陽が傾き始めた空に、一本の黒い剣を思わせる巨大な影が浮かぶ。 人間が「鏖魔城」と呼ぶ空中戦艦、「黒刃(こくじん)」の甲板の先、剣で例えるならば 切っ先にあたる部分に立つのは、三人の男女。 「ははっ、素晴らしいよ凌牙。今のはとても素晴らしい言葉だよ」 甲板に立つ男女の中の一人、白いスーツを着た男が無邪気な笑みを浮かべ、隣に立つ黒い スーツの男を見る。 男にしては少し長い黒髪を風になびかせる凌牙は、自分に笑みを向ける白いスーツの男、 終破をへ顔を向ける事をせず、遥か眼下に広がる台地を見据えたまま口を開く。 「静流のいない世界を滅ぼす事に、何も躊躇は無い」 独白のように紡がれた言葉が、甲板に吹く風に流されて消える。 「挨拶はこれで十分だろう。後は任せる」 踵を返した凌牙は、終破に背を向けて歩き出す。 それに一拍遅れて無言で付いていくのは、終破と同じ白いスーツの女性、斬華。 彼女はまるで凌牙の影であるかのように、正確に凌牙の一歩後ろに付き従う。 「任せるって言われてもね……さて、どうしたものかな」 一人甲板に残った終破は、口にした言葉ほど困った様子の見受けられない、無邪気な笑み を浮かべたまま、下界に視線を巡らせる。 鏖魔とは異なる世界で生きる人間の世界が、終破の視界全体に映し出される。 過去、二度に渡って侵攻し、そのどちらも敗北に終わった戦果に対して、終破は特に感情 を抱く事は無い。 そのどちらにも自分は関わっていないという理由のために。 むしろ、直接刃を交えていなくとも情報として入ってくる人間の戦力と、それに敗れた鏖 魔に、終破は失望にも似た感情を抱いていた。 ただ一人、月守凌牙とその愛機、咬牙王を除いて。 「僕が直接出るのは、もう少し人間の様子を見てからにしようか。僕を滅ぼせる可能性を見 せてくれる人間が現れてからでも、遅くはない」 誰にも聞かれる事のない結論を導いた終破は、凌牙達の後を追うように甲板を後にした。 「兄さん……どうして……」 ディスプレイ越しに兄と再会し、その言葉を聞いた悠羽は、突如として突きつけられた現 実に、ただ立ち尽くす事しか出来なかった。 呆然とした表情のままの悠羽が見つめる先にあるディスプレイは、もはや彼女の兄を映し 出してはいない。 「悠羽!」 鋭い声を発して、人ごみの中から悠羽の下へと駆け寄った早希は、彼女の肩を掴み、軽く 揺さぶる。 「早希さん……」 「悠羽、ウチも正直何が起こってるか理解できてないけど、今から鏖魔が攻めてくる、これ だけは確かや」 早口で捲くし立てる早希は周囲に視線を巡らせ、突然の事態に動きの止まっている作業員 に檄を飛ばす。 「あんたら何をボサっとしとるんや! 今から鏖魔が攻めてくるんやから、出せるモンは今 すぐ出せるように準備しとかんかい! 一斑は無人兵器の準備、二班はパラディンと聖炎凰 の準備や! 後は烈さんの指示に従うで!」 格納庫の空気を震わせる早希の号令に、作業員の全てが即座に動き出す。 一瞬にして戦闘態勢に切り替わった作業員を確認した早希は、再び悠羽に視線を戻す。 「なあ、悠羽。もう一度だけ聞くで。アンタは今から鋼騎に乗って、鏖魔と戦えるか?」 早希の言葉に悠羽は口を開かない。 「凌牙が鏖魔の仲間になってるなんて誰も予想できなかったし、この世にたった二人の兄妹 がお互いに戦うなんて、ウチはそんな事させたくない。だから、悠羽が鋼騎に乗らんって言 うなら」 「大丈夫ですよ、早希さん」 早希の言葉を遮った悠羽の声に力強さは無い。 だが、その瞳には弱々しいながらも確かな意志が宿っている。 「確かに、鋼騎に乗る事に迷いが無いって言ったら嘘になります。けど、鏖魔が攻めてくる 現実に立ち向かわなくちゃいけないのは事実です。それに」 悠羽は言葉を区切り、顔を上へと向ける。 遥か上空にいる兄を見るかのように。 「兄さんにこれ以上、酷い事を重ねさせる訳にいきませんから。妹として、自分の手で出来 る事はやっておきたいんです」 言葉と共に、悠羽は力の無い笑みを浮かべる。 せめて平静を装うという想いが見て取れる不自然な笑みが、早希の胸を締め付ける。 ――ごめんな、悠羽 悠羽の笑みに、早希は内心で何度も謝罪の言葉を告げる。 「早希、出せる兵器はあるか? 鏖魔が来るぞ」 突如として聞こえた声は、先ほどまで凌牙を映していたディスプレイからであった。 そこに映っているのは、黒のスーツを着崩した男、メタル・ガーディアン司令、真島烈で あった。 賭け事に興じていた時とは別人のような、鋭く攻撃的な顔つきになっている烈は、手と声 で周囲に指示を飛ばしながら、視線を早希の方へと向ける。 「大丈夫です、私が出ます」 早希の代わりに、一歩ディスプレイに近づいた悠羽が応える。 「悠羽!? しかし、鏖魔を率いているのは」 「知っています。でも、だからこそ、私がやらなくちゃいけないんです。私が兄さんを、月 守凌牙を止めます」 悠羽はディスプレイ越しに映る烈へと、自分に言い聞かせるように言葉を投げかける。 その言葉を聞いた烈は、しばし沈黙。 「……分かった。では、メタル・ガーディアン司令として月守悠羽に命じる。ただちに鋼騎 に搭乗し、鏖魔を撃破せよ」 烈の言葉を受けた悠羽が頷くのを見届けるように、ディスプレイの映像が中断される。 「鋼騎の準備はどうなってるんや!」 「パラディンはすぐに出せます! 聖炎凰はもう少し時間を下さい!」 烈と悠羽、二人の会話を聞いていた早希の声に、作業員が応える。 その言葉に応じるように、パラディンを固定するハンガーがゆっくりと倒れ、フェンサー が搭乗できる状態へと移っていく。 「パラディンで出ます! 早希さんは聖炎凰を頼みます!」 言葉が終わらない内に走り出した悠羽は、一陣の風のような速さと身軽さで格納庫を駆け ると、瞬く間にパラディンのハンガーへと辿り着き、搭乗を開始する。 「パラディン、起動します!」 