かつて、科学を極限にまで発展させた世界があった。 その世界に住む人々は、発展させた技術を用いて自らの身体に手を加え、ヒト としての領域を逸脱する事に成功した。 骨や筋肉、神経系を強化し、超人的な身体能力を手に入れる者。 脳を強化し、演算や記憶の能力を高める者。 体内の不健全な細胞を入れ替え、病を克服する者。 ヒトがヒトである事の根本を揺るがす様々な変革をもたらした文明の発展は止 まらず、ついに世界は究極とも呼べる一つの技術を確立するに至った。 それは、生命の若返り。 年老いた人間が、それまでに得た知識や経験をそのままに、若い肉体を手に入 れる事を可能にしたその技術は、不老不死の具現化にも思えるものであった。 だが、ヒトとしてだけでなく、生命としての範疇さえ大きく逸脱してしまった 人間は、文明と社会の整備を同じ速度で発展させる事ができなかった。 生命の大原則である老いさえも否定する技術がもたらしたのは繁栄ではい。 一部の特権階級に属する者達による技術の独占は、彼らに終わる事の無い支配 を可能にさせ、脳や肉体の強化は彼らの地位を更に盤石にするために大いに利用 された。 地位、名誉、富、権力といった、人を支配するために必要な力だけでなく、常 人より遥かに優れた頭脳や肉体を持ち、老いを知らぬ。 そんな支配者達が自分を神だと錯覚するまで、そう長い時間はかからなかった。 そして、神となった支配者達は、ヒトを苛烈に攻め立てた。 歴史上に数多存在した暴君と同じく、搾取と流血の二重奏で自らの欲望を満た す支配者達だが、やはり歴史上の暴君と同じく、その時代は長くは続かなかった。 永遠の生命を享受し、支配の悦楽に浸っていた彼らに終焉をもたらしたのは、 奇しくも彼ら自身が生み出した兵器であった。 それは、人間と同じ姿形をし、自身で考え、動くための意志や感情を持ち、互 いに個体数を増やすために生殖機能さえも有する究極の兵器。 大量の人員と兵器を投入する従来の戦争を一新するため、少数で極大の破壊を もたらすべく生み出されたその兵器は「甲種自律型完全殲滅兵器」と名づけられ たが、開発者の予想を上回る戦果に、もう一つの名が与えられた。 鏖(みなごろし)の悪魔、鏖魔という名を。 技術の粋を結集して生み出した最強の兵器に付けた新たな名の意味を、彼らを 開発した者や、それを所有する者は知る事になる。 自らの命を差し出す形で。 およそ「敵」と呼べる者を全て滅ぼした鏖魔は、次に自分達の生みの親を滅ぼ すために動き始めたのだ。 鏖魔の反乱は、世界の支配者を倒し、自分達が次の支配者になるためでもなけ れば、自分達を生み出した者を滅ぼし、自由を得るための戦いでもない。 ただ異常に発達した闘争本能の赴くがままに行われた戦いであった。 同士討ちを防ぐために、鏖魔間での仲間意識は本能に植え付けられてはいたが、 それ以外の者に対しては敵味方の判別など無い鏖魔にとっては、今まで滅ぼして きた者も、自分達を生み出した者も変わりは無かったのだ。 鏖魔は特殊な能力を付与された自身の肉体と、それぞれに与えられた専用の機 動兵器、鎧鏖鬼を使い、全てを徹底的に破壊した。 既にこれ以上は必要ないと、新たな鏖魔と鎧鏖鬼の生産を行っていなかった支 配者達は旧来の兵器で対抗したが、両者の間では戦争ではなく虐殺しか行われな かった。 その中心にいたのは、純白の髪と圧倒的な美貌を持つ、始炎という名の女性型 の鏖魔。 その強さと美貌から「皇魔」とも呼ばれ、生まれた世界を滅ぼした彼女の命は、 こことは別の世界で終わりを告げる事となる。 自らの能力とは対照となる、全てを凍らせる力を持つ勇者の手によって。 「それじゃ、あの島に行く順番は今決めた通りで問題無いかな?」 創世島の遥か上空に浮かぶ、巨大な黒い剣を思わせる形状の空中戦艦、「黒刃」 の制御室に、無邪気な少年のような声が響く。 巨大な剣のような外観とは異なる、中世の欧州に建てられた城を模した内装を 有する黒刃の中で最重要部である制御室は、その重要度を表すかのように、王が 君臨する玉座を配した作りになっている。 その中でもひと際目を引く、「皇魔」と呼ばれる鏖魔の長が座るために作られ た豪奢な玉座に座っているのは、本来の意図とは違う者であった。 声と同じく少年のような容姿と、それには不釣り合いな白のスーツを着た男、 終破(しゅうは)は、玉座に腰掛けた態勢のまま、眼前に立つ四人の鏖魔を左か ら順に見渡す。 「異論は無い」 左端に立つ、金髪碧眼に黒の着流しという容姿の鏖魔、戯弾(ぎだん)は、無 骨な顔を縦に動かし、終破の言葉に肯定の意を示す。 「俺も、それで構やしねえよ」 次いで言葉を放ったのは、鮮やかな青の短髪に、ビジュアル系バンドを彷彿と させる派手な黒の上下に銀の装飾を幾重にも重ねた鏖魔、臥重(がじゅう)。 「……ああ」 消え入りそうな声で臥重の言葉に続くのは、病的に痩せた身体に医師のような 白衣を纏った、顔を覆い隠すような前髪を持つ鏖魔、双滅(そうめつ)である。 「なら、最初は虎強(こごう)に任せるとしようか」 三人の鏖魔の同意を確認した終破は軽く頷き、右端に立つ鏖魔へと視線と声を 向ける。 「最初も何も、儂が出れば全て終わりじゃ」 終破の言葉に豪快な声と笑いで返すのは、二メートル半になろうかという巨体 に、その名が示す通りの屈強な筋肉を覆わせた鏖魔、虎強。 身体と同じく、名をそのまま現したような顔に笑みを浮かべる虎強は、力強く 生える顎髭を擦りながら終破を見る。 「もちろん、儂らの鎧鏖鬼は使えるんじゃろう?」 「ああ、それは問題ないよ」 虎強の言葉に軽く応えた終破は、懐から四つの黒い玉を取り出す。 「君達の鎧鏖鬼は、この収魔球(しゅうまきゅう)に入っているよ。鎧鏖鬼を持 たない双滅は別だけどね」 野球ボールより一回りほど小さな黒い玉、収魔球を四つ手に持った終破は、そ れぞれを凝視し、中に収まっている鎧鏖鬼を見定める。 「これは殲銃鬼(せんじゅうき)だから、戯弾の鎧鏖鬼だね」 「頂戴いたす」 「で、こっちが巨骸鬼(きょがいき)。臥重のものだよ」 「ありがとよ」 「これが虎強の鎧鏖鬼、砕剛鬼(さいごうき)」 「おお、懐かしいのう」 それぞれ収魔球を受け取った鏖魔達は、一様に口元に笑みを浮かべ、愛機との 再会に喜びを感じている。 「それで、余ったこの収魔球は、流鰐の滅流鬼(めつりゅうき)なんだけど、彼 女が死んでしまった以上、もはや無用の長物だね」 そう言って余った収魔球を懐に戻した終破は、玉座に腰掛けたまま、虎強へと 顔を向ける。 「それで、虎強はどうするんだい? いつ、あの島に向かうのかな」 「砕剛鬼が使えるなら今すぐにでも向かおうと思っとるが、構わんじゃろう?」 巨大な手の中で収魔球を弄びながら、虎強は見た目に違わぬ野太い声で応える。 「ああ、別に僕はいつだって構わないさ。