『天音静流です。これからよろしくね』 その初めて見た笑みを、俺は忘れない。 『これが咬牙王。これから凌牙君が乗る事になる、人類を守る牙よ』 その誇らしげな笑みを、俺は忘れない。 『もう、男の子が簡単に泣かないの』 その困ったような笑みを、俺は忘れない。 『私も凌牙の事を愛してる。誰よりも、ずっと』 その恥じらいを交えた笑みを、俺は忘れない。 『帰ってきたら、結婚式の日を決めましょう』 その最後の笑みを、俺は忘れない。 それだけではない。 喜びも、悲しみも、怒りも、嫉妬も、焦燥も、驚きも、愛情も、恍惚も、慈愛も、悲哀も、 憐憫も、感動も、何もかも、君の全てを忘れはしない。 もはや人のものではなくなった細胞の一片、この身体に流れる黒い血の一滴に至るまで、 その全てに君の名と共に過ごした二年間の記憶が焼き付いている。 だが。 どれだけ俺が君を憶えていても。 どれだけ俺が君を想っていても。 どれだけ俺が君に狂っていても。 君はもう、この世界には存在しない。 だが、それでも世界は回り続けている。 君の命を奪った罪の重さに潰れる事無く、平然と。 それは、俺にはとても受け入れる事の出来ない理不尽だった。 こうやって現実を失った世界で見る君はいつでも、いつまでも笑顔だが、この世界では無 いどこかにあるはずの、君の魂はどういう表情をしているのだろうか。 やはり、多くの人の命を奪う俺に怒っているのだろうか。 少なくとも、君は復讐を望むような人ではなかった。 でも、君の想いを裏切る形になろうとも、俺は全てを終わらせる。 それが、何よりも重い価値のある君の命を奪った世界が背負うべき代償だ。 そして、全てが終わった後は、あの島にある君の墓の前で、俺が自分自身を終わらせる。 例え死んだ所で、今更君の所に辿り着けるとは思っていない。 けれど、このまま悪魔の肉体を持ったまま生き永らえる事に、意味など無い。 肉体が滅んで魂が地獄に堕ちた後も、俺は君の事を想い続けていられるだろうか。 もはや死に恐怖を感じる事は無いが、君の事を忘れてしまう事だけは、何よりも怖い。 願わくば、地獄という場所が、この現世よりも君に近い場所でありますように。 「ふぉえ〜〜」 見た目からは全く想像のつかないほどの間抜けな声と共に上体を起こした、純白の髪の鏖 魔は、焦点の定まらない半開きの目を左右に巡らせる。 が、 「んに〜〜〜」 まるで猫のような唸り声を吐き出した後、再び眠ろうと起こした上体をベッドに預け直す。 「だ、ダメです! 寝ちゃダメです!」 悠羽は再び瞼を閉じようとする鏖魔の肩を揺さぶるが、彼女はそれを気だるそうに右手で 振り払い、眠りへと落ちていく。 瞼が完全に閉じられた直後には既に安らかな寝息を立てる彼女を見る悠羽は、必要以上に 大きなため息を漏らして肩を落とす。 「手強い人ですね……でも」 鏖魔である事を感じさせない静かな寝顔を見つめる悠羽は気を取り直すと、上体を前に屈 ませ、自身の顔を彼女へと近付ける。 「もう起こす方法は分かっているんですよ」 互いの吐息を明確に感じるほどの距離で優しく囁いた悠羽は、眠りに落ちた鏖魔を起こす べく、再び彼女と唇を重ねる。 連続で行われた娘の行動に烈とソフィアが言葉を失う中、悠羽は先ほどよりも長い時間を かけて彼女と唇を重ねる。 二度目となる口づけの中、悠羽は唇を通して彼女の体温を感じるのと同時に、自身の身体 の中が燃え上がっていくかのような熱を感じていた。 ――身体も頭も熱くて、ぼうっとして…… 頭の中に濃い霧がかかったかのような感覚に囚われた悠羽は、本来の目的を忘れ、貪るよ うに目の前の鏖魔の唇を求める。 ――あぁ、とろけそうです この時、悠羽は気付いていない。 ――暖かくて、心地よくて、不思議な感覚です 自分の背に、目の前の鏖魔の手が添えられている事を。 ――お父さんもお母さんも、キスする時はこんな感覚になるのでしょうか 心を彼方へと解き放ってしまった悠羽は、添えられた手が、助けを求めるように自分の背 を何度も叩いている事実にも気付かない。 ――兄さんと静流さんも、こんな風にキスをしていたのでしょうか そして、 「ちょい待ち!」 悠羽の意識は強引に引き戻された。 自身の胸を押し、互いの距離を広げる両手と、短く鋭い叫びによって。 「ったく、人が寝てるってのに、一体何しやがるのよ。おまけに、なんだか一人で変な世界 に入ってるし」 「…………ふぇ?」 未だ自分の置かれている状況を飲み込めない悠羽は、瞬きを繰り返した後、数度深呼吸を 繰り返して気持ちを整理する。 ――えっと、確か私は、私のキスで起きた鏖魔をもう一度起こすために、またキスをして、 それから…… 「ああ! 私、私、何て事を!」 自分の行った事実を改めて認識した悠羽は、真っ赤に染まった頬を隠すように両手を当て ると、その記憶を消去させるかのような勢いで頭を左右に振り乱す。 「こ、これじゃ、私、お嫁に行けません……」 時間が経つごとに増大していく羞恥の感情に押し潰されそうになりながら、悠羽は両親へ と救いを求める視線を投げかけるが、 「いや、まあ、俺は何も見てないぞ? 多分、大丈夫、だよな?」 「悠羽、お母さん、もう何も言う事はないわ。それとも、おめでとう、って言えばいいのか しら? ごめんね、こんな時に気の利いた言葉が出てこなくて」 「ええ!? ちょっと、フォローが何だか投げやりですよ!?」 「もう、うるさいなあ」 恐らく人生初であろう、声を大にしての悠羽の返しに、鏖魔は上体を起こし、右手で頭を 掻きながら軽い怒りを乗せた言葉を投げかける。 「久しぶりに意識が戻ったと思ったら、訳の分からない場所だし、周りはうるさいし、一体、 アタシは何がどうしちゃったワケ?」 既に眠気は霧消してしまったのか、口と同時に身体を動かす鏖魔はベッドから降り、床に 足を着ける。 一糸纏わぬ姿で確保されたため、間に合わせで着せた白いシャツ以外に何も身に着けてい ない彼女は、魅惑的なラインを描く長い脚を惜しみなく外気に晒す。 完璧な造形を誇るその脚線に、娘の所業で混乱状態にあった烈の意識と視線が向けられる が、ソフィアの容赦の無い目潰しによって、即座に対応される。 「初めまして、と言えばいいのかしら。とりあえず、腰を落ち着けなさいな。これから、順 を追って話をしていきましょう」 鏖魔の完全な覚醒により、意識を即座に切り替えたソフィアは、目を抑えて呻き声をあげ る烈に代わり、わずかに圧力を込めた硬質な言葉を放つ。 その言葉に従い、鏖魔がベッドに腰掛けるタイミングを見計らったソフィアは、言葉を続 ける。 「まずは自己紹介からいきましょうか。私はソフィア。この悶えてるのが烈。あなたと熱い キスを交わしたこの子は悠羽。で、あなたの名前を聞かせてもらえるかしら」 ソフィアの言葉を聞き、顔と名前を一致させ、記憶するためにそれぞれの顔を何度か見比 べた鏖魔は軽く頷いた後、口を開こうとした瞬間に動きを止め、表情を曇らせる。 その様子に周囲が不審な視線を向ける中、彼女は表情を一転させ、決まりの悪そうな笑み と共に言葉を生み出す。 「ごめん。アタシ、自分の名前を忘れちゃったみたい」 昼夜を問わず空に浮かぶ鏖魔の空中戦艦、黒刃。 もはや地上から空を見上げる人々にとって日常になりつつある、人類の技術では到底実現 できない巨大な一本の剣の中に、一つの動きがあった。 