男は走った。 赤い光が咲き乱れる廊下を、一心不乱に走った。 施設全体を揺るがす振動が男の足を鈍らせるが、それでも彼は倒れる事無く、何かに駆り 立てられているかのように走り続けた。 「化物、どもめ!」 口の端から泡を吐き出しながら走る男の口から漏れるのは、呪いの言葉。 この世界が生んだ最大の悪夢にして、最悪の破壊者。 ヒトと同じ姿を持ち、自分の意志で動き、圧倒的な破壊力を行使する兵器。 鏖魔と呼ばれた一連の生体兵器群は、敵味方の区別なく全てを喰らい、遂には己の世界そ のものまでもを破壊するに至ったのだ。 この世界に残された数少ない、あるいは最後かもしれない人類の拠点であるこの研究所も、 長くは持たない。 世界の崩壊は、もはや誰にも止めようが無い。 故に男は走った。 その先にあるのは、 「アレを、アレの封印を解いてやる……!」 眼を血走らせながら男は静かに叫び、カードーキーと暗証番号を駆使して、ようやく辿り 着いた大きな扉を開ける。 静かに開いた扉の奥に広がっていたのは、緑色に発光する液体に満たされた、三本の巨大 な試験管のような容器と、その中にそれぞれ浮かぶ、三人の男女であった。 「この僕の最高傑作、王騎(おうき)が目覚めれば……」 中央の試験管の横に備えられた操作パネルに指を這わせながら、男は試験管に視線を移す。 その中に浮かんでいるのは、完璧な肉体を持つ白髪の青年であったが、男の視界はそれを 捉えてはいない。 男が見据えるもの、それは試験管の表面に映る自分自身の顔であった。 過剰な脂肪に覆われたその顔は、男にとって最も忌み嫌うものであり、彼を歪ませた最大 の原因である。 幼い頃から己の容姿を醜いと恥じ、他人の目を恐れて研究に没頭してきた男にとって、鏖 魔との出会いはひどく衝撃的なものであった。 白い髪と赤い瞳を持つ絶世の美女が死天使さながらに破壊をもたらすその光景に、若き研 究者であった男の心は奪われた。 醜い自身が成りたかった理想の自身を己が手で生み出す。 かつてない情熱に憑かれた男は、鏖魔という自身を投影する器の研究にのめり込んだ。 何者よりも美しく。 何者よりも雄々しく。 何者よりも強く。 何者よりも賢く。 何者よりも気高く。 およそ己が持ち得ない全てを兼ね備えた、男性としての究極の姿、全ての鏖魔を超越し、 王者として君臨する己の分身を生み出す。 そして、男の妄執と、より強い兵器を求める政府の動きが合致し、最強の鏖魔である始炎 を超える鏖魔を創る計画が実行され、三体の鏖魔が創られた。 その中心となったのが、男の理想の具現化である男性型の皇魔、王騎である。 だが、男の夢である皇魔、王騎は男の思い描いていた活躍を果たす事が出来なかった。 始炎を始めとする鏖魔の力が強力すぎるだけでなく、彼女らが自らの意志を持っているた め、制御が出来なくなりつつある状況下において、更に強大な力を持つ王騎の存在は、危険 以外の何物でも無かったのだ。 結果、王騎ら三体の鏖魔は封印処分となり、その存在が公になる事は無かった。 「認めないぞ」 試験管の中の鏖魔、王騎の封印を解除しながら男は漏らす。 「僕の、僕の王騎がこのまま消えるなんて、絶対に認めないぞ」 世界そのものの崩壊を目前に控えた状況下にあって、己の命よりも自身の分身を優先する その姿は、狂人と呼んで差し支えない。 懸命にパネルを操作する男の動きに合わせ、試験管を満たしていた液体の水位が下がって いき、王騎の肉体が本来の色を取り戻す。 力強い筋肉に覆われ、美しいラインを描く王騎の肉体は、これを生み出した男のみならず、 全ての男性にとって理想であるに違いない。 「さあ王騎。今こそ目覚める時だ!」 パネルでの操作を全て終えた男は、間も無く目覚める分身を受け入れるかのように、試験 管の正面で両腕を大きく広げる。 