一瞬にしてパラディンへの搭乗を終えた悠羽の声が、機体を通して格納庫内に響く。 「ウチらは聖炎凰に取り掛かるで! 一秒でも早く通常起動できるようにするんや!」 フェンサーを得た鋼鉄の巨人が立ち上がるのを見届けながら、早希は周囲の人間を促す。 「出ます!」 鋼鉄の身体となった悠羽の声は、スラスターの噴出によってかき消された。 メタル・ガーディアンの司令室は、その場にいる全ての人間が慌ただしく動いていた。 かつてのメサイアほどに人員を置いていないメタル・ガーディアンの司令室は、先ほど まで烈が賭け事に興じていた部屋とは別の場所にその機能を移転している。 部屋の中央に置かれた二つの席を中心に、コの字型に配置された席と大型のモニターで 構成された部屋、それがメタル・ガーディアンの司令室であった。 悠羽がパラディンに搭乗する姿をモニター越しに見ながら、中央の椅子に座る烈は横に 座る女性、ソフィアへと言葉を投げかける。 「俺は悠羽を止める事が出来なかったよ」 「私だって止める事はできないわよ。だって、あの子が決めた事なんですもの」 周囲のオペレーターが地上との連絡や鏖魔の監視を行う中、ソフィアは口元に笑みを浮 かべて応える。 自らを侮蔑する、自嘲の笑みを浮かべたまま。 「でも、あの子がこういう選択を取らざるを得なかった、その現実を作り出した私達は、 その責任を負い続けていかなければならない」 「ああ、分かっている」 「鎧鏖鬼、地上に転移します!」 オペレーターの叫びに似た報告に、二人は視線を正面のモニターへと向ける。 そこに映し出されたのは、何も無い空間に現れた黒い霧であった。 巨大な人魂のようにも見える、不安定で不気味な黒の霧は次第に形を変え、その姿を安 定させていく。 最終的に人型へと形を定めた霧が少しずつ晴れていき、その中から新たなモノが地上へ と姿を現す。 完全に晴れた霧の後に現れたのは、巨大な人型の骸骨。 人間が「スケルトン」と呼ぶ鏖魔の無人機動兵器、鎧鏖鬼の一種である。 人間の骨格をそのまま巨大化したような姿のスケルトンは、その巨大さだけでなく、骨 の表面に刻まれた文字のような記号と、右手に持った大型の剣がそれぞれ、これが鏖魔の 兵器である事を主張している。 このスケルトンの出現が、鏖魔が仕掛ける五年ぶりの戦闘行為、そして、月守悠羽と月 守凌牙との戦いの幕開けであった。 謁見の間を思わせる内装が施された鏖魔の巨大空中戦艦、黒刃の制御室、その玉座に座 る凌牙は、さして面白くもなさそうな表情を浮かべ、床に視線を落としている。 その視線の先にあるのは、普通の床ではない。 玉座へと続く赤い絨毯がひかれた床の一部が、水面に映った景色のように地上の様子を 映し出しているのだ。 地上を映すモニターとなった床が映し出すのは、黒い霧が一体の鎧鏖鬼になる光景。 かつて自分が幾度となく打ち倒してきた鎧鏖鬼の姿を確認した凌牙の瞳に、疑問の色が 宿る。 「終破は出ないのか」 「期待に添えなくて悪かったね」 凌牙の声に反応したのは、傍らに立つ斬華ではなく、制御室に入ってきた終破であった。 少年を思わせる顔立ちに無邪気な笑みを浮かべたままの終破は、赤い絨毯を踏みしめて 凌牙の下へとゆっくりと歩み寄る。 「正直言って、君のいないあの島に僕が出るほどの存在がいるとは思えないんでね。ここ は闘骨鬼(とうこつき)に任せて様子見という訳さ」 凌牙の座る玉座の傍らに立った終破は、自分の王である男が見る床の映像に視線を移す。 斬華も含めた三人の視線が集中する先には、地上に転移した闘骨鬼が右手の剣を振りか ぶり、大地へと叩きつける姿が映し出されている。 自分と戦う相手が出てこない事に対する苛立ちをぶつけるかのような一撃は、創世島の 大地に大きな傷跡を残す。 「それにしても、分からないな」 闘骨鬼が無目的に大地を傷つける姿から視線を外した終破は、凌牙へ顔と言葉を向ける。 「確かにここは君にとって特別な場所だというのは分かる。けれど、真っ先に破壊しよう とする意味は何だい?破壊するなら、もっと他にあるだろう?」 「終破様、皇魔である凌牙様の決定に逆らう事は」 「構わん」 終破の疑問そのものを咎めようとした斬華の言葉を遮ったのは、凌牙の一言。 両側に立つ二人の部下に一切の視線を向けない玉座の王は、深く暗い光を宿した瞳を、 ただ床の映像にだけ向けながら言葉を続ける。 「終破、お前はあの場には何も無い、そう言ったな」 凌牙の見つめる先には、闘骨鬼が再び剣を振りかぶろうとする姿が映し出されている。 「だがな、そうとも限らん」 凌牙の言葉と共に、映像の中の大地に、ある変化が現れた。 大地の一部、ちょうど闘骨鬼の正面にあたる部分が急速に沈んだのだ。 「あれから5年が経っている。果たして、どれほどのものになっているか」 自分の記憶と寸分も違わないその光景を前に、凌牙の口から言葉が漏れる。 間もなく、急速に沈んだ大地は、同じ速度で地上へと戻ってくる。 その上に鋼鉄の巨人を乗せて。 「さあ、見せてみろ悠羽。お前の力を」 闘骨鬼と対峙する巨人、パラディンを見る凌牙の口元には、いつしか笑みの形が作ら れていた。 「これが、鎧鏖鬼……」 自分の感覚と合一したパラディンのカメラ越しに見る闘骨鬼の姿に、悠羽の口から驚 きの言葉が漏れる。 目の前の闘骨鬼を含む多くの鎧鏖鬼は、五年前に基地のモニターを通じて幾度となく 見て、知っている。 だが、こうやって直接対峙して見る鎧鏖鬼は、自分の知っているそれとは全く違って いた。 五年前には決して分からなかった、剣を持った巨大な人骨という存在の持つ異様な不 気味さが悠羽の身体を包む。 ――でも 襲い来る感情から逃れるように、悠羽は軽く頭を振り、両の拳を握り締める。 ――でも、負けられません 自分の意志を再確認した悠羽は、闘骨鬼を睨むように見据える。 その先にいる、兄の姿をも見るように。 ――全ての力を、肉体と精神の隅々に行き渡らせる 目の前に現れた鋼鉄の巨人に反応を示した闘骨鬼が剣を向ける動きに合わせるように、 悠羽は深い呼吸を繰り返す。 メタル・ガーディアンの現指令である真島烈と、その父である真島剛から教えを受け た、鏖魔を倒すための力、真島流破鋼拳(はこうけん)。 その基本となるのが、練呼法(れんこほう)と呼ばれる特殊な呼吸法である。 通常とは違う特殊な呼吸で筋肉と精神の動きを高める練呼法を行う事で、悠羽の身体 能力は常人のそれを遥かに上回る。 更に数度の呼吸を行い、自分の身体に新しい力が入って来た事を確認した悠羽の眼前 に映るのは、闘骨鬼が手にした剣を振り下ろす姿であった。 回避行動を取るには余りにも遅いタイミングであったが、悠羽の心に動揺は無い。 既に練呼法の効果が現れた悠羽にとって、この程度の遅れは障害と呼べるようなもの ではない。 「ふっ!」 悠羽の口から放たれたのは、短く鋭い息の爆発。 同時に、彼女の身体となった鋼鉄の巨体が動き始める。 闘骨鬼が行った動きは、手にした剣で頭頂部から股間までを一直線に断ち割るもの。 それに対し、パラディンは身を屈めた前進という動きで迎える。 短いながらも加速の付いた一歩で、両者の距離はほぼゼロにまで近付く。 そのままの勢いで、既に無力化した剣が完全に振り下ろされるよりも早く、悠羽は次 の行動に移る。 闘骨鬼の懐に入ったパラディンは、屈めた身を一気に伸ばすように持ち上げると同時 に、左の掌底を勢い良く相手の顎へと叩きこむ。 鋼鉄の一撃に、顔をのけ反らせた巨大な骨の身体がわずかに浮き上がる。 宙を仰ぐ形となった闘骨鬼の頭部に、パラディンは即座に右の拳で追撃。 金属と骨とが激しくぶつかる音を盛大に奏でながら、闘骨鬼の身体は宙を舞い、地面 に落下する。 一瞬にして闘骨鬼に二発の打撃を与えた鋼鉄の巨人は、倒れる相手を見ながらも警戒 を緩めない。 『悠羽、まだ気を緩めたらアカンで!例えあの骨がくたばったとしても、それだけで連 中が終わるとは思えん!』 「大丈夫です。それに、まだスケルトンを倒した訳ではありません」 早希からの通信に応える悠羽の言葉通り、吹き飛ばされた闘骨鬼はゆっくりと立ち上 がり、再び剣を構えて戦う姿勢を見せる。 二発の打撃を受けた頭部が一部砕け、首から落ちそうになっているその姿は、安っぽ いホラー映画を思わせる。 「今ので倒れないなら」 闘骨鬼が立ち上がるのを見届けた悠羽は、相手に戦う意志がある事を確認した上で、 再び両の拳を握る。 「もう一度やります!」 先ほどと同じく剣を振りかぶる闘骨鬼に、悠羽は再び正面から立ち向かっていく。 黒刃の制御室で戦闘の経過を見守る三人の鏖魔は、それぞれに闘骨鬼と戦う鋼鉄の巨 人に興味を示していた。 「随分と面白いじゃないか。これが君の言っていた理由かい?」 闘骨鬼に鋼鉄の拳が叩きこまれる様子を見る終破は、幾分か興奮したような声で問い かける。 「月守悠羽、俺の妹だ」 床の映像から視線を動かさずに応える凌牙の声には、終破とは対照的に幾分かの不満 が込められていた。 悠羽が出てきた時に見せていた笑みも、いつの間にか消え失せ、床を見る彼の表情は 無機質なものに変わってしまっている。 「凌牙様、何かありましたか」 「ああ」 その変化に気づいた斬華の声に、凌牙は彼女の方を見る事なく言葉を返す。 「悠羽の相手、闘骨鬼といったか。あれが弱すぎるのでつまらんと思っていた所だ」 言葉通り、つまらなさそうに言葉を並べる凌牙の視線の先には、立ち上がった闘骨鬼 が再び頭部に鋼鉄の拳を浴びて倒れる様子が映し出されていた。 闘骨鬼とは、かつて自分も戦った事もあるが、ここまで弱いとは思っていなかった。 ――それとも、それほどまでに悠羽が強くなっているのか 思考を続ける凌牙の脳裏に浮かぶ一つの仮説を追及してみたい。 そんな衝動が彼の胸に渦巻く。 五年前に決別した妹が、どこまで強くなっているのかを確かめる。 他の誰でもない、自分の手で。 そして、三度目の打撃を受けた頭部が首から外れ、砲弾のような速度で海に落ちる姿 を確認した凌牙は、吐息を一つ吐き出して玉座から立ち上がる。 「凌牙様、どうされましたか」 「俺が出る」 そう応えて制御室を後にする凌牙の後を、やはり一拍遅れて斬華が追いかける。 「やれやれ、君も好きだね。わざわざ自分で出向く事も無いだろうに」 去りゆく王の背中にかけた終破の言葉に返事はない。 だが、それを特に何も思わなかった終破は、更に言葉を続ける。 「じゃあ、僕は君が出ている間に他の鏖魔を目覚めさせておくよ」 制御室の扉が閉められるのは、終破の言葉が終わるのと同時であった。 制御室を出た凌牙は、斬華の案内によって格納庫へと辿り着いた。 「ここにいるのか、咬牙王は」 「はい。我らが持つ全ての機体は、ここに」 五年ぶりとなる愛機の眠る格納庫の扉を見上げる凌牙に、斬華はいつも通り即座に言 葉を返す。 「それにしても、随分と大きな扉だ」 「人間のサイズで表すなら、高さ約五十メートル、幅は約二十メートル、厚さ約三メー トルほどです」 「格納庫の扉にしては大袈裟すぎるな」 「同感です。では、扉を開きます」 言葉と共に、斬華は扉に左手をそっと添える。 どこまでも白く、細く長い指を持つ斬華の手は、見る者に、これ以上ないほど精巧に 作られた人形のような印象を与えるものであった。 直後、小さな電子音がしたと同時に巨大な扉は中央から左右に分かれ、二人に格納庫 への道を示す。 「どうぞ、中へ」 扉が完全に開ききった事を確認した斬華は、手で凌牙を促す。 その動きに従うように中へと進む凌牙は、扉の奥に広がる巨大な空間を見上げずには いられなかった。 規格外の巨大な扉の奥に広がっていたのは、更に規格外の広さを持つ空間であった。 「広い、などというレベルではないな、これは」 「約五キロ四方、高さは五百メートルありますが、今は鎧鏖鬼が減ったので数字よりも 広く感じられます」 扉を閉め、定位置である凌牙の後ろに立つ斬華の解説に、凌牙は改めて周囲を見渡す。 