ただ」 言葉を区切った終破は、一呼吸の間を置いて全員の顔を見た後、言葉を続ける。 「凌牙も言っていたけど、油断は禁物だよ。何せ彼女の左手には、始炎(しえん) と同じような力が宿っているらしいからね」 その言葉に、鏖魔の間に緊張が走ると同時に、彼らの脳裏に先代の皇魔の姿が 思い起こされる。 人類が生み出した最初にして最強の鏖魔、始炎。 歴史上類を見ない、ヒトと同じ姿を持つ兵器に与えられた力は、その名が示す 通り、全てを焼き尽くす炎であった。 炎という、最も原始的にして強力な破壊の象徴をその手に宿した美しき皇魔の 力は、終破だけでなく、この場の全ての者が十分以上に理解している。 その炎を見た者の末路は、死あるのみだという事も。 「確か『神炎掌』と言ったかな、彼女、月守悠羽の持つ炎を直接見た事は無いけ れども、始炎の能力に限りなく近いとしたら」 未だ見知らぬ、皇魔の妹にあたる人間の能力と、かつて最強を誇った先代の皇 魔の能力を重ねながら、終破は言葉をつなぐ。 「それを受けてもなお生き残れる者は……いないだろうね」 場にいる全ての鏖魔の気持ちを代弁するかのように、終破はゆっくりと言葉を 紡ぐ。 「断言はできないけど、恐らくは始炎や凌牙と同じ一撃必殺の能力だろうから、 彼女と戦う時には十分気を付けるべきだよ、虎強」 そう言って虎強を見る終破の目には、確かな力がこもる。 その視線を受ける虎強の目もまた同様である。 「なに、儂に任せとけ。鏖魔の恐ろしさ、人間どもにたっぷりと教えてやるわい」 言葉と共に力強い笑みを浮かべた虎強は終破に背を向けると、制御室を出るべ く足を動かす。 並外れた巨体の虎強が大股で歩く姿は、まるで小さな山が動いているかのよう な迫力を周囲に与える。 「で、実際の所はどうなんだよ?」 虎強が制御室を去った直後、口を開いたのは臥重であった。 「その月守悠羽とやらの能力は見てなくても、戦ってる所は見たんだろ?」 髪と同色の青い瞳を向ける臥重に、終破は小さな笑みを返す。 「さあ、どうだろうか。確かに闘骨鬼では相手にならないレベルではあったけど、 凌牙を相手にした時には手も足も出なかったよ。その二回だけを見て判断をしろ、 というのは少し難しすぎるね」 「では、虎強殿との戦いの行方は分からぬと?」 臥重に代わり言葉を放つ戯弾に、終破は首を縦に動かして肯定する。 「そうだね。虎強が負けるとは思えないけど、絶対に勝てるとも思えない、って いうのが本音かな。けど、鎧鏖鬼に乗った状態で戦うのなら、虎強が有利だろう ね」 「何故、そう思われる」 「彼女の鎧鏖鬼、いや、鋼騎って言ったかな、それには彼女の能力を発現させる 機能がついていないらしい。つまり、虎強が鎧鏖鬼で戦うのなら、彼女の炎を警 戒する必要は無いって事さ」 「……ん? ちょっと待てよ終破」 終破の言葉に疑念を感じた臥重が、その胸に溜まった思いを口に出す。 「って事はアレか? 能力の使えない人間と砕剛鬼に乗った虎強が戦うとしても、 お前は虎強が『有利』って判断してんのか? 何で虎強が絶対に勝つって言い切 る事が出来ねえんだ?」 「確かに、普通に考えれば虎強の勝ちで決まりだろうね。それは間違いないだろ うけど、彼女は、月守悠羽は普通の人間じゃない。あの皇魔、月守凌牙の妹だか らね」 ここで言葉を切り、玉座から立ち上がった終破は、自分に注目している三人の 鏖魔へと順に視線を送る。 見た目だけで判断するならば間違いなく最年少である終破であるが、それは彼 の立場が一番低いという事にはならない。 むしろ、皇魔が座るべき玉座に腰掛け、他の者を立たせたままにしておくとい う行為を誰にも咎められない事実が、場における彼の立場を物語っている。 「僕達鏖魔には分かりにくい事だけど、血の繋がりというものは、とても大きな 力を持っているらしくてね。それを考えると、そう簡単に虎強が勝つ、とは言え なくなってくるものだよ」 玉座に座っていた間に固まった体をほぐすかのように大きく伸びの動きを行っ た終破は、再び眼前に立つ鏖魔を見渡す。 「もし、虎強が負けるような事があれば、それはそれで嬉しいんじゃないかな。 何せ、鏖魔に対抗できるような人間と戦えるなんて、楽しくて仕方無いだろう?」 言葉に反論する者はいない。 それどころか、それぞれが口に獰猛な笑みを浮かべ、終破の言葉を肯定する意 志を示している。 「本当に楽しみだよ。色々な意味でね」 少年のような容姿に似つかわしくない残酷な笑みを浮かべた終破は、その視線 を仲間の鏖魔ではなく、何も無い空間へと向ける。 「……そろそろ、お目覚めかな」 零れるような終破の独白は、誰の耳にも残る事無く空気に溶けた。 終破が鏖魔のこれからについて他の鏖魔と話し合っていた頃、鏖魔の長である 皇魔、月守凌牙は、専属の付き人となっている斬華と共に、黒刃の中に備えられ ている風呂で休息をとっていた。 西洋の城を模した内装の黒刃の内部だけあり、風呂もまた、それに見合った内 装になっている。 数百人は同時に入れるであろう広大な浴室の床は一面が大理石に似た素材で構 成されており、呆れるほどに高い位置にある天井には、穏やかな湖畔の絵が一面 に描かれている。 「しかし、この風呂は何とかならんのか」 「何か問題がありましたか。凌牙様が『風呂』というものが好きという事でした ので、用意させていただいたのですが」 一人で入るには広すぎる湯船に浸かる凌牙の言葉に即座に反応するのは、凌牙 の傍らに立つ女性、斬華。 風呂の中でも白のスーツを着たままの斬華は、立ちこめる湯気にも眉一つ動か さず、ただそれだけが自分の存在意義であるかのように凌牙の傍で直立した姿勢 を崩そうとしない。 「ああ、大問題だ」 鏖魔とはいえ、女性である斬華の前で一糸纏わぬ姿になっている事実など意に 介さぬ凌牙は、自分が今浸かっている湯船に張られた液体に視線を移す。 「この湯は何だ。緑色に輝いている風呂では落ち着かん」 「鏖魔の治癒や洗浄に使う液体です。以前、生命を停止しかけた状態の凌牙様も、 この液体で回復されました」 斬華の言葉を聞いた凌牙は、かつての自分を救ったという液体を手ですくう。 照明が当たっている、というだけではなく、自らも発光している緑色の液体に は匂いはなく、変な感触があるわけでもない。 温度も心地よく、色を除けば普通の湯と変わりないが、それでも発光する緑色 の液体に身を浸すという行為に違和感は禁じえない。 「恐らく終破が作ったのだろうが、奴はもう少しこちらの世界の文化を学んだ方 がいい。何事も中途半端では滑稽だ」 そう言いながらも湯船の縁に手をかけて足を伸ばし、息をつく凌牙の姿は、風 呂を楽しむ普通の若者と変わらないようにも見える。 だが、その黒い瞳に渦巻くのは、常人とはかけ離れた禍々しい怨念に彩られた 深い闇である。 