試験管の表面が中央から左右にスライドし、王騎と男の間の隔たりを無くす。 そして、かつて男が心を奪われた始炎と同じ、紅の瞳が男を見据える。 「私を目覚めさせたのは卿か」 白髪赤眼の美男子の口から紡がれたのは、威厳を感じさせる低さの中に、聞く者を陶酔さ せる甘さを含んだ声。 「ああ、そうだよ王騎。僕は君の産みの親だよ」 自らが望んだものと寸分も違わない分身の声に酔いしれながら、男は自分の半生が間違い で無かったと確信し、その瞳に涙を浮かべる。 「ふむ。ならば卿には感謝せねばなるまい」 一糸纏わぬ姿で究極の肉体を外気に晒す王騎は、口元に微笑を浮かべつつ、男の頭に手を 置く。 それは、長年付き合ってきた友人を労うような自然な動作であったため、男はその行為に 違和感を覚える事が出来なかった。 「大儀であった」 「……え?」 男の声は、果たして声に成り得たのか。 それとも、王騎がトマトを握り潰すように男の頭を握り潰す方が早かったのか。 どちらにせよ、結果として生まれた事実は二つ。 一つは、 「……」 頭部を失い、ゆっくりと後方へと倒れていく男が既にこの世の者では無くなった事。 もう一つは、 「祝いたまえ。卿の死が、我が世界の始まりなのだ」 崩壊していく世界の中、赤の血を浴びた皇魔は、そう高らかに謳い上げた。 夜空のようで、しかし月も無ければ星も無い、それどころか何も映さない闇の中の闇、空 間の狭間に、一本の巨大な白い槍が悠然と浮かんでいた。 その身を白一色に染めた槍の名は、白槍(はくそう)。 鋭いラインを描く美しい外観と同じく、上品な白を基調とした内装を有する白槍のほぼ中 央に位置するのは、艦の心臓部である制御室。 全長三キロにも及ぶ巨大な艦をほぼ無人でコントロールするための部屋は、およそその用 途を感じさせない内装が施されていた。 およそ五十メートル四方のフロアの壁は、艦内と同じく白を基調とされており、床は一目 で高級と分かる赤の絨毯がひかれている。 天井には天使と女神が戯れている絵画が一面に描かれ、その中央には豪奢な装飾に彩られ たシャンデリアが吊るされている。 シャンデリアの真下にあるのは、壁と同じ白の大きな円卓。 大理石にも似た質感の円卓に備えられた席の数は十二であり、真上から見たそれは、大き な時計のように見えるであろう。 そして、その円卓に座しているのは、三人の男女。 入り口の方向を六時として見た場合、十二時の席に座っているのは、派手さこそないが、 重厚で豪華な印象を与える黒衣に身を包んだ白髪赤眼の男。 十一時と一時には、男と似た衣装を身に着けた赤い髪と青い髪の女がそれぞれ座っている が、それぞれの服の色は男と違い、着る者の髪の色と同色になっている。 席を持て余した円卓に掛ける三人の男女が視線を向けるのは、円卓の中央で浮かびあがっ ている、いくつかの文字と図形。 立体映像の一種なのか、質感さえ感じそうになる地球儀にも似た球体の映像がゆっくりと 回転する動きに合わせ、文字やいくつかの図が切り替わっていく様子を、三人の男女はそれ ぞれの表情で眺めている。 白髪の男、王騎は真の表情が見えない微笑で。 赤髪の女、妃銃(ひじゅう)は険の混ざった硬質な面持ちで。 青髪の女、妃盾(ひじゅん)は活力を感じない、眠たそうな瞳で。 「やはり、この壁を突破するにはもうしばらく時間がかかりそうですね」 映像から視線を逸らさないまま、赤髪の女、妃銃は多少の苛立ちを交えた声を漏らす。 「ふぁぁ……だねぇ」 目を擦りつつ、欠伸混じりに応えたのは青髪の女、妃盾。 その態度が気に食わないのか、妃銃は攻撃的な視線を向けるが、妃盾は何事も無かったか のように再度の欠伸で応える。 「そう焦る必要もあるまい。時間は無限ではないが、簡単に尽きもせぬよ。……しかし」 左右で行われている無言のやり取りが面白かったのか、円卓に肘を置き、小さく喉を鳴ら した王騎は視線を浮かびあがる図形の先、閉ざされた入り口の扉へと向ける。 