動きの発生源は、艦のほぼ中心位置する一つの部屋。 中世時代の西洋の王族が住んでいるのかと思わせる、個人が使用するにしては過剰なまで に豪奢な内装と広さを有する部屋の中で生まれる動きは、一人の男によるもの。 その内装に似つかわしくない、黒のスラックスを身に着けただけの男は、研ぎ澄まされた 牙のような、鋭く攻撃的に引き締まった肉体を躍動させ、一瞬も止まる事無く動き続ける。 目に見えない何かを追うように、長い手足を最大限に生かした動きの内容は、拳と蹴り、 その二種類の応酬である。 澄み切った清流のように美しく無駄の無い動きの連続は、鋭さはあるものの、しかし何か を破壊するための力強さは感じられない。 破壊の意志を持たない、破壊のための技術の結晶の連続は、男の肌に軽い汗を浮かび上が らせる。 汗と共に帯びてきた熱を合図とするように、男は大きく息を吐き、動きを加速させる。 一瞬前に比べ格段に速度を増した動きは、人の形をした突風にも似ている。 その速さゆえに動作の隙間が限りなく無に近付き、男は、自らの動きを、全てが繋がった 一つの動きへと変貌させていく。 己の動きによって巻き起こる風に髪を揺らしながら、男は突風の動きを続ける。 既に常人では全てを視認できない領域にまで達した速度の中、呼吸が全く乱れない男の表 情や顔色は微動だにしない。 もし、第三者がこの場にいるのなら、もう一つの事実に気がつくであろう。 速度に見合った足運びをしているにもかかわらず、男からは一切の足音が聞こえないのだ。 部屋の中で聞こえるのは、手足が空を切る音と、男の呼吸音のみである。 音の無い高速のステップを刻む男は、先ほど速度を上げる直前に行ったのと同様に、大き く息を吐き出す。 だが、彼がこれ以上速度を上げる事は無かった。 それだけでなく、彼は突如として動きそのものを停止させたのだ。 それまでの速度が幻であったかのように動きを止めた男は、肌を覆う汗を拭わずに、部屋 の入口へと視線を向ける。 「何の用だ」 「凌牙の邪魔をするつもりは無かったんだけどね」 入口に視線を送る男、凌牙の持つ底無しの闇を具現化した瞳を受けて苦笑いで返すのは、 扉に身を預ける少年のような鏖魔、終破であった。 「それにしても、相変わらず見事な動きだね」 扉から身を離し、凌牙へと歩み寄る終破は、先ほどまでの動きを生み出した肉体を観察す るかのように視線を巡らせる。 「今のは、流鰐と戦った時よりも速いように思えたよ」 凌牙はその言葉に応えず、近くの椅子にかけておいたタオルで汗を拭き取る。 返事が無い事を意に介さない終破は、凌牙との距離を詰めつつ言葉を続ける。 「それにしても人間は、特に君は、『修行』とか『特訓』とかいう行為が好きだね。鏖魔に は、そういった行為の意味が理解出来ないよ」 「それは、最初から強者として生まれた者の驕りだな」 汗を拭きとったタオルを無造作に椅子にかけ直した凌牙は、ベッドの上に脱ぎ散らかして いた服を身に着けていく。 「お前達鏖魔は確かに強い。だが、その強さに驕るのは救い難い欠点だ」 着替えを終えた凌牙の言葉は続く。 「強靭な肉体や特殊な能力は、確かに強さの一つの形ではある。だが、それに満足し、己を 磨く事を怠るような者に、真の強さは手に入れる事は叶わん」 「それで、凌牙はずっと鍛え続けるのかい? もう既に君は強さを極めているだろうに」 話を聞いてもなお理解の及ばない終破の言葉に、凌牙は酷薄な笑みで返す。 「極めている、だと。その考えこそが間違いなのだと、なぜ気付かん」 凌牙は机の上に置いてあった、水の入った瓶に直接口を付けて喉を潤す。 