「一つ、尋ねる」 「何でしょうか」 湯船の隅に置かれた、獅子にも狼にも見える奇怪な四足獣のオブジェを見なが ら、凌牙は背後に立つ斬華へと問いかける。 「先ほど殺した鏖魔、流鰐と言ったか。あれは何故、あそこまで敵意を剥き出し にしていたのかが分からん。お前達にとってのリーダーである始炎を殺した事が 原因なら、他の連中全てが同じ殺意を持っていなければ辻褄が合わん。お前や終 破も同様にな」 「私は『始炎様』ではなく、『皇魔』という存在に仕えるために生み出された鏖 魔です。よって、私には凌牙様を恨む理由など存在しません」 ですが、と斬華は背を向けたままの主に言葉を続ける。 「私以外の鏖魔は、始炎様に対して特別な感情を抱いていたと思われます。特に、 流鰐様はその気持ちが特別に強かったために、凌牙様に対して敵意を抑える事が 出来なかったのでしょう」 「……なるほどな」 斬華は凌牙の声色がわずかに変わった事に気付いたが、それを口には出さない。 「だが、奴は復讐の機会を生かす事が出来なかった。力を伴わない怨恨に意味は 無い、という事だ」 「私からも一つ、伺ってよろしいでしょうか」 かつて、その身一つで復讐の対象である米軍に大打撃を与え、今また復讐のた めに人類全てを抹殺しようとする凌牙の背に、斬華の言葉がかかる。 「どうした」 「凌牙様は、なぜご自分で全てを成し遂げられないのですか。妹の悠羽様に対し て、あの場で終わらさずに他の鏖魔を差し向けるという方法を取る意図が、私に は分かりかねるのですが」 斬華の言葉に凌牙は首を動かし、自分に付き従う鏖魔へと底無しの闇を宿した 瞳を向ける。 「不自然に見えるのも無理は無い。が、あれは妹に手心を加えた、というもので ない。むしろ、その逆だ。付け加えるなら、奴らがこの五年の間に聖炎凰を形に していた事も都合がいい」 その言葉を聞いてもなお、常に崩さない平静な表情をわずかに曇らせたままの 斬華を見る凌牙は、更に言葉を続ける。 「俺が鏖魔を差し向ける目的はただ一つ。悠羽の領域を今よりも高めるためだ。 連中を全て片付ける事が出来れば、悠羽は始炎に近い存在になる事が出来る。そ の領域に達した悠羽と聖炎凰を滅ぼす事を考えると、今殺すのは少し惜しくなっ てな」 「つまり、凌牙様は人類の殲滅よりも、成長を遂げた悠羽様と相対する事に意味 があると考えたのですか」 「ああ。我ながら倒錯しているとは思うがな。俺の中に流れている鏖魔の血に毒 されたのかもしれんな。鏖魔というのは、ただ戦うためだけに生み出された兵器 なのだろう」 斬華から視線を外した凌牙は、自らの左手首を見る。 創世島に降り立った際、自らの肉体が人間ではないと証明するために血を流し た手首に、その時の傷跡は残っていない。 それが、この風呂に使われている緑の液体の効果なのか、鏖魔の肉体が持つ力 なのかは、凌牙には分からない。 「凌牙様の意図は分かりました。ですが、もう一つだけ、よろしいでしょうか」 「なんだ」 疑問を重ねる斬華の姿を珍しいと感じながら短く応える凌牙に、彼女の言葉が 続く。 「凌牙様は、悠羽様が全ての鏖魔を倒せると信じているのですか」 「確信は無いが、な」 言葉の終わりと同時に、凌牙は勢いよく湯船から身体を持ち上げる。 一見すると痩せ細っているようにも見える細い肢体の中に、確かな力強さを持 つ筋肉を纏わせた、その名の通り、一本の研ぎ澄まされた牙のような鋭い肉体を 斬華の前に晒しながら、凌牙は再び口を開く。 「もしも悠羽が途中で敗れたのなら、それは俺の見込み違いだったというだけの 話だ。その場合は当初の目的通り、人類を殲滅すればいい。だが、もし俺の思惑 通りに事が進んだのなら、その時はもう一度、始炎との戦いを再現する事が出来 る。そして、静流の遺したもう一つの遺産、聖炎凰も同時に滅ぼし、過去への清 算も済ます」 緑色の滴を床に垂らしながら、凌牙はゆっくりと風呂の出入り口へと向かう。 「そして悠羽との決着を着けた後は、お前達鏖魔も滅ぼし、最後に俺自身が滅び て全て終わりだ。それでようやく、静流のいないまま動いている世界を止める事 が出来る」 「分かりました。それが、凌牙様の意志なのですね」 自身の殺害を明言されてもなお表情を変えない斬華は、何事も無かったかのよ うに主の一歩後ろを付いて行く。 「先ほども申しましたが、私は『皇魔』に付き従うために生み出された鏖魔です。 ですので、皇魔である凌牙様が私の死を望むのなら、この命を差し出す事に異論 はありません」 前を行く凌牙が疑問の声を出す前に、斬華は自ら彼の背に向けて自分の意志を 示す。 「ならばその命、時が来るまで預かっておくぞ」 「仰せのままに」 新たな主の告げた言葉に、斬華は恭しく頭を下げて応えた。 未だ咬牙王との戦闘の後処理が続く創世島の地下に広がる「メタル・ガーディ アン」の心臓部ともいえる司令室は、鏖魔との戦闘が行われていない時でも休む 事は無い。 この司令室には、鏖魔との戦闘における指示という役割の他に、平常時でも鏖 魔の動向を探るための観測所としての機能も有しているために。 鏖魔の持つ技術の中で最たる脅威の一つである転移機能を、人類はまだ実用化 する事は叶わないが、その発現を感知する事が出来るほどには技術が発展してい るため、この部屋にいる者は常に鏖魔の空間転移が行われていないかを監視して いるのだ。 「現在、創世島周囲二十キロに転移反応無し、と」 手元のキーボードを操作し、簡単な定時報告を終えた女性のオペレーターは、 長時間のデスクワークで疲労した目を労わるように、右手で目頭を軽く揉む。 五年ぶりとなる鏖魔の襲来によって仕事が増える一方で、睡眠時間が削られて いく現実が、彼女に容赦の無い眠気を叩きつける。 ――今日は仕事上がったらソッコーで寝よ 欠伸を噛み殺しながら、鈍り始めた思考で結論を出した彼女は、正面のディス プレイに映る光景を意味も無く眺める。 ディスプレイに映し出されているのは、日が傾き始めた創世島の地表の映像で ある。 両断されたビッグバードと砕け散ったヴァルキリーの回収作業が終了した地表 に人の姿は無く、流されないように固定されたビッグバードの半身が波に揺れて いるだけの、何の面白味も無い風景を、彼女は熱のこもらない瞳で眺める。 ――午前中は整備班の人達が騒いでたから面白かったんだけどね もはや再び動く事の無いビッグバードに何羽かの鳥が羽を休めるために留まる 様子を見ながら、彼女は午前中に見ていた光景を思い返す。 だが、その思いはすぐに断ち切られる事になる。 司令室に響く警報の音と、画面の中で起こる一つの異変によって。 「て、転移反応あり! 鎧鏖鬼が一機、創世島の地表に出現します!」 瞬時に意識を現実に引き戻されたオペレーターは素早く施設全域に緊急放送を 流し、司令である烈に連絡を入れる。 同時に、同じ部屋にいた他のオペレーターも各々の作業を始める。 