立っているだけで気が狂いそうな広さの空間は、床や壁、天井も全てが灰色で塗り潰 されており、所々に立つ鎧鏖鬼らしき巨大な影が異なる色を放っている。 だが、斬華の言うように鎧鏖鬼の数は少なく、凌牙の視界に入る中には数体しか確認 する事は出来ない。 恐らく、格納庫全体でもそれほどの数は無いのであろう。 広さを感じる理由はそれだけではない。 人と物が徹底的に排除されているのだ。 凌牙の記憶にあるメタル・ガーディアンの格納庫は、常に人と物が溢れていた。 鋼騎を整備するためには、大量の人や物が必要なのだ。 が、目の前に広がる光景に、それらは一切見当たらない。 本来あるはずの、機体を整備するための人員や設備が一切置かれていない空間は、た だ広いだけでない異様な違和感があった。 「鎧鏖鬼に、人間の機械のような整備は必要ありません」 周囲を見渡す凌牙の疑問を知っていたかのように、斬華は彼の背に言葉を投げかける。 「随分と便利なものだな」 「人間とは技術体系が違いますので」 「そうか」 斬華の説明に特に興味を示した様子のない凌牙は再び視線を周囲に巡らせ、新たに浮 かんだ疑問を口にする。 「咬牙王はどこにある。この空間の中を探して歩くのか」 「安心を」 そう応えた斬華は懐から野球ボールよりも一回りほど小さな黒い玉を取り出し、凌牙 に見せるようにそれを掲げる。 「咬牙王は、この中にいます」 「この中に……だと」 斬華の言葉に、凌牙は思わず眉をひそめる。 彼女が持っているそれは、どう見ても咬牙王が入るようなサイズではないのだ。 そんな凌牙の言葉に応えるように、斬華は小さく頷く。 「では、今から咬牙王をここに出現させます」 そう口にした斬華は、手にした玉を軽く放り投げる。 緩やかな放物線を描いた玉は間も無く地面と接触し、乾いた音を格納庫内に反響させ る。 変化が訪れたのは、その直後であった。 「これは……」 変化を目の当たりにした凌牙の口から、驚きの言葉が漏れる。 目の前で起こっている現象は、自分もよく知っているものであったために。 斬華の投げた黒い玉が地面にぶつかると同時に真っ二つに割れ、中から黒い霧のよう な物が現れたのだ。 格納庫全体を包むかのような勢いで増殖した黒い霧は、まるで全体で一つの意志を持 つ生物であるかのように、一つの形を作るべく動き始める。 黒い霧が作る形は、人型に酷似しながらもどこかが決定的に違う、複雑な形。 それは、凌牙が誰よりも熟知している形でもある。 やがて霧は徐々に晴れていき、その中から黒い金属の放つ鈍い輝きが見え始める。 そして、霧が完全に晴れたその場に存在したのは、黒を基調とした鋼鉄の巨体。 人型を模しながらも、獅子を思わせる意匠を随所に取り入れたデザインは、獣と人と 鋼鉄の調和というスタイルの完成形である。 黒の装甲に映える黄金の鬣(たてがみ)を頂く機体の名は咬牙王。 五年前、たった一機で人類を鏖魔から守った、まさに人類の救世主ともいうべき鋼騎 である。 「咬牙王、変わらんな」 五年ぶりの再会となる愛機に、フェンサーである凌牙の声が、わずかに喜びの色を帯 びるが、それはすぐに疑問へと転ずる。 「だが、どうやってここまで修復した。あの状態から修復など、そう簡単にできるもの ではあるまい」 「装甲や内臓機関の多くはこちらの物に換装しました。その機体で人間側の部分が残っ ているのは、コクピットと右腕の一部、それと『機結陣』と呼ばれる特殊な部分のみで す。意匠だけは完全に再現できたと思いますが、何か不満がありましたか」 「いや、それが残っていれば何も言うまい……では、出るぞ」 改めて咬牙王を見上げた凌牙は、まるでフェンサーを迎え入れるかのように胸部のコ クピットハッチが開いているのを確認すると、機体の凹凸部を足場に軽々と機体を駆け 上がっていく。 常人の領域を遥かに超えた軽業で地上二十メートルほどの高さにあるコクピットまで 腕さえも使わずに辿り着いた凌牙は、シートに座ると同時に、慣れた手つきでコクピッ トハッチを閉じる。 外界から遮断されたコクピットが闇に包まれるより早く、内部の照明が最低限の明か りを確保する。 HMLSの起動により、視界が鋼騎のものになる事が前提として設計されているため、 コクピットを照らす明かりは心許ない。 狭いコクピットをほのかに照らす明かりの中、凌牙の視線は右へと流れる。 その先にあるのは、「S.Amane」と書かれたサインであった。 美しく流れるような筆記体で書かれたサインは、この機体を設計した人物、天音静流 が自ら書いたものである 「静流」 凌牙はサインを優しく指でなぞりながら、それを書いた者の名を呟く。 天音静流という、最愛の女性の名を。 丁寧に、優しく、愛おしく。 「君はもうこの世にいないが、君の遺した咬牙王はこうやって今も残っているよ。ただ、 外も中も少しだけ変わってしまったけどね」 終破や斬華の前では見せない、柔らかな笑顔を浮かべた凌牙の、文字をなぞりながら の独白は続く。 まるで、その文字に彼女の魂が宿っているかのように。 「君が鏖魔を滅ぼすために作った咬牙王で、俺は人間を滅ぼすよ。もちろん、その後に は鏖魔も滅ぼす。そうやって全てを滅ぼした世界を作った後に、俺も滅びるよ。でも、 どうやっても僕は君の所に辿りつける事は無いんだろうね。それでも、君がいない世界 で誰かが生きるのも、俺が生きるのも、もう耐えられない」 言葉を終えた凌牙は、返事を待つかのように間を置くが、当然のように返事はない。 凌牙な柔らかな表情の中に、暗い陰が差す。 どれだけ望もうと言葉の返ってこない、虚しい一人語りだけが持つ、両者の間に吹く 風は、地獄の氷のように冷たく、鋭い。 それでも、凌牙は問いかけずにはいられない。 彼女を失くしてから、凌牙は昼夜を問わず言葉を紡いできた。 