「珍しい事もあるものだ。この白槍に来客とはな」 「おやおや、気付かれてしまいましたか」 宙に投げかけられた、気品に満ちた声を拾ったのは左右に侍る侍従ではなく、彼の言葉通 り「来客」、この艦を訪れた第三者であった。 声と共に姿を現したのは、 「ほう、道化とは面白い」 浮かび上がる映像を挟んで向かい合う形で姿を見せた者の姿に、王騎はわずかに口の端を 上げ、目を細める。 「もう少し覗いていたかったのですが、いやはや、さすがと言うべきでしょうかな」 王騎が向ける好奇の視線を正面から受けながら、道化はおどけた仕草で深々と頭を下げる。 「はじめまして怪物達。ワタクシはワンダラーズの」 「それ以上口を開くな道化!」 頭を垂れ、飄々とした口調で名乗りを上げようとした道化の言葉を掻き消したのは、室内 を震わせる妃銃の怒号と、 「どうやってここに入ったのかは知らんが、王騎様の前で姿を隠すなど、万死に値する不敬 と知れ!」 道化を取り囲む、総数を数えるのも馬鹿らしくなるほどの銃器の群れであった。 前後左右に加え、頭上さえも取り囲んだ銃器の群れは、銃と呼べるものから砲と呼べるも のまで、その種類は様々だが、それらはただ一つの例外無く銃口を道化に向けたまま、何か に支えられているかのように宙で固定されたまま動かない。 それと同時に、王騎の左に座っていた妃盾もまた立ち上がり、青い光で覆われた左手を前 に突き出す。 その動きに合わせ、彼女らの前に青い光の壁が生み出される。 「わお! これはウチのアトラクションも真っ青のビックリ魔術だ!」 さながら魔法のように突然現れた銃器と光の壁を前に、頭を上げた道化は一切恐れる事無 く、むしろ自らの危機を楽しむ節さえ感じられる、喜びに満ちた叫びをあげる。 予想外の反応にわずかに面喰いつつも、銃器の群れを操る赤髪の鏖魔は、周囲の大気を 焼き尽くさんばかりの怒気を発しながら立ち上がる。 「狂ったか。それともただの虚勢か。どちらにせよ、貴様の罪は軽くはならんし消えもせ ん。その死をもって王騎様への詫びとせよ!」 「待て」 妃銃が支配下にある数多の銃の引き金を一斉に引こうとした、まさにその瞬間。 怒りに猛る赤の嵐を止めたのは、王の言葉であった。 彼女の怒りに比べれば何の力も無いように思える、呟くように吐き出されたその一言は、 しかし魂の奥底まで彼に心酔している彼女にとって、これ以上無い拘束力を持つ一言であっ た。 「私を守護する務め、誠に大儀。卿らのその忠義、我が誇りとさせてもらう」 「そのお言葉を頂けるだけで十分です」 「だね」 戯曲を謳い上げるかのような、どこか大袈裟な芝居じみた労いの言葉で侍従の行動と怒 気を収めた王は、銃に遮られ、姿の大部分が見えなくなっている道化へと視線を移す。 「卿らの銃と盾を退いてはもらえぬか」 その言葉に彼女らが反応するよりも早く、王は己の胸の内を簡潔な言葉にして伝える。 「私は、あの道化と話がしてみたいのだよ」 「王騎様がそう仰せとあらば」 「ん」 続けて放たれた言葉の真意を掴みかねた二人であったが、彼女の中に主の言葉に反する という選択肢などあるはずもなく、出現させた時と同じく即座に全ての銃と光の壁を消し 去り、静かに着席する。 「すまぬな。私の我が儘を許せ」 あくまで優雅に言葉を紡ぎ出した王騎は、銃が消えて再び姿が露わになった道化に好奇 の入り混じった紅の視線を投げかける。 「座りたまえよ道化殿。私は卿を客人として歓迎しよう」 「いえいえ、破壊の王とワタクシごときが席を共にするなど、恐れ多い話で」 言葉とは裏腹に、道化の態度に相手への敬意は感じられない。 掴みどころの無い飄々とした態度は、見る者によっては、どこか相手を馬鹿にしている のではないかと思わせるほどに軽いものであった。 