「極める、という境地は、そう容易に辿り着けるものではない。むしろ、道を進めば進むほ どに、それは遠く感じられるものだ。少なくとも、今までに見てきた中で自分の口から『極 めた』という言葉を吐いていた連中は、どれも三流以下でしかなかった」 「そこまでの強さを持ちながら、どうしてそう謙虚なのか、僕にはそっちの方が疑問だよ。 同じ皇魔でも、常に強さを誇示していた始炎とは全く違う考えなんだね」 「奴が鍛錬を積み重ねていれば、どれほどのものになっていたか。恐らくは、想像以上の怪 物になっていただろうな」 これまでに自分が戦ってきた中で間違いなく最強だと断言できる敵、かつての皇魔である 始炎との戦いを思い返そうとした凌牙だが、それより前に抱いた一つの疑問が過去への想い を断ち切る。 「それで、お前は何の用でここに来た。俺と強さについての談義をしに来たわけでもあるま い」 「ああ、そうそう。すっかり忘れるところだったよ」 大袈裟に手を叩いた終破は、普段通りの無邪気な笑みを見せる。 「実は、君に隠し事をしていたのがバレて、斬華に少し怒られてね」 その際に行われた斬華とのやり取りの詳細を話さないが、凌牙はそれを気に留める様子を 見せずに、無言で終破に続きを促す。 「じゃ、ここからが本題だ」 凌牙の意志を汲み取り、終破はこれ以上余計な事を話すことをせず、話の核心を切り出す。 「凌牙、君は始炎が生きている、と言ったら信じるかな」 「何だと」 珍しく表情に感情の色を浮かび上がらせる凌牙に手応えを感じつつ、終破は彼を焦らすか のように数呼吸分の間隔を空ける。 「そもそも、あれだけの傷を負った君が、こうやって生きている事自体、不思議だと思わな いかい? 君がそれを憶えているかどうかは知らないけどね」 「……」 返事の代わりに、凌牙は軽く瞼を閉じて終破の言葉が示すものを思考する。 終破の言葉が指し示すものは、純粋な人間であった頃の自分が持つ最後の風景であり、皇 魔と化した自分が得た最初の風景でもある。 凌牙の脳裏に浮かび上がるのは、既に生命の灯火が完全に凍りついた始炎の姿と、上半身 と下半身をほぼ両断された自分の姿。 そして、 『これで……文句はあるまい……』 『ああ、十分だよ。おめでとう。これで君は新たな皇魔だ』 始炎の後を追うように命を終えようとしているこちらを見下ろす終破の言葉であった。 「そう。君は普通に考えれば死んでいて当然の傷を負いながらも、今は命を繋いでいる。そ れと同じ事が彼女にも当てはまる、と考えてみると分かりやすいかな」 瞼を開けた凌牙にかかる終破の言葉は、彼の脳裏に浮かぶ風景を寸分違わず汲み取ったか のようなものであった。 「奴はどこにいる」 「そう焦らないで欲しいね。話はまだ終わりじゃないんだ」 言葉を聞かないまま、部屋を出ていこうとする素振りを見せる凌牙を引きとめるべく、終 破はわずかに語気を強くする。 「確かに彼女は生きている。それは間違いない。だけど、今の彼女は、君が知っている彼女 じゃない」 「どういう事だ。詳しく話せ」 終破の意図を掴みかねる凌牙は、椅子に腰を落ち着け、終破を見上げる形で続きを促す。 「慌てなくても、順を追って話していくよ」 対する終破は凌牙の対面に座り、一言ごとに彼の反応を確かめるように、ゆっくりと話を 切り出す。 「まずは、どうやって君の命を助けたのか、という所から話していこうか」 普段と変わらぬ微笑を浮かべたまま、終破は懐から一つの物を取り出す。 彼の右手に収まるそれは、緑色に発光する液体で満たされた、小さな試験管のような筒で あった。 「この中に入っている液体、見覚えはあるだろう?」 