返る事の無い返事を望みながら。 「静流、もう少しだけ見ていてくれ。もう少しで、全てを終わらせる」 それを最後の言葉として、凌牙は彼女のサインから指を離す。 それを合図とするように、凌牙の表情もまた元へと戻る。 最愛の女性に語りかける柔らかな表情から、無機質な皇魔のものへと。 一時的に過去と決別した凌牙は迷う事無くHMLSを起動し、咬牙王と自分の意識を リンクさせる。 鏖魔側の技術で修復された状況において、数少ないオリジナルの機能であるHMLS は、即座に咬牙王と凌牙を繋ぎ、両者の間にある距離をゼロに導く。 『凌牙様、出る時は転移機能を使って下さい。行き先を想えば転移できます』 HMLSに接続する時を見計らったかのようなタイミングで聞こえる斬華からの声に、 凌牙は無言で応え、その言葉通りに頭の中で転移先のイメージを描く。 向かう先はただ一つ、かつて自分が家とし、家族同然の者に囲まれて過ごした場所。 唯一の肉親である妹と、自分が全てを委ねた女性との想いが詰まった場所。 様々なイメージが凌牙の脳裏をよぎると同時に、咬牙王の巨体が出現した時とは逆に 形を失い、黒い霧状へと変化していく。 そして、完全な霧状になった咬牙王は、そのまま色を失い、消失した。 全てを破壊する意志を乗せて。 メタル・ガーディアンの指令室では、初めての実戦を行う悠羽が、見事に闘骨鬼を打 ち倒す様子がモニターで映し出されていた。 だが、悠羽の勝利に湧き上がるスタッフはいない。 五年前の戦いを経験している者は理解している。 この攻撃が、これだけでは終わらない事を。 戦いが終わっても緩まない空気を感じ、若手のスタッフの中にも喜びの声をあげる者 はいない。 「とりあえずは一勝か。上空の様子はどうなってる?」 頭部を失った巨大な人骨が微動だにしない事をモニターで再度確認しながら、烈は問 いかける。 「今の所動きはありません。鏖魔城からは何の反応も……司令、横田基地の大熊主任か ら通信です」 「モニターに出してくれ」 報告を途中で止めた女性オペレーターは、自分の言葉を遮るように入ってきた通信を 指示通りモニターに映す。 そこに映し出されたのは、その名が示す通り、熊のような顔をした日に焼けた肌の男 であった。 『烈!これは一体どういうこった!?凌牙君の通信はこっちでも確認出来たぞ!』 「どうもこうもねえよ。五年前に予想出来たといえば出来た事だ。それより、俺はお前 にあんな奥さんがいる事の方が信じられん。あれは予想できなかったよ」 開口一番、大声で怒鳴るように問いかける鉄男に対し、烈は軽口で応えた後、表情を 引き締めて続ける。 「どういう理由があろうと、凌牙が鏖魔の仲間になって俺達を殺そうとしてる事実に変 わりはねえんだ。なら、こっちもやるべき事をやるだけだよ。俺もソフィアも、悠羽も 同じ気持ちのはずだ」 その言葉に鉄男は何か言いかけるが、言葉を飲み込み、次の言葉を吐き出す。 『分かった。こっちはすぐに戻れそうにないが、聖炎凰の事は早希達に任せてやってく れ。何とか通常起動くらいには出来るはずだ。あとな、烈』 ここで言葉を切った鉄男は、周囲を一度見渡し、声を潜めて言葉を続ける。 『ブラウン中佐が、まだお披露目してない新型機とフェンサー連中を連れて狂喜乱舞し ながらここを出て行ったぜ。大方、五年前の復讐ってつもりだろうが、ちとまずい事に なったな』 鉄男の言葉に、スタッフの間で小さなざわめきが起こる。 「新型機のお披露目兼テストのついでにこの島を焼け野原にした上で、この組織の存在 について説教コースって訳か。嬉しくて涙が出るね」 既に何度か顔を合わせた事のあるアメリカ軍人の顔を思い出し、烈の気分は軽口とは 対照的に、ひどく憂鬱なものになっていく。 烈が、あと何時間かもしない内に顔を会わせる事になるであろう相手への対処を考え ていたその時、司令室全体に再度の警報が鳴り響いた。 「転移反応あり!数は一体です!」 「わかった!悪いな鉄男、通信は終わりだ!」 「悠羽、次の鎧鏖鬼が来たわ。大丈夫、落ち着いてやれば出来る」 警報に合わせ、それぞれが再び各自の務めを最大限に果たすために動き始める。 警報が示すとおり、創世島の大地に鎧鏖鬼の転移の証拠である黒い霧が現れ、次第に 形を作っていく。 「…………なんだと、おい」 霧が作っていく形が何を意味するのかを理解した時、烈の口からこぼれた言葉に反応 できる者は誰もいなかった。 彼だけでなく、それを見ていた者全てが同じ思いに囚われていたために。 「まさか、ね。さっき姿を見たばかりとはいえ、いきなりそれはないでしょう?」 まるで自分の見たものが信じられないと言いいたげなソフィアの乾いた言葉が、動揺 する室内の空気に溶けて消える。 「て、転移終了を確認。こ、咬牙王です……」 驚きで声も出ない中で、精一杯勤めを果たそうとしたオペレーターが、何とか事実だ けを口にする。 司令室のモニターに映し出されていたのは、五年前と何一つ変わらない咬牙王の姿で あった。 「嘘…………」 パラディンの頭部カメラと一体化している悠羽の視界に映るのは、陽が完全に沈んだ 創世島に突如として現れた鋼の巨体。 黒い霧と共に現れた、夜空の闇よりも深い黒の装甲と、月の光を受けて輝く美しい黄 金の鬣を持つその姿は、悠羽の記憶の中にあるそれと寸分も違わない。 自分の兄が乗り、「勇者」と呼ばれるに相応しい強さを誇ったその機体は、人間の身 体でいう所の目にあたる紅の頭部カメラでこちらを見ている。 装甲越しに伝わるその視線だけで、悠羽は理解した。 兄、凌牙は自分が今この機体に乗っている事を知っているのだ、と。 「どうして」 悠羽の声は、パラディンに取り付けられたスピーカーを通じて創世島の大気を震わせ、 眼前に立つ兄へと言葉を届ける。 「どうしてなんですか」 お互いに身体は鋼鉄になった状態ではあるが、五年ぶりになる対面に、悠羽は胸の奥 から湧き上がる言葉を吐き出す。 