その間にも画面の中では、鎧鏖鬼の転移を示す黒い霧が膨らみ、徐々に形を作 りはじめていく。 そして、転移反応を確認してから間も無く、数十メートルにまで広がった黒い 霧が消え去った後に出現したのは、一機の鎧鏖鬼であった。 「鎧鏖鬼の出現を確認……し、新型です!」 オペレーターの言葉が示す通り、創世島の地表に出現したのは、今まで人類が 見た事の無い形の鎧鏖鬼であった。 今までに遭遇した鎧鏖鬼より遥かに大きい、五十メートルほどの大きさを持つ 新たな鎧鏖鬼――虎強の駆る砕剛鬼――は、一言で表すのなら「二足歩行をする 巨大な人型の昆虫」と言うべき外観を有していた。 傾く陽光を浴びる全身は深い緑一色に染められており、その表面を覆う装甲は 鋼騎のような完全な金属ではなく、半ば皮膚のような質感が感じられる特殊なも もである。 全身を緑に染められた機体の中で、蟷螂(かまきり)に酷似した三角形の頭部 の左右についている、恐らく目だと思われる部分だけは鮮やかな黄色に発光して おり、その姿がより一層、この機体を昆虫に近付けている。 加えて、異常なまでに長く伸び、地面に届きそうになっている両腕の存在が、 この機体の奇怪さを更に増幅させている。 見る者によっては、その姿だけで生理的な嫌悪感を抱くであろう奇妙な鎧鏖鬼、 砕剛鬼は創世島の地表に出現した状態のまま、一向に動かない。 代わりに、人類が初めて遭遇する形の鎧鏖鬼は、今までに出現してきた鎧鏖鬼 には無い行動をとった。 言語によるコミュニケーションという行動を。 『人間どもよ、儂の声が聞こえとるか!』 それは、鏖魔の襲来から二十年経った人類が初めて経験する、鏖魔からの接触 であった。 「が、鎧鏖鬼が喋っただと!?」 初めて見る鎧鏖鬼の予想だにしない行動に、既に司令室に到着していた烈は思 わず驚愕の声をあげる。 声こそ出さないものの、衝撃を受けているのはソフィアも同様であり、彼女も また、美貌に驚きの色を強く浮かべたまま正面のモニターを凝視している。 烈達の驚きの理由は、鎧鏖鬼が声を発した事と同時に、その声が淀みの無い発 音の日本語であった事も挙げられる。 『儂の名は虎強。鏖魔七将の一人じゃ! 聞こえとるのなら返事をせい!』 衝撃のあまり何も対応できずにいた烈達の返事を促すかのように、砕剛鬼を操 る虎強から聞こえる再度の声もまた、紛れも無い完璧な日本語であった。 「虎強、でいいのか? お前の名前は」 可能かどうか分からないまま、烈は対話を試みるべく、通常の回線を用いて、 動揺を極力表に出さないように気を付けながら言葉を発する。 『おう、ようやく声が聞けたわい。いかにも、儂の名は虎強じゃ』 間もなく返って来た返事と同時に、モニターに映る砕剛鬼の長い腕が喜びを示 すかのように上へと掲げられる。 その動作に、今までの鎧鏖鬼とは違う、「人間味」と呼べるものを見出した烈 は、今まで正体を掴めなかった鏖魔が、少なくとも人間に近い感性を持っている と感じ、その事実に少し気を緩ませながら言葉を続ける。 「俺はここにいる連中のボスをやってる真島烈ってモンだ。虎強さんよ、アンタ、 いや、アンタらは一体何が目的だ?」 烈の言葉に、虎強は即答しない。 今、自分に告げられた言葉の意味を反芻し、理解するための間を置いた虎強は、 結論として豪快な笑いを返した。 『なんじゃ? お主らは鏖魔の事を何も知らんのか? 先に目覚めてた終破は一 体何をしてたんじゃ』 人間の動きを忠実に再現する鋼騎と異なり、見た目通り、昆虫の脚にも似た動 きを見せる長い腕を動かしながら、虎強は大きなため息を吐きだす。 『あれは仕方ない奴じゃのう。烈と言ったな? お主、月守悠羽という女を、鎧 鏖鬼に乗せてここに連れて来てくれんか? 儂はそれと勝負をしに来たんじゃ』 「……その理由を、聞かせてくれないか?」 虎強の口から出た言葉に動揺が広がる司令室を手で御しながら、烈は自身も混 乱しそうな思考をまとめながら言葉を返す。 『理由も何も、鏖魔は強い者と戦って、それを滅ぼす事が生きがいじゃからのう。 まあ、鏖魔の事を知らんお主らには信じがたい話かもしれんがの。それに、新し い皇魔からも言われておるんじゃ。月守悠羽という女を滅ぼせ、とな』 言葉は、烈達の心をかき乱すには十分すぎるであった。 虎強の指す「新しい皇魔」が凌牙の事を指しているのは、誰の目にも明白であ る。 虎強の言葉をそのまま信じるのなら、凌牙は部下に自分の実の妹を殺すよう命 じている事に他ならないのだ。 もっとも、凌牙が鏖魔を率いている事や、先日の創世島での発言を鑑みれば、 虎強の発言自体は何も驚く事の無い、自然なものともいえる。 だが、それでも烈達にとっては、自分の息子が妹に対して明確な殺意を抱いて いるという事実は、衝撃以外の何物でもない。 自分達の家族も同然の兄妹が命を奪い合うという事態に、慣れる事など無い。 「もし、その要求を断ったとしたら、どうする?」 『それは困るのう……。じゃが、出て来ないなら、こっちから引きずり出してや るわい!』 言葉と行動は同時だった。 五十メートルほどの巨体を持つ砕剛鬼は、異常に長い右腕を振り上げ、それを 勢いよく振り下ろした。 鞭のように柔軟な砕剛鬼の右腕は加速を重ね、大きくしなりながら高速で創世 島の地面へと叩きつけられる。 そして、右腕が振り下ろされた衝撃は、轟音と、創世島の地表にクレーター状 の穴を生み出した。 『そっちが出さんと言うのなら、儂の砕剛鬼が島を叩き潰してやるわい!』 小さな岩や砂の塊が付着した右腕を戻しながら、砕剛鬼の左腕は、先ほどの右 腕と同じ動作に移り始める。 間も無く、振り上げられた左腕は、二度目の打撃を行うべく勢いよく振り下ろ され、先ほどと同程度の穴を創世島に生み出した。 『どうじゃ? これでもまだ出さぬと言うか?』 勝ち誇る虎強の言葉に反応するかのように、左腕の位置を戻した砕剛鬼の頭部 に備わる、蟷螂の複眼に酷似した大きな目が妖しく発光する。 人型の巨大な昆虫と呼ぶべき異形が、既にほとんど姿を隠した太陽の光を背に 受けるその姿は、出来の悪いホラー映画のようである。 「ちっ……なんて野郎だ……!」 頭上で行われた二度の打撃の威力を振動で体感した烈は、その破壊力と同時に、 それを繰り出す虎強という鏖魔の実力にも並外れたものを感じていた。 二度の打撃で、凌牙ほどではないにしろ、敵はかなりの実力者である事を悟っ た烈は、それと相対する悠羽に思いを巡らせる。 自分もソフィアも、悠羽自身も鏖魔との、凌牙との戦いに踏み切る覚悟は出来 ているはずであった。 だが、実際に鏖魔の破壊を目の当たりにした時、自分の娘をそこに放り込む事 に対し、烈は迷いを抱いてしまった。 いくら本人が決断した事とはいえ、娘をたった一人で悪魔の前に立たせる事な ど、親ならば誰であろうと出来るはずが無い。 だが、今の自分達に、悠羽以外に頭上の悪魔を倒せる力を持った者がいないの もまた事実である。 