「そうか。ならば無理強いはすまい」 そんな道化の態度に気分を害する訳でもない王騎は、円卓の前で立ったままの道化を見 上げ、問いかける。 「では、改めて名を教えて頂きたい。先ほどは聞きそびれてしまったのでな」 「ホホホホ。ワタクシの名はダークラウン。ワンダラーズの幹部にして、御覧の通り、し がない道化でございますよ」 最初に名乗った時と同じく、深々と頭を下げて己の名を告げる道化、ダークラウン。 「ダークラウン、か。それで、卿がここに来た目的は何かね」 「それは単純明快。簡単な話ですよ破壊の王」 全く見知らぬ相手を前に、王騎は口元の微笑を濃くしつつ、眼前の道化の言葉に耳を傾 ける。 「ワタクシは今、色々な世界の方に会って話を聞いている最中でして。なかなか癖の強い 方ばかりで苦労していますよ」 「ほう」 興味深げに短く呟いた王騎は、紅の視線で続きを促し、道化はそれに応える。 「それで本日は、鏖魔を超えた鏖魔、と称されるアナタ様にお会いしに参ったと、そうい うワケなのですよ、ハイ」 真意の掴めない、おどけた仕草と口調で目的を告げたダークラウンを見ながら、白髪の 王は、あくまで余裕の笑みを浮かべたまま、左の人差し指で円卓を軽く叩く。 「卿の住む世界が一体どのような所かは知らぬが、私の世界の事情に詳しいな。私の存在 は、私の世界に住む者でさえ、ごく一部の者しか知り得ぬはずなのだが?」 「そこは企業秘密でございますよ。芸を楽しむコツは、裏側を知らない事ですカラ」 「ならば卿の事を詮索すまい。道化の芸に付き合うのも、また一興」 不可解な方法で侵入してきたダークラウンに対し、不自然なほどの寛容さを見せた王騎 は、右手を軽く上げ、右に座る妃銃に合図を送る。 未だダークラウンに対して警戒を解いていない妃銃は、主の意図する所を汲み取り、そ の役目を瞬時に果たす。 「客人に何も出さぬのは無礼であろう」 そう告げた王騎は、自身とダークラウンの前に妃銃が転移させた小さなグラスを手に取 り、鮮やかな青で彩られた液体を飲み干す。 「ワタクシが知る鏖魔は食事に興味など無かったはずですが、これはビックリ!」 不快感を与えかねないほどに大袈裟な言葉とリアクションを見せたダークラウンは、王 騎のものと同じ液体で満たされたグラスを傾ける。 「ンマイ! いやあ、実に美味ですよこれは!」 「食事や音楽、絵画といった人間の文化も、試してみれば存外に愉しませてくれる。機会 があれば、私が卿に料理を振る舞うとしよう」 ダークラウンが飲み終えたグラスを円卓に置くと同時に、妃銃が空いた二つのグラスを 転移させる。 「フム。やはりアナタは実に面白い」 グラスが消えた辺りを指でなぞりながら、ダークラウンは王騎の顔を覗き込むように身 を乗り出す。 「そこまでヒトに近い、いや、もう完全にヒトの感性を備えたアナタは、一体何を目的と しているのか?」 「卿がここまで来て聞きたかった事はそれか?」 「いかにも。アナタなら、『破壊と闘争』という言葉を呪いのように繰り返すしか能が無 い鏖魔と違う答えを出してくれる、ワタクシはそう思いますよ?」 「成程な。卿はそう思うか」 円卓を挟んで詰め寄るダークラウンに対し、王騎は円卓に備えられた椅子に深く腰掛け、 自分に問いを投げかける道化を見据える。 おどける道化と微笑の王。 互いに真意の掴めぬ表情を浮かべたまま、白の王は口を開く。 「卿の期待を裏切って申し訳ないが、私もやはり鏖魔。何よりも破壊と闘争を尊ぶ身であ る事には変わりない。いかに人間の文化を真似た所で、所詮は戯れ。鏖魔として生まれた 以上、その本質は変わらぬ」 静かに、だが荘厳に響く声で語った王騎は、だが、と続ける。 「私が破壊と闘争を如何に楽しむか、という点は他の鏖魔とは違うと言える」 その言葉の終わりを見計らい、妃銃は王騎の右手の中に、赤い水の入った瓶を転移させ る。 