アメリカ大陸と日本の間に広がる太平洋の上空。 この世の全てを受け入れ、許してくれそうな青い空の下を、思い思いの速度で飛んでい く海鳥達の遥か上を行くのは、それらを圧倒する巨体を有する、鋼鉄の巨鳥。 大きく膨らんだ胴体部を持つその巨鳥――アメリカ軍の鋼騎輸送機「ビッグバード」―― は、空の青に負けじと己を主張する深い緑に染められた巨体を悠々と浮かべながら、目的 地へと進行していく。 「こちらショーン。本機とその周囲に異常無し。引き続き、接近を行います」 『了解。警戒を怠らず、任務を続行されたし』 厳つい顔に刻まれた皺と傷が経歴を物語る、老齢の白人機長は、遮るものの無い空を見 ながら、もはや遥か後方となった基地との定時通信を終え、ため息と共にシートに深く腰 掛ける。 「やはり、このまま続行ですか……」 大きく息を吐く機長に声をかけるのは、隣のシートに座るスキンヘッドの黒人男性。 「この任務、自分にはどうしても納得できませんよ。どうして、こんな無謀な事が平然と まかり通ってしまうのか」 機長の半分の年齢にも満たないであろう彼は、顔全体で苦渋を表現しながら、基地を出 発してから何度目になるか分からない不満をこぼす。 「大体、上は本当にこれが成功すると思っているのですか? これは作戦というより、も はやただの」 「そこまでだ」 どこまでも続きそうな黒人副機長の不満を遮った機長は、皺が深く刻まれた顔をしかめ ながら、各種計器に目を通す。 「これが任務と呼べるものではない事くらい、誰だって知っている。もちろん、お偉いさ んは、これが上手くいくなんて夢にも思っていないだろうさ」 多少風が強い他に気象と機体に異常が無い事を再確認しながら、ただな、と言葉を続け る。 「それでも、この作戦に価値を見出す連中がいる事は確かだ。……それにな」 身を傾け、視線を後方へと向ける機長。 「何よりも、奴の心が、この作戦を成立させているのさ」 そう苦々しく言い放つ機長、ショーン・マクワイルドの視線の先に人の姿は無い。 「ケイン・ルーカス中尉の心、ですか」 機長の視線の先、鋼騎の格納スペースにいるであろう、今回の作戦の立案者であり最重 要人物でもあるフェンサーの名を口にする副機長の声に、わずかな疑問の色が浮かぶ。 ケイン・ルーカスといえば、世界一の規模を誇る米軍の鋼騎部隊の中でも相当の実力を 誇るフェンサーであり、将来を有望視されている若き士官である。 その若き士官と、執念という単語が容易に結びつかない副機長は、これ以上の言葉を紡 ぐ事無く、視線で機長へと回答を要求する。 「そうだな、お前にも話しておくか」 他人の事情を本人の許可無く話す事に一瞬の躊躇いを見せた機長だが、小さく頷いた後、 静かに口を開く。 「以前、創世島でリョウガに敗れたヴァルキリーの部隊を覚えているか?」 「はい。カリフォルニアの基地から見ていました」 自国の開発した最新鋭の鋼騎五機が、五年前に開発された鋼騎一機を前に成す術も無く 葬られた夜の事は、軍人である自分のみならず、アメリカ国民全てにとっての悪夢として、 それぞれの胸に刻まれている。 それは機長も同じであるらしく、自らが発した言葉に対し、老いた顔が苦悶に歪む様子 は、副機長の目にも明らかであった。 自分の表情の変化を副機長に気付かれたのが気まずかったのか、機長は必要以上に大き な咳払いをし、言葉を続ける。 「あの部隊を率いていたフェンサー、スティーブ・グリーンフィールド中尉は、ルーカス 中尉にとって、学生時代からの親友だそうだ」 「という事は、今回の任務はルーカス中尉の復讐、という事ですか」 「それもあるだろうが」 言葉を切って周囲を目視し、異常が無い事を自身の目で確認した機長は、計器類にも目 を通し、通信がオフになっている事を確かめた上で、声のトーンを一段と低くする。 