「ああ、風呂に張ってあった液体か」 凌牙の答えに小さく頷いた終破は、発光する試験管を右手で弄びながら言葉を続ける。 「これは僕達の世界の人間が発明した、非常に便利な液体でね。飲めば生命の維持に必要な 栄養やエネルギーを満たしてくれるし、この液体に浸かれば傷を癒やし、生命を繋げてくれ る」 言葉を聞きながら、凌牙の視線は終破の手の中で回る液体を追いかける。 「あの後、君はこれと同じような容器に入れられて、その命を取り戻した、という訳さ。と はいえ、さすがに傷が深手過ぎたから、少し手を加えさせてもらったけどね」 そう告げた終破は試験管の回転を止め、おもむろに蓋を外す。 突然の行動を黙って見据える凌牙を一瞥した終破は、自由な左手の親指の爪で、同じく左 手の人差し指を切りつける。 ごく小さなモーションで行われた自傷行為は、流血という当然の結果をもたらす。 「君の中に流れる黒い血は、こうやって作ったのさ」 鏖魔特有の黒い血が流れる左手の人差し指を、試験管の真上で下向けにした終破は、指の 先端で大きさを増した血が、重力に従って試験管の中に入る一部始終を楽しげな表情で見届 けた。 「君の命を取り戻し、皇魔としての肉体を与えるために、僕と斬華はかなりの量の血液と、 ある程度の肉体を差し出したよ。その結果が、今の君の肉体と血液だよ」 緑の中に数滴の黒が混ざった試験管の蓋をつけ直した終破は、それを再び懐に収める。 「なるほど、大体の事情は飲み込めた。だが、それは、まだ生きていた状態の俺の命を繋げ た時の話だ。奴は、始炎は完全に死んでいたはずだ。それをどうして蘇らせる事が出来る」 「簡単な話さ。あの時、始炎は死んでいなかった、ただそれだけだよ」 さも当たり前であるかのような軽い口調で突き付けられた事実に、凌牙の動きが止まる。 確かに、今までに告げられた終破の言葉が全て事実であるなら、死者の蘇生が不可能であ る以上、始炎が生きているという事は、五年前に殺し損ねたと考える他は無い。 だが、と、凌牙はその考えを胸の内で否定する。 普通の格闘術を用いて殺したはずの相手が生きていた、というのであれば、素直に納得す る事は出来ないものの、まだ強引に疑問を抑え込む事が出来る。 しかし、始炎は違う。 五年前のあの時、自分は確かに彼女の胸に必殺の右手を叩きつけたのだ。 人間はもとより、戦車でさえも瞬時に凍りつかせ、死の世界を生み出す右手を受けてもな お生きているなど、万が一にでも起こり得る事ではない。 「なぜ始炎を殺せなかったのかが分からない、って顔をしているね。君がそこまで感情を表 に出すなんて、随分と珍しいじゃないか」 思考を深めていく凌牙を愉快そうに見つめる終破は、既に自分の世界に入ってしまった凌 牙の正面に、大きく広げた右手を見せる。 「確かに、君の右手の前には、何者であろうと死を逃れる事は出来ない。だけど、それは君 がその力を完全に発揮できる時の話だ」 そこまでを聞き、凌牙は全てを理解した。 凌牙が下した結論と照らし合わせるように、終破は言葉を続ける。 「始炎と戦い、少なからず傷を負っていた君の右手の力は、普段よりも数段落ちるものだっ たのだろうね。その結果、始炎を完全に殺す事が出来なかった」 終破に告げられた事実が、凌牙の心に二つの衝撃を与える。 一つは、始炎を殺せなかった事。 もう一つは、己の無知と未熟さの再認識。 身体が傷を負い、生命が死に近づけば、右手の力が失われる。 右手はあくまで身体の一部であるため、それは考えるまでも無い単純な理屈である。 しかし、凌牙は今までその考えに至らなかった。 