このまま手をこまねいていては、いずれ島は破壊され、この組織の全てが海の 底に沈んでしまうのは想像に難くない。 無論、悠羽もまた、海の底に沈むのは免れ得ない。 結局の所、烈がいくら迷っても、最初から選択肢は一つしか無いのだ。 ――クソったれが 自らの手で娘を命の危機に晒さなければならない状況に、内心で毒づきながら も、烈は横に座るソフィアに目線だけで意志を伝えると、再び動きを止めた砕剛 鬼に言葉を伝える。 「分かった。そちらの要求を聞いてやる。ただ、こちらにも準備があるから、少 し待ってもらいたい」 『おお、良かったわい。こちらも島の破壊となると、ちと骨が折れるからのう。 臥重を呼ぼうか迷っとった所じゃ。来るというのなら、万全の状態で来ると良い。 いざ勝負となると、儂は手加減が出来んぞ』 そう言って豪快な笑いを響かせた虎強は砕剛鬼を直立させ、そのままの姿勢で 停止させた。 「敵鎧鏖鬼、完全に沈黙しました」 「こっちの準備が終わるまで待ってくれる、って事か。なんとも律儀な野郎だな」 虎強の言葉に一切の偽りが無い事に安堵した烈は、オペレーターに命じて格納 庫へと映像と音声を繋げる。 「俺だ。聖炎凰の状態はどうなっている? あと、悠羽はもうそっちにいるか?」 『はい。私はここです』 通信を取り次いだ整備士の後ろに立つのは、普段通りの姿で立つ悠羽であった。 フェンサーが鋼騎に乗る際は専用のスーツを着用するのが常識だが、悠羽は兄 の凌牙が着用を嫌っていた事もあり、普段通りの恰好で鋼騎に乗り込む。 「悠羽、話は大体聞いていたか?」 『大丈夫です。私は必ず勝ちますよ。もう一度兄さんと向き合うためにも』 「そうか。なら、あの昆虫メカを思いっきりぶっ飛ばしてこい」 『烈、聖炎凰は左手の機結陣を除けば完成だ。背中の翼も問題無い』 『悠羽、左手は堪忍やけど、他はウチらがバッチリ仕上げたさかい、あんな昆虫 野郎なんか標本にしたり!』 悠羽の後ろから姿を見せた鉄男と早希が、それぞれの相手に向かって言葉をか ける。 『それじゃ、お父さん、お母さん、行ってきます』 画面に映る両親に頭を下げて挨拶をした悠羽は、疾風のような勢いで走りだす と、その勢いのまま、仰向けの状態になっている聖炎凰へと搭乗する。 そして、フェンサーという命を注ぎこまれた聖炎凰はゆっくりと立ち上がり、 地上へと移動するためのリフトの上に移動する。 『聖炎凰が出るで! 周りの人間は巻き込まれんように注意しときや!』 作動し始めたリフトの音を掻き消さんばかりの早希の声を背景に、悠羽を乗せ た聖炎凰が地上へと移動していく。 人類の新たな勇者として、鏖魔と戦うために。 「頼むぜ、悠羽。必ず、必ず生きて帰ってこいよ……!」 地上へと姿を現した聖炎凰が砕剛鬼と対峙する光景をモニター越しに見ながら、 烈は静かに、だが力強く呟いた。 ――これが、完成した聖炎凰なんですね 地上へと姿を現した聖炎凰の中で、悠羽は聖炎凰の状態が以前とは違っている 事に軽い驚きを感じていた。 関節や末端の細かな感触が以前よりも自分に馴染むのは、早希達が自分に合わ せた微調整を行った結果である。 武器を手に持って大まかな動きで攻撃をする従来の鋼騎なら何も問題にならな い変化だが、細かな挙動が要求される格闘術を駆使する悠羽にとって、この調整 はフェンサーと鋼騎、互いの能力を引き出す上で大きな意味を持つ。 全体的に微調整を中心に行っている中で、唯一大きな変化を遂げているのは、 背部に備え付けられた翼を模した大型のスラスターである。 前回搭乗した時に、不完全ながらも背に大きな力を与えてくれたスラスターは、 完全な形になった事により、以前よりも確かな力を悠羽に伝えてくれる。 まるで自身の背に翼が生えたかのような感覚さえ覚えるほどに明確な存在感を 伝えてくれるスラスターの存在を頼もしく思う一方で、悠羽は短期間でここまで の仕事を果たした早希達に大きな感謝を抱く。 ――本当に、ありがとうございます。このお返しは、目の前の敵に勝つ事でし たいと、そう思います 大きく息を吐いた悠羽は、未だ動きを止めたままの砕剛鬼に歩み寄る。 その一歩一歩に聖炎凰の持つ力を感じながら。 「虎強さん、私が月守凌牙の妹、月守悠羽です」 砕剛鬼の長い腕にとっては射程内、砕剛鬼の半分程度の大きさしかない聖炎凰 にとっては、背の翼を利用して大きく踏み込めば届く距離にまで接近した悠羽は、 寝ている人を起こすかのような優しい声で語りかける。 「兄さんとの約束を果たすため、私はあなたやあなたの仲間と戦って勝たなけれ ばいけません。それと、これ以上、鏖魔による破壊を防ぐためにも、私は、あな たを、ここで倒します」 「あの男の妹と言うから、どんな修羅が出てくるのかと思えば、随分と可愛らし い嬢ちゃんじゃのう」 悠羽の言葉に反応し、頭部の複眼に光を宿らせ、再び動き始めた砕剛鬼に対し、 聖炎凰は拳を握り、構えを取る。 「じゃが、きっと良い目をしておるのじゃろうな。声を聞けば分かる。お主は強 い。身も心もな」 右腕だけを上げるという、奇妙な構えを見せる砕剛鬼は、まさに獲物を狙う蟷 螂のように、摺り足でわずかに距離を詰める。 「さあ、鏖魔の闘争を始めようかい!」 静かな夜の大気を切り裂く虎強の咆哮は、動きを伴うものであった。 その動きは、ぶら下げたままの左腕から生まれた。 地面に接しそうなほど長く伸びた左腕を下から掬(すく)い上げるように振り 上げる攻撃は、足下に意識を向けていない状態で受けると、死角からの一撃と化 す。 加速によって生じた風圧で砂を巻き上げながらの一撃に、聖炎凰は後ろでは無 く、前に進む事によって対応する。 聖炎凰を遥かに凌ぐリーチを誇る砕剛鬼の腕は脅威だが、腕全体に破壊力が備 わっている訳ではない。 長さは異常だが、構造そのものは人間のそれと同じである以上、この一撃の破 壊力が集中するのは拳の部分のみである。 他の部分は例え当たったとしても大したダメージにならない、そう判断した悠 羽は聖炎凰の翼を使って一気に加速し、自身の倍の大きさを持つ砕剛鬼の懐へと 飛び込む動きを見せる。 初手が不発に終わったと認識した虎強は左手の動きを強引に止め、迫りくる敵 を迎撃すべく、胸の前に掲げていた右腕を前方へと伸ばす。 もとより大きく作られている砕剛鬼の手は、機体のサイズの違いもあり、聖炎 凰を鷲掴みにする事さえ出来る。 また、人間のそれよりも長く鋭い、鉤爪にも似た形状の五指は、聖炎凰を掴み 取ると同時に、その身体に風穴を空ける事さえも容易にできる。 故に、砕剛鬼は右の五指を限界まで大きく広げ、夜の闇の中でも輝きを失わな い、赤と金に彩られた機体を潰さんと腕を伸ばす。 だが、悠羽と聖炎凰は、虎強の思惑を超える挙動を見せた。 地を蹴って一歩を踏み出した聖炎凰は、左手の攻撃を回避する動作のまま砕剛 鬼の懐に飛び込もうとしたが、それを最後まで実行しない。 