「この瓶が世界そのもの、中に入っている水を、闘争に値する強者の数と仮定しよう」 手の内で瓶を数度転がした王騎は、それを逆さにして中の液体を円卓の上に広げていく。 「鏖魔という存在は、この水を無思慮、無分別に減らしていくしか知らぬ。無論、それが 有限であると知っていてもな。……そして」 重力に従って瓶から零れていく水が円卓を滑り、床に零れ始めた頃、王騎は中身を失っ た瓶から手を離す。 中に入っていた水と同じく、重力の虜となった瓶が辿る運命は、自由落下の一語のみ。 そして、水とは違う性質を持った瓶は、高音と共に砕け散るという、至極当然の末路を 迎える。 「彼らは世界そのものを破壊するに至った」 足下に散らばる瓶の破片を見る王騎の視線が、わずかに嘲りの色を含んでいる事に気付 きながらも、ダークラウンは何も言わず、王の言葉に耳を傾ける。 「例え彼らが次なる世界に渡ったとしても、これでは何も変わらぬ。何本の瓶を用意しよ うが、中身を飲み干して割る事の繰り返しを、彼らは止められぬよ。……ならば、どうす れば良いか」 簡単であろう、と投げかける紅の視線の主は、道化の答えを待たずして解答を告げる。 「瓶の中身が減るのであれば、足してやればよい。それも、減ったものよりも上質なもの をな」 気品と力強さと美しさを兼ね備えた生ける兵器は、円卓の上で展開する世界の映像を指 す。 「私は王として世界を創造する。闘争を至上とし、私を永遠に満たしてくれる世界をな」 世界を己の闘争本能を満たすための箱庭に創り変える。 それは、常人が発したなら、一笑に付すどころか正気を疑われるであろう荒唐無稽な夢 物語であったが、彼はそれを、まるで明日のスケジュールを伝えるかのような、至極自然 な口調で謳い上げる。 「闘争によって世界を破壊するのではなく、闘争による世界を創造する。……ククク、期 待を裏切るだなんてトンデモない! やはりアナタはただの鏖魔じゃない!」 身体をのけ反らせ、しばらく大笑していた異界の道化は、円卓に掛けたままの王の顔を 覗きこむ。 「闘争が何よりも尊重される世界、実にスバラシイ! だが、アナタが言う『上質な水』 はどうやって創るおつもりで?」 「かつては石で武器を作っていた人間が鏖魔を生みだしたように、彼らは放っておいても 兵器の質を上げていく。私が世界の秩序を変え、闘争が至上のものとなれば、その速度は 平時とは比較になるまいよ。そこで、だ」 黒衣をなびかせて立ち上がった王騎は、右手に座る妃銃に視線で指示を下す。 王騎の視線が意味する所を正確に把握した妃銃は、決して気の許せる相手ではない道化 に対して寛容すぎる主の意図が掴めずにいたが、それに対して疑問や不満を抱く事は無く、 そう思考する間さえも惜しむかのように、与えられた指示を最速で実行する。 「人間の技術の発展が瓶の中を満たす水の質を上げるが、水全体の質を上げるのではなく、 突出して強力な個体、『至高の一滴』を生み出そうといのであれば、話は変わってくる」 そう告げる王騎と、彼の正面に立つダークラウンが立っていたのは、先ほどまでの制御 室ではなかった。 「おや? ここは?」 「ここが、その『至高の一滴』を生み出す部屋の一つだよ道化殿」 妃銃によって転移させられたダークラウンは、正面に立つ王騎のすぐ後ろに見える壁か ら、ここが部屋の端であると認識し、興味の色を強く含んだ視線を周囲に向けて、部屋全 体の様子を確認する。 後ろを振り返った道化の前に広がっていたのは、公園くらいならそのまま収まりそうな ほどの広大な長方形の空間と、左右に並ぶ試験管のような円筒形の容器の列であった。 上部が太いケーブルで繋げられた、三メートルほどの高さがある容器の中には、その全 てに緑に輝く液体が満たされており、それぞれの発光が、天井からの照明が頼りない室内 を明るく照らしている。 