惨(むご)い仕打ちだと思わないか』 烈の腕に抱かれた京香が呟いた言葉は、彼女にしては珍しく悲しげな色を含んでいた。 それは、どうあっても勝利しかない人生を歩んできた京香にしか分からない悩み。 人は敗北を忌み嫌うが、彼女は違ったのだ。 そして、彼女は高校卒業と同時に烈の前から姿を消した。 まるで彼女の存在自体が幻想であったのではないかと思えるほど、唐突に。 彼女が烈の前で最後に見せた狂気の結晶である、十億円という大金を残して。 「やっぱり会えねぇな。それどころか、手がかりさえも一切ない状態だぜ」 しばしの間周囲の全てを忘れ、かつての恋人を思い返していた烈は、過去を振り切ろ うと意識して笑顔を作る。 「その人の事を何も知らんウチが言うのもアレやけど、ほんまにその人がいれば上手く いくん?」 烈と和彦の間に流れる重い空気を感じ取った早希だが、自分も無関係な話ではないた めに口を挟む。 「正直、俺も分からん。が、他に頼れる奴がいないんじゃ仕方ねえよ。まあ、あいつの 事は秘密兵器くらいに思っときゃいいさ」 烈の言葉にいつもの力強さが欠けているが、その内容は間違い無いため、早希は渋々 納得せざるをえない。 「彼女の事はひとまず置いておくとして、だ。お前がさっきまで騒いでた会議の事を聞 かせてもらおうか。鉄男もあの場所から聞き耳を立て続けるのにも疲れてきた頃だ」 「仕方ねえな。あそこで仕事しながら、今か今かと待っている鉄男を眺めて楽しむのも 悪くないんだけどな」 そう言って、烈はほとんど吸っていない二本目の煙草を床に落とし、重厚な黒の革靴 ですり潰すように火を消す。 その行動に顔中で不快を示した早希に、烈は悪ぃ、と小さく謝罪して話を切り出す。 「あれから三日、主要国家の政治家やら軍人やら鏖魔研究家やらを交えて話し合った結 果、これから世界が鏖魔に対してどう動くかは決まった」 その言葉に、場の空気が固まる。 皆の作業の手が止まり、音が最小限に抑えられた格納庫に、烈の声が響く。 「細かい内容は後で話すが、要約すると『俺達だけで何とかしろ』って結論になった。 鏖魔がここに狙いを定めている間に、連中は色々と準備を進めておこうって算段だな。 つまり、予想通り、五年前と同じような状況になったって事だ」 烈の言葉に、絶望の声をあげる者も、歓喜の声をあげる者もいない。 ただ淡々と烈の言葉を受け入れ、その言葉を確かめるように小さく頷くだけである。 全ては彼の言葉にあった通り、予想通りなのだ。 五年前、東京上空に再来した鏖魔は、前回の敗北の原因となった人類の新兵器、鋼騎 を生み出した場である創世島に狙いを定め、攻撃を仕掛けた。 前回鏖魔が襲撃してきた時、この島にあったのは人類の総力を集めた多国籍組織「メ サイア」だったが、当時既に「メサイア」は無く、島を預かっていたのは日本の対鏖魔 機関「メタル・ガーディアン」であった。 そのため、世界の国々は自国を優先し、創世島を守ろうとはしなかったのである。 そして、二度目となる鏖魔の襲撃は、一人の男と一機の鋼騎によって阻まれる事とな る。 後に世界中から「勇者」と呼ばれ称えられた月守凌牙と咬牙王によって。 「だが、今回はちょっとばかし熱心にお願いしたから、ある程度まとまった金を援助し てもらえる事になったぞ。さすが俺だな。人徳が違う」 続く言葉に、場のスタッフから苦笑が漏れる。 真島烈という男が「熱心にお願いした」という事の意味を考えれば、その苦笑も当然 のものといえる。 「今回も孤立無援で色々と厄介な事が多い状態だが、俺がお前達のボスって事は前と同 じだ。そして、今回も俺達が勝つ。……例え相手が誰であろうとな」 烈の力強い言葉に、全ての者が頷く。 五年前と変わらぬ勝利を手にするために。 第六話 舞い降りた翼(前編)