「創世島でのグリーンフィールド中尉の発言が問題になっている事は、お前も知っている だろう」 「……はい」 そのトーンと内容から、機長の意図を半ば汲み取った副機長は、自らも表情を硬くし、 静かに答える。 「あの勇者、リョウガを悪魔に変えてしまった、アマネ博士の一件の責任が我が国にある と認める事となった、あの発言は世界中に広がってしまった」 他者に聞かれる心配の無い空間で淡々と語られる事実は、副機長ならずとも、世界の誰 もが知っている事である。 『アマネ博士の死の責任が全て我が国にあるというのは事実だ。その事に関しては、どれ だけの謝罪を重ねようと許されるものではないと理解している』 ヴァルキリー部隊を率いていたフェンサー、スティーブ・グリーンフィールド中尉が創 世島で発したこの言葉は、アメリカの公的機関に属する人間が、初めて五年前の事件での 非を認める証言であった。 咬牙王の生みの親にして、月守凌牙の恋人であった天才技術者、天音静流や彼女の両親 を始めとした多くの人命が失われた五年前の事件。 この件に関する責任がアメリカにある事は誰の目にも明らかであったが、アメリカ側は 一切の非を認めようとせず、自らを批難する者を逆に批難さえした。 その中で告げられた中尉の言葉は、例えそれが現場の一兵士のものであったとしても、 世界を揺るがすに十分以上の力を持っているという事は、想像に難くない。 結果、その発言を根拠に五年前の事件を追求する動きが各国で始まり、アメリカ政府は、 あの「失言」は国の公的な見解とは全く異なるもの、という主張を声高に掲げながら、各 国からの追求の手を逃れる術を模索している。 それと同時に、政府高官の間では、もう一つの問題が持ち上がっていた。 国家の歴史に残るほどの「失言」をした中尉は、部下や上官のブラウン中佐と共に既に 他界しており、また、彼には身寄りもいないため、一連の騒動に対する処罰と怒りの行き 先が曖昧なままになってしまっているのだ。 そこで、せめてもの処罰として下されたのは、中尉の戸籍を始めとする個人情報のこと ごとくを抹消し、スティーブ・グリーンフィールドという人間を始めから「いなかった」 事にする、というものであった。 「だが、情報は消せても、人の記憶まで消す方法など有りはしない」 誰もが知っている真実を口にしたばかりに、存在そのものを否定された中尉を、同じ軍 人として哀れに思いながら、機長は再度、後方へと視線を投げかける。 「誰も志願するはずの無い、この無謀な作戦に志願した時、ルーカス中尉は上に、ある条 件を提示したそうだ」 後方の鋼騎格納スペースで、愛機と共に待機しているであろう中尉の姿を想像しながら、 機長は、視線を正面に戻す。 鳥達よりも遥か高い空を飛ぶ機体の周囲には、相変わらず何も存在しない。 「この作戦が成功したなら、グリーンフィールド中尉の存在を改めて認め、国家のために 戦った勇士として、墓を建てる事を許可してほしいと、そう言ったんだよ」 「……」 初めて聞かされる今回の作戦の背景に、副機長は返す言葉を失う。 生存率が限りなくゼロに近いこの任務に、若きエース候補を起用するという事の意図を 掴みかねていた副機長の中で、全てが繋がっていく。 同時に、友の名誉のために死地へ身を投げ出そうという中尉に対し、自分は彼を目的地 に運ぶだけで、他に出来る事は何も無いのだという事実を噛み締める。 「自分には、何が出来るでしょうか」 我知らず、副機長の口から小さな呟きが漏れる。 それは、何かをしないと中尉の意志に押し潰されそうになる、自身の心を救ってもらい たい一心から出た、懇願にも似た呟きであった。 「我々が出来る事は、中尉を作戦領域に無事送り届ける、それだけだ」 副機長が差し出した手を振り払うかのように、機長は強い口調で現実を突きつける。 