始炎と戦うまで、戦闘において傷を負う事が無かったために。 自分の強さの根源である格闘術、真島流破鋼拳を学び始めた当初は、育ての父である真島 烈や、烈の父である剛に歯が立たず、立てなくなるまで叩きのめされた事もあったが、成長 し、咬牙王のフェンサーとして鏖魔と戦うようになった頃には、凌牙の格闘能力は、他の誰 も到達する事の出来ない領域にまで達していた。 人の身でありながら既に神の領域に踏み込んでいた凌牙は、傷を負うどころか、攻撃を受 ける事さえ無く、右手の力を存分に発揮し、迫り来る鎧鏖鬼を次々と撃破した。 そのため、凌牙は傷を負った時の事を知る機会も無ければ、考える事も無かったのだ。 ――これこそ、強さゆえの驕りだな つい先ほど、終破に対して放った言葉を自分に向けた凌牙は、己の愚かさを嘲笑う。 「まあ、つまりはそういう事だよ。そして僕達は、まだ生きていた始炎を、君と同じ、あの 液体の入った容器に入れた」 俯き、自嘲の笑みを見せる凌牙に届いているかどうか疑わしい言葉を並べる終破は、ここ で軽く息をつき、だけどね、と前置きを入れる。 「いくら生きていたとはいえ、始炎の状態はあまりにも悪かった。さすがに助かる見込みが 無い、というくらいにね」 一気に全てを話さず、凌牙の反応を見ながら続ける終破は、彼が視線をこちらに向けてき た頃合いを見計らい、口を開く。 「僕達鏖魔は生体兵器だから、人間とは比較にならないほどに生命力が強い。例え心臓を潰 されても、しばらくは生きていけるくらいにね。でも」 終破は右手の人差し指を、己のこめかみに当てる。 「ここ、脳だけはどうしようもない。流鰐が顎を蹴られて立てなくなったみたいにね。脳を 破壊されてしまえば、どんな鏖魔だろうと等しく命を失う。これは僕達が兵器である前に、 一つの生命体である以上、逃れられない運命だよ」 終破の視線が、凌牙の右手に移る。 「不完全とはいえ、君の右手を受けた始炎の脳は、その大部分が凍ってしまっていた。それ こそ、生きているのが奇跡というような状態だったよ。だから、容器に入れた後も、始炎は 一向に回復する気配を見せなかった」 喋りながら当時を思い返していたのか、終破は瞳にわずかながら、感傷ともいえる色を滲 ませる。 「そこで、僕は一つの実験を試みた。僕が君に血と肉を分け与えたように、君の血と肉を始 炎に分け与えてみたらどうなるか、という実験をね」 思いもよらぬ言葉に凌牙の眉がわずかに動くが、終破はそれを意に介さない。 「始炎と違い、順調に回復していた君の、まだ赤かった血と人間の肉体を彼女に差し出した 後、彼女は驚くほどの回復を見せてね。ついには目覚めるにまで至ったよ。君の肉体が彼女 に馴染んだのかな」 「随分と趣味の悪い事をする」 知らぬ間に自分の血と肉を他人に分け与えられていた事実に、嫌悪感を示した凌牙は苦々 しく言葉を吐き捨てる。 「でも、さっきも言った通り、彼女は脳に深刻なダメージを受けていた。それは彼女に記憶 の消失という結果をもたらしたよ。恐らく、今の彼女は自分が何者であるかも理解していな いだろうね。言ったろう? 今の彼女は君の知っている彼女じゃない、って。全てはそうい う事さ」 全てを話し終えた終破は、ゆっくりと大きな息を吐き出す。 「何にせよ、奴が生きている事には変わらないのだろう」 終破の言葉を理解し、整理し終えた凌牙は椅子から立ち上がる。 「ならば、もう一度この手で殺してやるまでだ。奴はどこにいる」 「普段は冷め切っているのに、随分と好戦的じゃないか。肉体と一緒に精神まで鏖魔になっ てしまったのかい?」 