翼の向きを変え、スラスターを前方への加速から上方向への揚力に切り替える のと同時に両足の踵を地面に接触させ、強引なブレーキをかけた聖炎凰は、素早 く地面を蹴り、スラスターの出力と合わせて、眼前に迫る巨大な右手を眼下へと 置き去りにする。 従来の鋼騎とは比較にならない、軽量化と高出力化のバランスを両立させた機 体だからこそできる挙動で宙を舞った聖炎凰は、空中で鮮やかな縦回転を決め、 砕剛鬼の背後に降り立つ。 「はぁっ!」 鋼の巨体を軽やかに着地させた悠羽は鋭い声を放ち、背を向けたままの砕剛鬼 の胴体へと左の掌底を繰り出す。 サイズの差があるため、下からかち上げる形となった掌底は、右腕の攻撃を終 えた直後で、回避の動作が遅れた砕剛鬼の左脇腹に命中。 鋼のぶつかる鈍い打撃音を響かせながら、砕剛鬼の巨体が傾く。 「これで!」 巨体を傾かせる砕剛鬼の左脇腹、先ほどの掌底が命中して表面の装甲に亀裂が 入っている場所に悠羽は掌底を重ね、正確に狙い撃つ。 再度打撃音が響き、二度の掌底受けた砕剛鬼は、脇腹から鏖魔の血と同じ黒い 液体を撒き散らしながら転倒しかけるが、寸前の所で右腕を着き、体勢を立て直 す。 その動きに、砕剛鬼の転倒に合わせた追撃を行おうとしていた悠羽は動きを中 断し、深追いを避けるべく後方へと距離を取る。 「なるほど、さすが皇魔の血族じゃ。まさか儂がしてやられるとはな」 多少の緊迫感と、それ以上の喜びを乗せた虎強の言葉に、二度の打撃を受けた 事による精神的動揺は感じられない。 「しかし、次も同じように行くと思わん事じゃ!」 二度目の咆哮が導くのは、先に行ったものと同じ、地を這うかのような左手の 一撃。 速度、角度、タイミング、全てが先ほどと寸分も違わない左手の一撃に、悠羽 は同じ動きで対応する事を選ばなかった。 翼の向きを変え、右方向への加速を手に入れた聖炎凰は、眼下を這う蛇のよう な左腕の更に外側へとその身を移す。 砕剛鬼の攻撃は先ほどと同じではあるが、両者の距離がより開いているため、 この回避は難なく成功させる事が出来た。 鞭のような柔軟性があるとはいえ、外側へ曲げての追撃が不可能な左腕の真横 を通過する形となった聖炎凰は、もはや守るべき装甲の大部分を失った脇腹に更 なる攻撃を与えるために、翼の加速を前方へと切り替え、最大速度で敵の懐に向 かう。 そして、三度目の掌底を叩きこむその瞬間、悠羽は見た。 砕剛鬼の脇腹に空いた装甲の隙間で起こっている、一つの異変を。 「……!」 言葉を出す間も惜しむように、悠羽は背の推力をカットし、鋼の身体が軋む音 を奏でる事も無視して、強引に後方へと身を退かせる。 だが、それも完全には間に合わなかった。 砕剛鬼の脇腹で起こった異変、突如として生えた三本目の腕は、その鋭い爪で 回避が遅れた聖炎凰の左肩から右脇腹までの装甲に深い傷を刻んだのだ。 「どうじゃ、驚いたか。この鎧鏖鬼、砕剛鬼の腕は二本では無いぞ」 左の脇腹から完全に外へと姿を現した第三の腕は、鎧鏖鬼に流れる黒い血と、 聖炎凰の装甲を纏わりつかせたまま、動きを確かめるようにその五指を開いては 握る動作を何度か繰り返す。 「これが砕剛鬼の真の姿じゃ!」 虎強の叫びに呼応するように、砕剛鬼の身体に変化が訪れた。 最初の変化は、三本目の腕が生えた位置と逆側である右の脇腹であった。 まだ傷の無い装甲を突き破って現れたのは、四本目となる砕剛鬼の腕。 他と同じく異常な長さを持つ四本目の腕は、生まれたばかりの動物のように、 その身を黒い液体に染めながら、誕生の喜びを示さんと大きな手を何度か開閉さ せる。 次いで変化が訪れたのは、両肩である。 右の脇腹と同じく装甲を突き破って新たに生まれた左右一対、二本の腕もまた、 黒い液体に身を染めながら手を何度か開閉させ、己の存在を主張する。 そして生み出されたのは、左右に三本ずつ、計六本の長大な腕を有する異形で あった。 「これぞ砕剛鬼の真の姿よ。この六本の腕から逃れる術など、ありはせん!」 その言葉に、それぞれに独立した動きを見せる六本の腕が聖炎凰に襲いかかる。 ――数は六。ここはどうしますか…… 前方から襲いかかる六匹の大蛇にも似た腕の群れに、悠羽は極限まで研ぎ澄ま された精神を更に先鋭化し、次の一手を見据える。 砕剛鬼の腕の長さが有限である以上、最も安全なのは後方への退避であるが、 それは自身の反撃の機会を放棄する事と同義である。 多少逃げ回っていた所で、聖炎凰の稼働限界に大きな影響は無いが、それを操 る自身の集中力はいつまでも続かない。 加えて、訓練は積んでいるものの、実戦経験に乏しい自分にとって、長期戦は 望ましい展開では無い。 そう考えた悠羽は、後方への回避を頭から切り離す。 次に考えるのは、最初に行ったような前方への突進と回避の両立であるが、六 本の腕全てを正面から回避しつつ砕剛鬼に打撃を加えられる可能性が限りなく低 いと判断した悠羽は、この選択肢も捨てる。 ――だとすれば、残りの手は 悠羽は、左右への動きを思考する。 それぞれの腕が持つ可動範囲を測りながら側面に回れば、対処すべき腕の数は そう多くない。 虎強の言葉を信用するのなら、これ以上砕剛鬼の腕が増える事も無いため、先 ほどのような不意打ちの可能性は無いと考えてもいい。 問題があるとすれば、側面からの攻撃は既に使った手であるために、相手とし ても予測済みであるという危険性が高い事だが、 ――それしか手はありません! 頭をよぎる危険を無理矢理ねじ伏せた悠羽は、眼前に迫る六本の腕から視線を 逸らさないまま地を蹴って左方向へと身を動かし、背の翼を使って音よりも速い 速度で大地を駆け抜ける。 虎強から見れば右方向にあたるこの移動は、先ほど聖炎凰が仕掛けた攻撃とは 逆方向になる。 獲物の移動に、六本の腕はそれぞれが方向転換を試みるが、砕剛鬼の右側にあ る三本の腕は追撃が不可能と判断し、すぐに動きを止める。 残る三本の腕の内、一本が聖炎凰に肉迫し、標的を掴み取ろうと五指を広げる が、それよりも速く反応していた聖炎凰の蹴りに弾かれる。 そして、迫りくる障害を払いのけた聖炎凰の前に、砕剛鬼の巨体が映る。 「抜けました!」 「そう思った瞬間が、地獄への入り口じゃ!」 六本の腕を凌ぎ、喜びの声をあげる悠羽の耳に聞こえたのは、追いつめたはず の虎強の勝ち誇った声と、 「そんな……!」 通常の長さ程度に変化した六本の腕を持つ砕剛鬼の姿であった。 「確かに腕の数はこれで終わりじゃが、長さは自由自在よ」 砕剛鬼の長い腕は密着した状態では逆に不利であり、一度伸ばしたら戻すため に時間を要する、その前提があったからこそ、悠羽は相手の攻撃を見てから懐に 潜りこむというスタンスを取ってきたのだ。 だが、その前提はいとも容易く崩されてしまった。 