「中尉に同情するな、とは言わん。だが、我々は軍人で、これは正規の手続きを踏んだ上 で行われる、国が認めた任務だ。例えどんな内容であろうと、我々はその遂行だけを考え て行動しなければならん」 機長の口から放たれる言葉は、誰の目にも明らかな、当然過ぎる理屈であった。 だが、正当な理屈は、全ての人間を納得させるだけの力を持つとは限らない。 何としても中尉の命を救いたいと救いたいと考える副機長が口を開こうとした瞬間、彼 は気付いた。 機長の顔が、全身を蝕む苦痛に耐えるかのように歪んでいる事に。 「いいか、死地に飛び込むのも任務なら、それを見届けるのも任務だ。そして、見届ける 側の人間は、死を恐れずに化物に立ち向かう者の姿を、正しく伝える義務がある」 まるで自分に言い聞かせるように、ゆっくりと重々しく言葉を繋ぐ機長。 その脳裏に、今まで彼が軍人として過ごしてきた人生の中で幾度となく見送って来た者 達の顔が浮かんでいるのだと理解した副機長は、もはやこれ以上何も言う事が出来ず、た だ瞼を閉じて、間も無く開始される作戦の成功を祈った。 そんな彼らの心境とは無関係に、順調そのものの飛行を続けるビッグバードを遮るもの は、何も無い。 「……で、結局どうなんだよ、こいつは」 大西洋上を飛ぶビッグバードとは正反対の位置、東京湾の海面下に位置する、メタル・ ガーディアンの施設内の一室に響くのは、荒々しさを含んだ男の声。 学校の教室ほどあるスペースの中央に置かれた円形の白いテーブルを囲むのは、四人の 男女。 「まあ、聞くまでも無い、って気もするが」 自らが発した言葉の返事を待たずに発言を続けたのは、ノーネクタイのグレーのスーツ を身に着けた、獣のような攻撃性を宿した顔の男、この組織の長、真島烈であった。 「ああ。これは、作戦と呼べる代物じゃあないよ」 烈の言葉に続くのは、汚れの目立つ緑の作業着を着た、大柄な体躯の男。 地下組織の構成員にしては珍しく、日に焼けた顔をしかめながら、男、メタルガーディ アンの整備班の主任、大熊鉄男はテーブルの上に置かれた書類に再度目を通し、その内容 の無謀さに、ため息をつく。 「超高出力の増設ブースターを装着した鋼騎を敵地に突入させ、反撃の時間を与える前に 制圧する。……基本的には、二年前の中東戦線で行われた、シャラディーヤ基地制圧作戦、 いわゆる『火竜の息吹(サラマンダー・アタック)』と同じやけど、今回のは、いくらな んでも無茶すぎて話にならへん」 鉄男の言葉を引き継いだのは、同じく汚れの目立つ作業着に身を包んだ、茶のポニーテー ルの女性、篠原早希。 「やっぱり、そうだろうな」 自らの予想と何も違わない返事が返って来た事に、烈は晴れない表情のまま、他の者と 同じく、手元に置かれた書類に再度目を通す。 アメリカ側から今回の作戦の通達があったのが一時間前であり、作戦の概要といくつか の資料が送られてきたのが三十分ほど前、そして、作戦の実行が一時間後という状況の中、 烈は状況の確認と意見を求めるため、整備班のトップ二人を招集したが、やはりこの作戦 が無謀に過ぎるという事だけが確認できただけであった。 「何だって連中は、こんな馬鹿げた真似をしやがる」 「明確な目的は二つ、でしょうね」 独白に近い烈の言葉に反応したのは、ベージュのスーツを身に着けた金髪の女性、ソフィ アであった。 「一つは、本拠地に敵が単機で近付いた時、鏖魔がどういう反応を示すのか」 左の人指し指を立て、手で数字の「一」を示したソフィアは、その指で書類に書かれた 文字をなぞる。 「空に浮かぶあの戦艦に航空戦力を集中させた事は、この二十年間で五回。けれど、その 全ては失敗に終わっている。あの戦艦が忽然と姿を消すという結末で、ね」 ソフィアの言葉の内容は、この場にいる誰もが知っている。 