底無しの闇を具現化した瞳に、わずかな殺意の炎を乗せて問う凌牙を見上げ、なだめるよ うに話す終破は、次の言葉を告げる前に、彼の気持ちを落ち着かせるための間を空ける。 「いいかい? さっきも言った通り、今の彼女は君の知っている彼女じゃない。それは記憶 だけの話じゃないんだよ。実際に見てはいないので断言はできないけれど、今の彼女に、以 前ほどの力は無いだろうね」 「劣化した、という事か」 「脳がやられるというのは、そういう事だよ。鏖魔としての本能や、身体が憶えている部分 もあるだろうけど、やはり自身の力を最大限に発揮するには、今までの全てが凝縮された脳 が必要だよ。それに」 「もういい。興が削がれた」 多少の苛立ちを含んだ声で終破の言葉を遮った凌牙は、声に乗せた感情を動作に表しなが ら、再び椅子に座り直す。 「全く、僕の話を最後まで聞いてもらいたいね。せっかく君の疑問に答えてあげようとして いるのに」 瓶の水を飲み干す凌牙を見ながら、終破は右手の人差し指を真下に向ける。 「目覚めたばかりの彼女は、この真下、かつて君がいた島にいるよ。君の妹と一緒にね」 言葉が終わらない内に、凌牙と入れ替わるように立ち上がった終破は部屋を出るべく、彼 に背を向けて歩き始める。 「もうしばらくすれば戯弾があの島に向かうから、その時に見てみるといいよ。君と血を分 けた者達の姿をね」 背を向けたまま軽く手を振りながら、終破は軽い足取りで部屋を後にした。 「蘇った始炎が、悠羽と一緒に創世島にいると、そういう事か」 応える者の去った部屋に、凌牙の静かな呟きが零れる。 「悠羽、お前は奴に、始炎に、どう相対する」 「名前を忘れた?」 「そうみたい。名前だけじゃなくて、どうにも思い出せない事ばっかりだけど」 体勢を変え、ベッドの上で胡坐をかいた白髪の鏖魔は、思い出せない自分の名を探すかの ように宙へと紅の瞳を向ける。 「せっかく胡坐をかくなら、もう少し角度を考えぐぇ!」 「なら、何か思い出せる事は?」 背後で復活した烈に再度の目潰しを叩きこんだソフィアは、気を落とさず質問を続ける。 二十年の時を経て、ついに捕獲した鏖魔を前に、引き出せるだけの情報を引き出すため、 ソフィアは名を忘れた鏖魔に言葉を投げ続ける。 目の前の娘と、魂を凍りつかせた息子のためにも。 「鏖魔という存在、組織の規模や構成、技術、長所や短所、何でもいい、名前が思い出せな くても、何かを話す事は出来ないかしら」 表向きは穏やかだが、その中に確かな圧力を込めた言葉を、鏖魔は視線を宙に向けたまま 聞き、考え込むように、ん、と小さな声を漏らす。 「まあ、そりゃあ、何となくだけど憶えている事もあるよ。でも、どの記憶にも確かなもの が感じられなくて変な感じがする。まるでアタシがアタシじゃないみたい」 宙を見据える鏖魔は、誰に向けているのか判然としない、夢の中にいるかのような曖昧な 口調でそう告げた鏖魔は、でもさ、と視線をソフィアに向ける。 「名前を思い出せないのが、一番気持ち悪いかな。名前が無いって、なんだか存在そのもの を否定されたみたいでさ。だから」 言葉とは裏腹に、天上の美貌に笑みを浮かべる鏖魔は、ソフィアに向けていた紅の瞳を悠 羽へと向ける。 「悠羽、って言ったっけ?」 「は、はいっ!」 不意に声をかけられた事への驚きと、一瞬遅れて甦った先ほどのキスの感触が、悠羽の頬 を朱に染め、声を上ずらせる。 その反応が愉快だったのか、目を細め、喉を鳴らして小さな笑いを響かせた鏖魔は、 「アタシの名前、決めてくれない?」 まるで肉親に挨拶をするかのような気軽さで、そう告げた。 「…………ふぇ?」 その言葉の内容が理解できなかった悠羽は、返事にもならない、ただ間抜けな声を返す。 