もし左右に並ぶのがこのような容器では無く桜の木であったなら、さぞ美しい桜並木に なったであろう光景だが、この道化がそのような感性を持ち合わせているのかは分からな い。 そして、試験管の列を見渡す道化は、ある事に気付いた。 千は下らないであろう試験管の大半は緑の液体が満たされているだけだが、その中に何 かが浮いているものも存在しているのだ。 軽く見渡した所、物が入っているのは一割にも満たないほどの割合ではあるが、中に入っ ている物は、ただ一種類しかない。 それは、 「人間の頭部、ですかね? これは」 男性が多数を占めているものの、老若男女、その全てを網羅した頭部の群れを、ダーク ラウンはまるで美術品のコレクションを眺めているかのように尋ねる。 「然り。正確に言うのであれば、集めているのは頭部では無く、その中に入っている脳だ がね」 自分の近くの容器に浮かんでいる、若い男性の頭部を見ながら応える王騎の声には、こ の異常な光景の中にあっても一切の揺れが無い。 「この艦、白槍は、鏖魔を創っていた研究所が所有していたものでな。このような施設が 艦内に設けられている」 左右を多数の頭部に挟まれた通路を優雅な動作で歩きながら、王騎は説明を続ける。 「ここは、脳に収められた情報を吸い上げるための部屋。闘争を主眼に置いているため、 男性が多くなってしまっているが、ここに集められているのは、それぞれに優れた能力を 持った者達だよ」 足を動かしながら、液体の中に浮かぶ頭部の一つ一つに視線を合わせる王騎の姿は、物 言わぬ群衆に無言の会話を交わす王のものであった。 「鏖魔を創るために必要なものは大きく三つ。ここで吸い上げた情報を詰め込んだ脳、別 室で創られる肉体。そして……そうだな、宿命とでも呼ぶとしようか」 「宿命?」 「そう、宿命だよ。魂のカタチと呼ぶ者もいるそうだが、意味する所は変わらぬ。鏖魔に は、兵器としての己が存在と、生命としての己が存在を確立するための楔が打ち込まれて いてな。それは映像や言葉、色や概念として精神の奥深くに根付いている。例えば、私の 中に刻まれているのは『王』や『剣』、そして『時間』。妃銃や妃盾が私に仕えているの も、彼女らの中に『侍従』、あるいは『側近』といった宿命が刻まれている事が因となっ ている。詰まる所、我々は与えられた配役を理解し、それに従って生きている、という事 だよ」 ダークラウンを見る事をせず、命無き臣下を目で追い続ける王騎は、自身のルーツにつ いて、舞台で歌劇を演じるかのように語る。 「そして『至高の一滴』には、王を超える者、『超越者』あるいは『神』といった役割を 演じてもらう事になる。王が神を創るなど、傲慢が過ぎるというものではあるがな」 王である己の望みに、王騎は薄い自嘲の笑みを浮かべる。 「だがな、道化殿。これでは足りんのだよ。ここにある脳を使って鏖魔を生み出したとし ても、神はおろか、私を満足させるほどの強者さえ完成しない。『至高の一滴』を生み出 すためには、より多くの、より強い力を持つ者の脳が必要なのだ」 室内の頭部を一通り見終えた王騎の足が止まり、黒衣の長身が道化の方へと向けられる。 「故に私は、闘争の世界の王となる。永続的に続けられる闘争を楽しむのみならず、その 中で生まれた強者の脳を集め、『至高の一滴』を生み出すために」 白髪の王の口から吐き出された目的は、どこまでも破壊と闘争を求める鏖魔ならば、ご く当たり前のものに過ぎないが、それを聞く道化の脳裏に、ある疑問が浮かぶ。 「その『至高の一滴』とやら、完成すればアナタよりも強い存在になりますかな?」 「無論、そのつもりだ」 「では、アナタは自分を殺すための存在を自身の手で?」 「そういう事になる。