「どうして! どうしてあんな事を! この世界は兄さんが守った世界じゃないんです か!? それを」 「少し黙れ」 抑えきれない感情を爆発させた悠羽の言葉を遮ったのは、妹とは対照的に、冷たささ え感じる言葉であった。 その言葉に従うかのように静まった妹に向けて、凌牙は咬牙王という身体を通して言 葉を紡ぐ。 「いきなり何を言うかと思えば、五年前と同じ言葉を並べるだけか。その答えは既に返 してやったはずだがな」 目の前に立つ妹の愚かさを哀れむような感情を乗せた言葉が、悠羽の胸に突き刺さる。 それは、今話している兄が本物である事の証明であると同時に、自分が持っていたわ ずかな希望を打ち砕く事への証明にもつながるために。 かつて、人類を鏖魔の手から救った兄は、何があっても最後は人間のために戦ってく れる、そう信じていた。 五年前の事件も乗り越えて、その力を再び鏖魔へと向けてくれると、そう信じていた。 鏖魔の一員として宣戦布告をする姿を見てもなお、悠羽は信じていた。 だから、続けて放たれる凌牙の言葉だけは、聞きたくなかった。 「俺が世界を救っただと。馬鹿も休み休み言え。いいか悠羽、俺が鏖魔と戦って守りた かったのは人類でも国家でもお前でもない。俺が守りたかったのは唯一つ、天音静流と いう名の女の幸せだけだ」 五年前と同じ言葉が、同じ口調で語られる。 氷のように冷たい言葉が、創世島の周囲を包む。 「そして、静流の命を奪ったのは鏖魔ではなく、お前達人間だった。だから俺は人間を 全て殺すと決めた。それが全てだ。他の要素が入る余地など、どこにもありはしない」 自分が話している言葉の重大さを感じさせないほどに淡々と話し続ける凌牙の耳に、 一つの電子音が割り込んでくる。 五年ぶりとなる電子音の正体が、司令部からのコールという事を思い出すのに一瞬の 時間を要した凌牙は、同じく思い出すのに一瞬の時間を要した後に、視界の妨げになら ないよう、音声のみ通信を繋げる。 『凌牙! それが、それが実の妹に対して言う言葉か! このスカタン!』 「……早希か」 音量の自動調節がなければ鼓膜を破られていたのではないかと思わせる勢いの剣幕の 主を思い浮かべた凌牙は、無感動な返事で応える。 『ああ、そうやウチや。五年ぶりに姿を見せたと思ったら鏖魔の仲間になってるわ、悠 羽にボロカスな事言うわで、訳分からんの通り越して腹立ってきたわ!』 収まる気配の無い早希の剣幕を眉一つ動かさずに受け止めた凌牙は、大袈裟なほど大 きな吐息を前置きに、口を開く。 「それで、何が言いたい。お前は昔から騒ぐだけ騒いで、何が言いたいのかが分からん。 お前も悠羽と同じように俺を止めようと無駄な言葉を吐き出すのか」 『当たり前や! ウチらが気合い入れて整備してた咬牙王をそんな事に使うのは、一人 の技術屋として耐えられへん! それに、自分かて同じ人間のくせに人類を殺すとか何 とか、自惚れんのも大概にしいや!」 早希の剣幕に、咬牙王と凌牙に対する懇願にも似た感情が含まれている事に気付きな がらも、凌牙は動じない。 「人間か」 それどころか、言葉を漏らす凌牙の口元には薄く笑みの形が作られていた。 自分の事を心底想っているからこその早希の叫びを嘲るような笑みが。 『な、何が言いたいんよ……』 恐らく格納庫のモニターでその笑みを見たであろう早希からの言葉は、凌牙の笑みに 恐怖したのか、ひどく弱々しいものであった。 「いいだろう。お前達全員に面白いものを見せてやる」 言葉と同時にHMLSを一時中断し、咬牙王とのリンクを切り離した凌牙はコクピッ トハッチを開放してシートから立ち上がり、外気にその姿を晒す。 地上約二十メートルの高さから大地を見下ろす凌牙は、天に突き出すように左腕を掲 げた姿勢のまま口を開く。 「見ろ」 行動は、言葉と同時であった。 凌牙の右手が稲妻のような速さで動き、彼は右の親指の爪で頭上に掲げた左の手首を 切り裂いたのだ。 当然の結果として、傷付けられた左手首からは血が流れ始める。 そして、それを見た誰もが言葉を失ってしまった。 それは、凌牙の自傷行為に対してではなく、その結果が招いたものである。 「黒い、黒い血が……」 最初に言葉を発したのは悠羽だった。 「そうだ」 妹の言葉に対し、凌牙は肯定で返す。 自分の手首から流れる、コールタールのような黒い血を眺めながら。 「この黒い血こそが、俺が人間の肉体を捨て、鏖魔になった事の証だ。俺は、お前達を 滅ぼすため、人間である事さえも捨てたのだ」 創世島の夜に響く凌牙の言葉に応える者はいない。 応えようにも、誰も応える事が出来ないのだ。 自分が人間である事を捨ててまで復讐に臨む、そこまでの覚悟に対する言葉が、誰の 中にも存在しないために。 「下らない戯言はこれまでだ。俺を止めると言うのなら、実力で止めてみろ。そのため に強くなったのだろう、悠羽」 再びコクピットに戻り、HMLSを起動させた凌牙は、咬牙王の身体となった声で告 げる。 「こうやって俺が来たのも、先ほどの戦いを見て少し血が騒いだためでな。この五年、 お前がどれだけのものになったか、見せてみろ」 「分かりました」 ゆっくりと、しかし力強い声で応えた悠羽は両の拳を前に突き出し、構える。 「もう私達の言葉が届かないというのなら、力づくでも止めて見せます。それが、月守 凌牙の妹としての私の役目です」 「そうだ、それでいい」 悠羽が構えた事に対し、満足そうな声を放った凌牙は構えを取ろうとしない。 ただ紅の瞳をパラディンの方へと向けたまま、咬牙王は動かない。 まるで、悠羽の攻撃を受ける事に専念するかのように。 「いきます!」 その言葉が、兄妹の戦いを告げる合図となった。 創世島で起こっている異変を、遥か遠くの上空から見る巨大な影があった。 夜空を切り裂いて飛ぶ影は、巨大な鳥を連想させる一対の翼と、大きく膨れ上がった 胴体を有する米国の鋼騎輸送機『ビッグバード』である。 