長い腕を無くし、機動性も向上した砕剛鬼は、右側に位置する聖炎凰へと、素 早く向き直る。 「腕の長さを逆手にとって懐に潜り込む、その考えは正解じゃ。が、それもこう すれば怖くないわい」 そう言って通常の長さの腕を振り回す砕剛鬼を見て、悠羽は気付いた。 自分がこのように砕剛鬼の懐に届いたのは策が上手く実ったからではない。 選択肢を絞らせる事によって、ここまで連れてこられたのだという事に。 砕剛鬼が腕の長さを戻したタイミングは、恐らく一本の腕が五指を大きく広げ た瞬間だと、悠羽は思考を進める。 あの一瞬、視界と意識は目の前に広がる手に集中しており、他の腕や砕剛鬼本 体への注意は散漫になっていた。 仮に、その時点で腕の長さの変化に気づいていれば、ここまで無防備に砕剛鬼 の前に身を晒さなかったであろう。 自分の倍近いサイズと、文字通り手数の多い相手を前に、何の武器も考えも持 たず正面から挑むなど、誰が見ても暴挙でしかない。 「とどめじゃ」 腕の数と長さだけに気を取られすぎ、他の可能性を考える事の出来なかった自 分の甘さを悔やむ悠羽の正面で、六本腕の悪魔が動き始める。 腕を広げ、巨体を更に大きく見せる砕剛鬼の動きは一瞬であった。 脇腹から伸びた腕が聖炎凰の両脚を掴み、肩から伸びた腕が両腕を掴む。 更に、残った腕で胴体部を掴んだ砕剛鬼は勢いよく地を蹴り、聖炎凰と共に、 一瞬にして遥か上空までその巨体を持ち上げる 「くっ……! 離して下さい……!!」 六本の腕が織り成す拘束から解放されようと悠羽は聖炎凰の四肢を必死に動か すが、単純な力で勝る砕剛鬼の腕は離れない。 そして、垂直方向の大跳躍が最高点に達した時、砕剛鬼は次なる動きを見せた。 それまで互いに並ぶ形となっていた両者の位置を、上下への並行へと変えたの だ。 結果、聖炎凰は地面に対してうつ伏せの状態で、両腕と両脚を上へと持ち上げ られた姿となった。 「奈落の底で砕け散れい! 鏖技(おうぎ)、奈落殺(ならくさつ)!」 言葉と降下は、ほぼ同時であった。 「リョウガ……シズル……」 白昼夢を見ているかのようなうわ言を繰り返しながらも、「彼女」はしっかり とした足取りで黒刃の通路を進む。 この世に存在する何物よりも鮮やかな紅の瞳に映る黒刃の通路は、「彼女」の 頼りない記憶に引っかかる何かを感じるが、それ以上先に進む事は出来ない。 神というよりも悪魔が造形したかのような、究極的な美しさを体現した肢体を 全て曝け出したまま通路を歩く「彼女」の足は、一つの巨大な扉の前で止まる。 巨人が貴重な財宝を守るために作ったのではないかと思えるほどに大きく、重 厚な扉は、格納庫へと通じる扉である。 「ここだ」 小さく呟いた「彼女」は、その巨大な扉に自身の左手を静かに添える。 直後、小さな電子音と共に、扉は中央から左右に分かれ、「彼女」を格納庫へ と導く。 灰色一色で塗り潰された広大な格納庫に足を踏み入れた「彼女」は、物よりも 空白が大半を占める空間の中でも、迷う事無く足を動かす。 まるで、その先に何があるのかを知っているかのように。 「彼女」は長い足を休まず動かして進むが、余りにも空白の多い広大な空間の 中では、自分がどこまで進んでいるのかを把握する事は出来ない。 だが、「彼女」は足取りに確信を乗せて歩き続ける。 そして、「彼女」は辿り着いた。 自身の目的とする場所へと。 他の鏖魔が全て去り、制御室で独り玉座に腰掛ける終破は、咎める者のいない 空間に、大きな笑い声を響かせた。 「随分と行動が早いじゃないか。やはり目覚めたその瞬間から、君は君なんだね」 その後、もう一度大きな笑い声を響かせた終破は、床に映った地上の映像に視 線を移す。 そこには、今まさに聖炎凰を掴んで上空に跳躍せんとする砕剛鬼の姿が映し出 されていた。 「さあ、この事態に、そこの二人はどうするのかな」 右肘をつき、手で顔を支える形となった終破は、口元を醜く歪める。 「下手をすると、この世界も焼き尽くされてしまうよ。あの黒い炎に」 「奈落の底で砕け散れい! 鏖技(おうぎ)、奈落殺(ならくさつ)!」 四肢を封じられ、動く事の出来ない聖炎凰の中で、悠羽は虎強が放つ必殺の宣 言を聞いた。 今置かれている自身の状況を見れば、この結末は容易に想像できる。 虎強の鏖技、奈落殺の中身は非常に単純なものである。 六本の腕を用いて相手の四肢を封じ、遥か眼下の大地へと叩きつける、ただそ れだけである。 だが、六本という腕の数と、砕剛鬼の力が合わさったこの技は、単純なだけに 逆に穴が無く、力技で破る以外の方法が無い。 そして、聖炎凰には砕剛鬼の戒めを解くだけの力は無い。 それは凄まじい速度で落下していく鋼の身体が大地と激突するのをただ待つし かない、事実上の死刑宣告である。 落下における加速を乗せた聖炎凰が大地に衝突すれば、機体が大破するという 事は疑いようも無い。 仮に、奇跡的に機体が大破を免れたとしても、うつ伏せとなった状態での衝突 は、胸部に位置するコクピットへの多大な衝撃は免れない。 無論、その中にいる悠羽が安全でいられる確率は、ゼロと考えて間違いない。 「お願い……! 動いて……!」 悠羽は聖炎凰の四肢を懸命に動かし、悪魔の戒めを解こうとするが、機体は軋 みの音を響かせるばかりで、彼女の望みを叶えてはくれない。 その間にも、両者は上昇していた時よりも速く、大地へと近付いていく。 その姿は、虎強が叫んだ技の名の通り、奈落の底へと一直線に駆け落ちていく 堕天使のようにも見える。 「このままじゃ……」 死んでしまう、という言葉を、悠羽は辛うじて飲み込んだ。 胸の大半を占める黒い感情を言葉にしてしまえば二度と覆らない、そんな予感 を的中させないために、悠羽は意志を強く持ち、何度ももがく。 ――私は、ここで負けてはいけないんです! 無理矢理拘束を引き剥がそうとするあまり、聖炎凰の関節そのものが過負荷で 壊れようとしているが、悠羽はそれでも動きを止めない。 ――ここで負けたら、兄さんに向き合えない! 限界を超えた聖炎凰の四肢から白煙が上がるが、砕剛鬼の拘束は一向に緩まな い。 ――だから、私は……! その時、一つの気配が悠羽の思考に割り込んだ。 聖炎凰のセンサーと一体化した悠羽の五感は、遥か遠くからこちらに向かって くる一つの気配を感じ取ったのだ。 聖炎凰を拘束している砕剛鬼も同じものを感知したらしく、蟷螂に酷似した頭 部を右方向へと向ける。 次の瞬間、 「な……なんじゃと……!?」 絶対的優位にいる虎強の口から漏れたのは、突然の事態に驚愕した末に絞り出 したような乾いた声。 その驚愕は声だけでなく、聖炎凰を掴む腕にも表れた。 姿の見えない、新たな来訪者に虎強の意識が奪われた結果、砕剛鬼が聖炎凰を 拘束する力が弱まったのだ。 「今です!」 戒めの力が緩くなった機を与えられた悠羽は、既に限界を超えている聖炎凰の 全力を振り絞る。 