鏖魔では無い卿には解かりにくい事かもしれんが、我らの目的は、 あくまで破壊と闘争であって、その先が勝利であるか敗北であるかは問題ではない」 常軌を逸した論理を、さも当然のように語る王騎。 「仮に、私より強い存在と相対して、その闘争の結果が死というのなら、鏖魔としてこれ 以上幸福な死はあるまい。全ての鏖魔は、己の魂を賭けて望んだ闘争の果てにある死を望 んでいるのだよ。私が世界の秩序を変えるのも、『至高の一滴』を完成させるのも、私自 身の死を望めばこそ、だよ」 言葉を終えると同時、右手を軽く上げた王騎の動きに合わせ、二人は再び制御室で円卓 を挟んで向かい合う形になる。 「さて道化殿。私に聞きたい事は他にあるかね?」 もといた席に再び腰を下ろした王騎は、着席と同時に妃銃が転移させていたグラスを手 に取り、先ほどと同じ青い液体を流し込む。 王騎と同じく、再び眼前に転移させてあったグラスを手に取り、やはり先ほどと同じ青 の液体を飲み干したダークラウンは、道化に相応しい不敵な笑みを浮かべる。 「いえいえ。お話は十分に聞かせて頂きました。そのお礼といってはナンですが、アナタ が求める『至高の一滴』を完成させるための手助けになるかもしれない話をさせていただ ければ」 「ほう。それは興味深い。是非聞かせてもらおう」 興味に満ちた王騎の眼差しを受けたダークラウンは、では、と前置きをし、ゆっくりと 口を開く。 「アナタは、『勇者』という者達をご存知ですか?」 「勇者……御伽噺の英雄の事かね?」 突然の問いを受けた王騎はわずかに思考し、その単語の持つ意味を言葉にする。 「ふむ。アナタの世界に『彼ら』はいなかったのですから、そうお答えになるのも無理は 無いでしょう。ですが、ワタクシの言った『勇者』は、様々な世界に実在する存在なので すよ」 それまで空だった右手の中に突如として何枚かの写真を出現させたダークラウンは、そ れらを王騎の前に広げる。 「これが、卿の言う『勇者』か」 「一部ではありますがね」 円卓の上に置かれた――王騎が垂らした赤い水は既に片付けられている――写真を手に 取った黒衣の王は、それらを左右に座る侍従と共に眺める。 「近々、ワタクシどもワンダラーズは大規模な公演を行う予定でしてね。今回ここに来た のは、その宣伝も兼ねて、なのですよ」 写真のように、何も無い空間から一枚の紙を生み出したダークラウンは、写真を見る王 騎にそれを渡す。 超次元ワンダランド 開園! 世界中の皆様に、素晴らしい夢を!! ワクワク ドキドキ ワンダーランド!! 忘れられない思い出を!! 新たに手渡された、必要以上の派手さで装飾された文字と絵の嵐ともいうべき紙、超次 元ワンダランドのチラシに目を通した王騎は、その馬鹿馬鹿しいまでの彩りに呆れたのか、 小さな笑声を漏らし、その視線を道化へと向ける。 「卿らの公演とやらに、異世界の『勇者』。つまり卿は、この公演に私達と彼らを招待し ようというつもりか」 「今回の公演では、多くの演目を行おうと考えておりますので、それらを演じる方々の協 力が必要でして」 不敵な笑みを浮かべ、懇願するように、あるいは迎え入れるかのように頭を下げるダー クラウン。 「今回は挨拶ですので、答えは結構ですよ。では、本日はこの辺で」 言葉が終わると同時、ダークラウンの身体が激しく発光し、風船のように急速に膨らみ 始める。 「王騎様!」 「……ん」 道化の異常を察知した二人の侍従が立ち上がり、銃器を呼び出し、左手を前に出して盾 を展開するのと、道化の身体が限界まで膨れ上がったのは、ほぼ同時。 だが、それよりも早く、 「我が前に跪け、世界よ」 円卓に掛けたままの王騎の言葉、世界の法則を捻じ曲げる王の祝詞が紡ぎ出される。 「鏖技(おうぎ)、超刻界(ちょうこくかい)」 瞬間、世界はその言葉通り、彼の前に跪いた。 