「中佐、間も無く創世島です」 「祖国の仇、リョウガ=ツキモリともうじき対面という訳か」 ビッグバードの操縦桿を握る初老の黒人機長の声に応えたのは、オールバックにした 金髪を頂いた神経質そうな顔の白人、リチャード=ブラウン中佐であった。 軍服を着ていなければ金融業界にでも勤めていると思われそうな風貌のブラウンは、 右手に持つ写真を忌々しげに見つめる。 ブラウンの持つ写真に写っているのは、攻撃的な鋭い顔を持つ黒髪の男、月守凌牙。 「それにしても驚きましたな」 黒人機長は横目で凌牙の写真を見て、先ほど通信機から聞こえてきた声の主の姿を確 認する。 ビッグバードの通信機は音声専用なので、凌牙の流した黒い血を直接見る事は出来な かったが、音声だけでも凌牙の身体が鏖魔のものとなった事は十分すぎるほどに伝わっ ている。 「好都合だよ」 写真に映る凌牙の顔を指で弾きながら、ブラウンは黒人機長の方を一切見る事無く言 葉を続ける。 「奴が鏖魔の一味になってくれた事で、例えどんな殺し方をしようが我々が責められる 事は無い。国際法だろうが何だろうが、鏖魔に対する法など無いのだからな。それにし ても、哀れなまでの勤勉さしか売りの無い日本人が裏切りとは、近頃の黄色い猿は教育 がなってないな。連中のためにも、この国をもう一度焼け野原にしてやらんといかんの かもな」 独り言となったブラウンの言葉の後半部分を聞く黒人機長の顔が不快の表情を示す。 黒人である彼は、今までの人生において米国に根付く人種差別に幾度となく衝突して きたが、ブラウンのように露骨で苛烈な人種差別を行う人間は初めてであった。 彼が自分と視線を合わそうとしないのも、自分が黒人であるために違いない。 今回のフライトは緊急であったため、止むを得ずという形で自分が操縦桿を握ってい るが、普段なら決して黒人の機長の横に座る男ではないのだ。 そんな機長の内心に構わず、ブラウンの独り言は続く。 「黄色い猿の巣である日本に配属された時は気が狂いそうだったが、リョウガを始末で きるチャンスに恵まれたのだ。神は私を見捨ててはいないという事か」 もはや機長の事など意識に無いのであろう、凌牙の写真を見ながら呟くブラウンは、 既に目的を達成したかのような笑みを浮かべている。 「中佐、そろそろ鋼騎の準備を」 笑みを抑えようとはしないブラウンに内心で辟易しながらも、職業意識で辛うじて平 静な表情を保ちながら報告を行う。 「ああ、分かった」 機長の方に視線を向けないまま面倒そうな返事をしたブラウンは、通信機を操作して 機内の人間、鋼騎の乗り手であるフェンサーに指示を飛ばす。 「私だ。各フェンサーは鋼騎に搭乗し、降下装備の最終確認を行いたまえ。いいか、今 回の作戦は我が祖国の仇、リョウガを抹殺するだけが目的ではない。諸君らに与えた新 型鋼騎、その性能を世界に見せつけ、我らアメリカこそがナンバーワンである事を知ら しめるのだ」 自分の言葉だけを告げ、返事を待たぬままに通信を終わらせたブラウンは自分の言葉 に酔ったのか、満足気な表情を浮かべたまま動かない。 その代わりと言わんばかりに、ビッグバードの巨体が小刻みに揺れ始める。 気流の影響とは違う揺れは、格納庫の鋼騎が起動し、動き始めた証拠である。 「過去の勇者は今日、自らの本拠地で死ぬ事になる。そして、新たな勇者の称号を手に するのは、我らアメリカだ」 ブラウンの呟きに、機長は自分が今、平静な表情を保っていられるかどうかの自信が 無かった。 米軍の足音が近づいている創世島の地表では、銀と黒、二機の鋼騎が激しい格闘戦を 繰り広げていた。 正確には、激しく動いているのは一機の鋼騎のみではあったが。 「はぁっ!」 鋭い声と共に銀の鋼騎、パラディンの腰が回り、右脚が鋭い軌跡を描いて左上へと跳 ね上がる。 対する黒の鋼騎、咬牙王は自らの頭部に迫る強烈な蹴りを首の動きだけで回避。 ちょうど顔面に触れるか触れないかの所を通過した鋼鉄の右足が大地を踏みしめるの と同時に、蹴りに合わせて回転の動きを行っていたパラディンの身体は、そのまま左の 回し蹴りへと攻撃を繋げる。 だが、その攻撃も軽く後ろに下がった咬牙王を捉える事は出来ない。 不発に終わった左足を地に着け、咬牙王と向き合ったパラディンの動きは止まらない。 屈んだ態勢から後ろに下がった分の距離を一気に詰めたパラディンは、膝を伸ばす動 きに合わせ、右の拳を勢い良く突き出す。 先の戦闘で闘骨鬼に対して行ったのと同じ攻撃である。 しかし、結果は全く逆のものであった。 咬牙王は下から突き上げられた拳を、上体を反らす事で難無く回避したのだ。 上体を反らす動きに合わせ、咬牙王は後ろに一歩下がり、拳の後に放たれた膝蹴りも 回避する。 そして、続いての攻撃である足払いに対し、咬牙王はバク転の要領で後方へ大きく一 回転をしながらジャンプし、着地。 鋼鉄の巨人の挙動とは思えない軽やかな跳躍と、重量を感じさせない静かな着地によ り、両者の間に拳や蹴りでは届かない距離が開かれる。 「どうした悠羽。そんな攻撃では俺を止めるどころか、攻撃をガードする必要さえ無い のだが」 やはり構えらしき構えを取らない咬牙王は、パラディンの猛攻を受けたにも関わらず 傷一つない装甲を誇示するかのように両手を広げる。 「闘骨鬼と戦うお前を見て、どれほど強くなったのかと思えばこの様か。あの時感じた 血のざわめきは俺の勘違いだったか」 凌牙の言葉に、悠羽は無言のまま構える。 それが自分の答えだと示すように。 その姿に、凌牙の口元がわずかに緩む。 「ほう、まだ戦う意志を持ち続けるか。実力はともかく、精神力だけは大したものだ。 だが、いつまでもお前に付き合っている暇は無い。お前以外にも相手がいるのでな」 咬牙王はパラディンから視線を外し、その紅の瞳を本土へと向ける。 