四肢から火花が散り、悲鳴のような音をあげるが、遂に聖炎凰は死の戒めを解 く事に成功した。 地面とそれほど遠くない空中で自由の身となった聖炎凰は身体を反転させ、地 面に対して仰向けの形になると、背部スラスターの出力を最大に発揮し、上方向 への推力を得る。 従来の鋼騎では到底敵わない大出力で落下速度を相殺した聖炎凰は、重力加速 の大部分を削ぎ落とし、安全な状態で再び大地に足を着ける。 それと同時に、標的を失った砕剛鬼もまた地面に降り立つ。 聖炎凰と同じ距離を落下し、同等の加速を得ている砕剛鬼は、再度六本の腕を 長く伸ばす。 それら全てを最大まで伸ばして地面に手を着き、柔軟性を生かして衝撃を殺し、 着地を成功させる。 虎強の鏖技が不発に終わり再び地面の上で対峙する両者だが、既に互いの意識 は眼前の相手ではなく、空から来る何者かに向けられていた。 特に虎強は、鏖技を失敗させた事など意に介していないといった様子で、砕剛 鬼の頭部を宙へと向けている。 戦いを放棄したかのような砕剛鬼の姿は、悠羽にとっては絶好の機会であるよ うにも見えるが、彼女もまた、戦闘行動を続けようとはしない。 その理由は、やはり新たな来訪者にあった。 センサーで計測される「それ」の速度が余りにも速すぎるため、このままだと 攻撃を仕掛けるのと同時か直前に、「それ」がここに到達してしまうため、迂闊 に動く事が出来ないのだ。 鋼騎はもとより、戦闘機でさえも遥かに凌ぐ速度で迫り来る「それ」の正体が 分からない以上、悠羽には状況に流される事しか出来ない。 そして、ついに「それ」は来た。 夜の闇を切り裂く、刃を重ね合わせたような鋭さを持つ、金のラインが入った 純白の装甲。 女神の彫像を思わせる、細くしなやかな造形。 背に聖炎凰のそれよりも大きな三対六枚の羽を持つその機体は、もはや至高の 芸術品と呼べる美しさを持つ一機の人型機であった。 聖炎凰と砕剛鬼の間に舞い降りた鋼の天使は、青の瞳を光らせて両者を見据え る。 「炎皇鬼(えんおうき)……」 聖炎凰に近い大きさの天使を見下ろす形となった虎強は、自分の記憶と一切違 わないその姿に、思わず言葉を漏らす。 「なぜじゃ……お主は、お主は」 「黙れ」 戸惑いを隠せない虎強の声を断ち切ったのは、冷たく鋭い女の声。 「我は何者だ。ここはどこだ。貴様らは何者だ。分からん。何も分からん。だが、 これだけは分かる」 誰に向けている訳でもない、虚ろな言葉の羅列を繋げた純白の天使、炎皇鬼は 砕剛鬼を見上げる。 「我は破壊を呼ぶ者。貴様ら全てに死を告げる、殺戮の化身だ」 高らかに歌うような宣言に、砕剛鬼が動く。 どんな事情があれ、目の前の存在が自分に対して尋常でない殺気を放っている 事実が、鏖魔の肉体を反射的に動かす。 「事情は分からんが、来るなら滅ぼすまでじゃ!」 事情が呑み込めないながらも、虎強は眼前の敵に対して長く伸ばした腕で殴ろ うとするが、 「緩慢だな、弱き者よ」 直後に響いたのは、打撃音ではなかった。 代わりに響いたのは、何かが引き千切れる際の不快な音の連続。 その音の正体が、炎皇鬼の細い腕が砕剛鬼の腕を引き千切ったのだと気づくま で、虎強と悠羽は数秒の時間を要した。 突然の自体の連続に思考が硬直する虎強と悠羽を嘲笑うかのように、炎皇鬼は 六本ある砕剛鬼の腕を次々と引き千切っていく。 瞬く間に脇腹と肩に生えていた四本の腕を失った砕剛鬼は、残った両腕で打撃 を繰り返すが、至近距離にも関わらず、その攻撃の全ては炎皇鬼に掠りもせずに 空しく宙を切る。 「無力とは哀れなものだな……面白いものを見せてやろう」 二本の腕から繰り出される攻撃を回避し続ける炎皇鬼は、刃のような鋭い言葉 と同時に砕剛鬼の両腕を掴むと、 「奈落殺、確かそう言ったな」 背中に付いた六枚の翼を羽ばたかせ、凄まじいと加速と共に、その身体を空の 彼方へと連れ去った。 常軌を逸した冗談のような加速を乗せた炎皇鬼は、砕剛鬼を掴んだまま、夜空 を覆う雲に近い位置にまで上昇すると無造作に手を離し、砕剛鬼を宙へと放り投 げる。 「どうだ。それが奈落に落ちる者の気持ちだ……だが」 空を飛ぶ手段を持たないため、空中で成す術の無い砕剛鬼を冷ややかに見る炎 皇鬼は頭を下に向け、先に落ちる砕剛鬼を追う姿勢を取る。 「お前が奈落の底に辿り着く事は無い」 罪人に刑を言い渡す絶対者の言葉と共に、砕剛鬼を追うべく加速を始めた炎皇 鬼の装甲に細かな黒い線が幾重にも刻まれる。 「出でよ、滅びの炎」 皇鬼に刻まれた線が全身を覆った直後、鋼の天使は一つの変化を見せた。 それは、分解という名の変化であった。 完成された芸術品のような機体が数千にものぼる細かなパーツに分解されたの は一瞬。 宙に浮かぶ星のように細かな破片となったパーツは、それぞれが自我を持って いるかのような動きで互いに結びつき、新たな形を構成していく。 数秒にも満たない時間で分解から再結合までを果たした炎皇鬼は、夜空に新た な姿を現出させる。 六枚の大きな羽を持つ、美しい純白の鳥という姿を。 人型の時と変わらない鋭角な装甲で構成されたその姿は、夜空の闇とのコント ラストも合わさり、まさに神話の中から抜け出たかのような優雅さと幻想的な美 しさを誇る、神の鳥である。 人型から鳥型へと姿を変えた炎皇鬼は、頭部を下に向けて加速し、圧倒的な速 度で先を行く砕剛鬼を追う。 人型である時よりも飛行に適した形となり、人類の常識では到底考えられない 領域に達した炎皇鬼は、加速を続ける中で更なる変化を遂げる。 一羽の鳥となった炎皇鬼の全身から黒い炎が湧き上がり、新しい装甲として、 本来の純白を塗り潰したのだ。 夜の闇をそのまま燃やしたかのような漆黒の炎を纏わせた炎皇鬼は、純白の鳥 から黒の鳥へと変化させた姿で追撃を続ける。 「鏖技、獄炎鳥(ごくえんちょう)」 その名の通り、地獄の炎を全身に纏わせた炎皇鬼は、その神速で砕剛鬼に追い つき、鋭く尖った嘴(くちばし)で緑の機体に大きな風穴を空けた。 「遺言は聞かん、果てろ」 そして、漆黒の炎に包まれた砕剛鬼の身は瞬く間に灰になり、地上に辿り着く 事無く、存在した痕跡さえも残さないほど完全な消滅を遂げた。 焼かれた者の断末魔も無ければ機体の爆発も無い、驚くほど静かで完全な破壊 を遂げた炎皇鬼は、再び数千のパーツに分解した後、最初に現れた時と同じ人型 に再結合した状態で地上に降り立った。 金属に似た質感の装甲で構成されている機体の中において、唯一柔らかな質感 を持つ六枚の羽が、その動きに合わせて優雅に揺れる。 「これが破壊。我の存在意義だ」 既に跡形も無く消え去った砕剛鬼を滅ぼした一点に視線をしばらく見つめてい た炎皇鬼は、事態に取り残されていた聖炎凰へと向き直る。 「次はお前だ」 穢れ無き白に彩られた殺戮の天使が、傷だらけの聖炎凰を見据えた。 次なる破壊を行うために。 第七話 舞い降りた翼(後編)