「このような手品が待っていようとは、なかなか楽しませてくれる客人だな、卿は」 王としての余裕と威厳を崩さない、悠然とした態度で立ち上がった王騎は、正面で今に も破裂しようとする道化と、左右で立ち上がった侍従をそれぞれ見やる。 王騎以外、静止画のように動きを止めた世界の中で。 「卿のその手品が道化としての存在証明であるなら、私の超刻界もまた、王としての存在 証明であろう」 その言葉を聞く者は、この世界の中には誰一人として存在しない。 「この超刻界は、時を止め、この世界を跪かせる能力。卿や妃銃らには、この世界を見る 事も感じる事も出来はしない」 全ての時が止まり、静止した世界の中で唯一の存在となった王は、右手の中にある物を 転移させる。 「跪いた世界を見下ろせるのは、王である私のみ。次に世界が顔を上げた時、卿は黄金の 光に焼かれ、消滅する。もっとも、これを滅ぼした所で卿が死ぬわけでもあるまいが」 物言わぬ道化に死を告げる王騎の右手に収まるのは、彼の身長とほぼ同じ長さを持つ、 精緻な装飾が施された一振りの剣。 幅の広い刀身を納める黄金の鞘には、鏖魔が持つには不釣り合いな、母性に満ちた柔ら かな笑みを浮かべる女神が彫られており、黒一色に染められた柄から鍔にかけては、鞘の 女神の下に集う複数の天使が彫られている。 制御室の天井に描かれた絵画と酷似した情景を見せる黄金の剣を持つ王騎は、鞘からゆっ くりと刀身を引き抜く。 黄金の女神の奥から現れたのは、鞘と同じ黄金の刀身であったが、そこに描かれていた のは女神や天使といったものではなく、幅広い刀身を埋め尽くす数多の文字。 全ての勝利は我が下へ集まり 全ての敗北は我が下を去り行く 全ての栄光は我が身に収まり 全ての恥辱は我が身から遠のく 我は、倒し、進み、征服する者 我は、永遠の繁栄と安息を約束する者 敬い、畏れ、頭を垂れよ 我が胸の内で眠る者には、果てぬ楽園を授けよう 我が前に立つ者には、果てぬ地獄を授けよう 世の果てが訪れる、その時まで 刀身に書かれた文字の一部を謳い上げた王騎は、時の止まった世界の中、小さく笑う。 「この鏖神剣(おうじんけん)の刀身に刻まれているのは、遥か昔の人間によって謳われ た王の伝説らしいが、私には似合わんな。勝利を追い求め、敗北を認めぬなど、およそ鏖 魔の真理からは程遠い」 王騎は停止した世界を眩く照らす黄金の刀身をダークラウンに向ける。 刀身はそれなりの長さを持ってはいるが、円卓を挟んだ道化に届かせるには、あまりに 短い。 にも関わらず、王騎は一歩も動く事無く、まるで素振りをするように軽く右手を振り上 げる。 空を切る鋭い音は響くものの、当然、黄金の刀身はダークラウンを斬る事は出来ない。 あくまで、王騎の手に収まる「それ」が普通の剣であったなら、の話ではあるが。 下から上へ、三日月の軌跡を描いて振られた鏖神剣から、その軌道と同じ形の黄金の光 が生まれ、正面に立つダークラウンへと走り、彼に接触した瞬間に動きを止める。 「王の威光に焼かれ、消滅するといい」 そして、鏖神剣を鞘に収めた直後、世界は再び動き始める。 時間を刻み始めた世界の中で生まれたのは、鏖神剣の光によって、その身を塵へと変え ていくダークラウンの姿と、それに一瞬遅れて出現した多数の銃器に、王騎の正面で展開 する青い光の壁であった。 「これは……超刻界を」 「時間、止まったね」 自分の知覚外で起こった異常の意味を気付いた二人の鏖魔は、鏖神剣を転移させ、円卓 に腰を下ろす主の姿を見る。 「卿らの働き、感謝する。だが、客人を送る役目を他人に任せる訳にもいくまい」 時を止め、破壊の光を放った直後とは思えない、普段と全く変わらない様子の王騎は、 ダークラウンの残した写真とチラシを手に取る。 「勇者にワンダラーズといったか。『至高の一滴』、完成は近いやも知れんな」 時を制する王の言葉は、世界の狭間を行く船の中で静かに溶けた。