東京湾上に浮かぶ創世島から確認できる東京の灯は、この島で起こっている戦闘が嘘 のような眩さを放ち、そこに生きる人々の幸福を表している。 だが、咬牙王の紅の瞳は、そんな街の灯を見てはいなかった。 『凌牙様、そちらに航空機が一機近付いておりますが』 咬牙王の視線を察知したかのようなタイミングで通信を入れてきたのは、遥か上空で 待機している斬華であった。 「放っておけ。そいつらも俺が始末する。だが、航空機そのものの始末はお前に任せる。 連中が鋼騎を落とした後は好きにしろ」 『了解しました』 斬華の即答と共に通信は終了し、咬牙王の視線も正面に戻る。 「タイムアップだ、悠羽。さっきも言ったが、お前の遊びにはこれ以上付き合えん。次 の一撃で最後にしてやる」 一方的に告げられたタイムアップにも、悠羽は言葉を返さない。 その代わりに、彼女は自分の中で思考を繰り返していた。 ――どうすれば、兄さんに攻撃を届かせる事が出来ますか…… もう何度も繰り返してきた問いに、答えは無い。 自分が出来る限りの攻撃は既に繰り出しているが、そのどれもが紙一重の距離で見切 られてしまい、当てる事はおろか、ガードさせる事すら叶わない。 先ほどの足払いを回避した時のように、距離を大きく開けるような目的がない限り、 凌牙は最低限の動作のみで回避を行う。 それが最も効率的で、反撃にも転じやすい動きであるための回避方法なのだが、それ を行うには常人では考えられない反射神経と動体視力、それに天性の才能が必要である。 まして、感覚を一体化させているとはいえ、自分の身体ではなく鋼騎の身体でそれを 行うのは、もはや人間業ではない。 こちらを倒すつもりがないのか、今までに咬牙王から攻撃と呼べる行動は何一つ行わ れていないが、仮に反撃されていたとしたら、今頃パラディンは巨大な鉄屑になってい るであろうという事は想像に難くない。 ――やはり、兄さんには 敵わない、と続きそうになる想いを、悠羽は寸前で押し留めた。 相手に対して精神で屈伏してしまっては、勝つ事など叶わないのだ。 「それでは、最後の一撃です」 決して負けない、その想いだけを頼りに、悠羽は重い口を開く。 相手に対して攻撃の宣告を行う形になったが、どのみち策も無ければ、それが通用す る相手でもない。 「受けてもらいます!」 全身の力を吐き出すような声と共に、悠羽はパラディンの操作を強くイメージする。 イメージする部分は、人間の身体には決して備わっていない部分、背部のスラスター である。 パラディンの身体を持ち上げるほどの推力を持つ背部スラスターの出力を一気に全開 まで高め、自らの身体を砲弾のようにして突撃し、左の拳を叩きこむ。 もし拳が外れても、最低限の回避しかしない咬牙王に、砲弾と化したパラディンの身 体が衝突し、ダメージになる。 それが、悠羽の思いつく限りで最善の方法であった。 悠羽のイメージ通り、背部のスラスターの出力は限界まで高まり、パラディンの身体 がわずかに宙に浮く。 そして、最大限の加速を身に着けたパラディンは、巨大な鋼鉄の砲弾となって咬牙王 の元へと飛び込んでいく。 ここまでは全て悠羽のイメージ通りの流れであった。 だが、異変は突然訪れた。 「っ……!」 激しい衝突音に気付いた時には、全てが遅かった。 自分のミスを後悔するよりも、何が起こったのか確認しようとした悠羽の視界に映っ たのは、地面に伏した自分の身体と、パラディンとの衝突により抉れた大地、そして、 「やはり、その程度だったか」 こちらを見下ろす咬牙王の姿であった。 悠羽は自分の犯したミスを確認するべく、倒れたままの姿勢で左へと視線を動かす。 そこには、あるべきはずの物が抜け落ちていた。 パラディンの左肩から先の部分の全てが。 「油断が過ぎるな。俺が反撃しないとでも思っていたのか」 残された右腕を使って立ち上がろうとするパラディンに、凌牙の冷たい言葉が投げか けられる。 無論、悠羽とて反撃を全く考えなかった訳ではない。 しかし、凌牙の行った反撃が悠羽の予想を遥かに超えていたのだ。 ――兄さんの蹴りが、全く見えませんでした まるで血液のように潤滑油が零れ落ちる左肩の切断面を見る悠羽は、この破壊を生み 出した咬牙王の、凌牙の蹴りを記憶の中から呼び覚ます。 真島流破鋼拳には、「腕は槌と化し、脚は刃と化す。故に我が拳は破鋼なり」という 言葉がある。 これは、真島流破鋼拳の理念を言葉にしたものであり、この格闘術を極めた者が辿り 着く境地を表したものでもある。 その言葉通り、破鋼拳の達人は鍛錬の果てに拳一つで岩を砕き、蹴り一つで木を切る 事が出来る。 凌牙が放った蹴りは、その境地を実践して見せただけにすぎない。 その境地は、達人と呼ばれる人間でさえ決して到達する事の無い境地ではあったが。 神業とも言える速度と精度を誇るその蹴りは、悠羽の視覚に捉えられる事無く、正確 にパラディンの左腕を切り落としたのだ。 限界に挑んだ状態の高速移動中に左腕を切り落とされ、重心の狂ったパラディンに違 和感を感じた悠羽の意識から背部スラスターの事が消失した瞬間、背後の火は消え、加 速を失った機体はバランスを崩して地面に倒れる。 それが、一連の流れの全てであり、パラディンの最後の攻撃が失敗した理由である。 「今の一撃で分かっただろう。お前は決して俺には勝てないという事が」 妹との決定的な力の差を見せつけた凌牙は、再び視線をパラディンから外す。 「次の相手がやってきたようだ」 『悠羽! 上空から鋼騎が五機降ってくるで!』 凌牙と早希、二人の言葉が悠羽の耳に届いたのは、ほぼ同時であった。 そして二人の言葉通り、上空から大気を切り裂き、降下用の装備を装着した五機の鋼 騎が創世島の地表に降り立った。 「リョウガ=ツキモリ。今日ここで、お前は死ぬ事になる」 降下してきた五機の内の一機から聞こえてきたのは、英語での宣戦布告であった。 第二話 絶氷葬(前編)