「自分で自分の名前を思い出せないからね。大体、名前っていうのは、誰かから与えられる ものだし、悠羽が決めちゃっていいよ」 もはや悠羽が名付け親になるのは彼女の中で確定しているのであろう、鏖魔はその顔をだ らしないくらいに綻ばせ、十分以上の期待によって輝く紅の瞳を悠羽に向ける。 「わ、私が、ですか!?」 ようやく事態を飲み込めた悠羽は思わず大声を出し、この流れを変えるべく、目と表情で 両親へと意見を求めるが、 「確かに、このまま名無しっていうのも不便ね」 「おぉ、あのシャツを押し上げる魅惑のオッパげぁっ!」 「ふふ、どこまで曲がるのかしら? もっともっといけるわよね?」 制裁という名のキャメルクラッチに忙しいソフィアと、本気でタップしている烈の姿に、 悠羽は独りでの思考を選択する。 ――どうしましょうか 人生で初となる頼み事に、悠羽は即座に解答を導き出せない。 だが、自分の胸の中に、彼女の言葉を拒絶する、という選択肢は無い。 迷いの中身は、ただ一つ。 ――どういう名前をつけたら、喜んでくれるのでしょうか その問いかけに、悠羽は自身の名と、それを自分に与えてくれた両親を想う。 とはいえ、父である角秋(すみあき)と母である珠尾(たまお)は、自分が生まれた直後 に命を落としているため、両親と共に過ごした思い出は無い。 胸の中に形成された両親は、写真で見た姿と、周囲の者から聞いた話が全てである。 幼少の頃から聞いてきた、声も憶えていない両親にまつわる話の一つを、悠羽は記憶の中 から呼び起こす。 命と同じく、実の両親から自分に与えられた贈り物である、悠羽という名。 生まれてから今に至るまで、そしてこれからも手放す事の無いこの名前だが、もう一つの 名を与えれる可能性があったという。 ――確か、私が生まれた日には雪が降っていて 悠羽は思考の海を潜り、いつか聞いた話を、出来る限り細かに思い出す。 凌牙を出産した七年後、自身が宿した二人目の子が女だと知った珠尾は、悠羽という名を 与える事を決め、角秋や凌牙もそれに異論を唱える事は無かった。 そして、無事生まれた子にその名を付けようとした時、ふと外の景色を見た角秋は、それ まで決定されていた名と違うものを口にしたのだ。 『珠尾さん。今決めたんだけどね、その子の名前、悠羽っていうのもいいんだけど……』 結局、角秋が告げたもう一つの名前は珠尾によって却下され、本来の予定通り、新しい命 には悠羽という名が与えられる事になったのは、何よりも悠羽自身の存在が証明している。 いつか聞いた話の全てを思い返した悠羽は思考の海から意識を引き戻し、改めて目の前で 瞳を輝かせる鏖魔を見る。 存在そのものを疑いたくなるほどの完成された美しさを持つ鏖魔の中でも、瞳と並んで特 に目を引くのは、部屋の光を受けて輝く、美しい純白の髪。 一切の癖を持たない、極上の絹のように滑らかな質感と光沢を併せ持つ純白の髪は、天か ら舞い降りたばかりの雪のようにも見える。 その髪に、記憶に無い、自分の生まれた時の風景を重ねた悠羽は、胸の奥底に眠る、もう 一つの名を口に出す。 「雪那(せつな)」 告げられた名に、鏖魔の目がわずかに見開かれる。 「雪那、でどうでしょうか。もし気に入らないというのなら別の名前を」 「それでいいよ」 悠羽の言葉を遮り、たった今与えられた名の感触を確かめるように口の中で何度か転がし た彼女は、 「うん、気に入った。これからアタシの名前は雪那だ」 満面の笑みで応える鏖魔、雪那は、自分の名を胸に刻むように、口の中で自身の新しい名 を何度も呟いた。 第九話 失われた名前、与えられた名前(後編)