二十年前から変わらず、無防備な状態で空中に浮かぶ鏖魔の本拠地、黒刃に対し、人類 は自らの持つ航空戦力を集中させ、これを撃破するという作戦を実行に移してきた。 だが、攻撃を加える直前に、黒刃は鎧鏖鬼と同じような黒い霧となって姿を消し、人類 の目的を阻み続けてきたのだ。 「けど、鏖魔というものが知性のある人間に近い生物で、彼らが決闘を好む性質という事 を考慮すれば、多数による攻撃で無く、単機による突撃を試す価値はあると、そう判断し たのでしょうね」 自分の言葉が伝わっている事を確認したソフィアは、左手の中指を立てる。 「もう一つは、単純に自分達の技術の実験。この作戦の結果がどうであれ、この資料に書 かれたスペックを実現できるなら、アメリカは世界に対して優位に立っているのだと示す 事が出来るでしょうから」 その言葉に、同じ事を思っていた技術者二人が頷く。 「恐らく、この作戦は失敗を前提に作られているわ。鏖魔を標的とした、実戦形式のデモ ンストレーション、というのが正確な表現かもしれないわね」 ソフィアの言葉が終わり、室内に沈黙が訪れる。 誰も喋ろうとしない部屋の中、時計の秒針が刻む音だけが大きく反響する。 「それにしても」 しばらく続いた沈黙を破ったのは、早希の言葉であった。 「なんで、よりによって、この機体を使うんや……」 十数枚に及ぶ資料の中、早希の視線は、何枚かの写真が貼り付けられた頁で止まってい た。 その写真は、今回の作戦を実行するフェンサーと、使用するブースター、そして、その ブースターが取りつけられた鋼騎のものであった。 極限にまで削られた鋭角的な空色の装甲と、それに合わせた細く洗練された四肢は、お よそ戦闘に向いているようには見えない。 だが、鋭く洗練されたその姿は、芸術品を思わせる美しささえ感じられる、他の鋼騎と は一線を画すものであった。 「どうした早希?」 早希の視線にこもる感情に気付いた烈が声をかけるが、 「……あかん。ウチ、抜けさせてもらうわ」 何度か小さく頭を左右に振った早希は、誰とも視線を合わせる事無く、足早に部屋を出 る。 「すまん、早希には後できつく言っておく」 部下の突然の退出に、鉄男は深く頭を下げる。 「別に構やしねえが、一体、早希はどうしちまったんだ?」 「ああ、恐らくはこいつだよ」 鉄男は資料をめくり、早希の凝視していた箇所を指で示す。 「ライトニング・ストライク、って名前なのか、こいつは」 空色の装甲に包まれた鋼騎の写真に添えられた機体名を読み上げる烈。 「こいつは戦闘用じゃない、世界最速を目指し、空を飛ぶために生まれた鋼騎なんだ。そ して、早希の夢を形にした鋼騎でもある」 ――ああ、やってしもうたなぁ 逃げるように部屋を飛び出して間も無く、早希は自分のとった行動の軽率さを後悔し、 廊下に立ち尽くしていた。 戻ろうかとも思うが、自分から飛び出した手前、すぐに戻るのは気が引けてしまう。 かといって、格納庫に戻って聖炎凰の整備が出来る精神状態でも無い。 結局、何をする事も無い中途半端な状態のまま、早希は廊下の壁に背を預け、そのまま 身体を下にずらし、床に尻を着ける。 「ほんまに、かなわんわ」 顔を上に向けた早希は、どうにもならない感情を外へ押し出そうと、大きく息を吐くが、 当然。そんな事で気分は変わらない。 「早希さん、何かありましたか?」 いつまでこのままでいるのだろうか、と思案していた所に掛けられた声へと振り返った 早希の視界に映ったのは、 「……悠羽、あんた、なんちゅうカッコしてるんや」 「こ、これにはちょっと事情がありまして」 そう言って恥ずかしそうに身を捩じらせる悠羽が身に着けているのは、どこかの学校の 夏服であろう半袖のセーラー服であった。 白を基調とし、白のラインが入った紺の襟に、えんじ色のスカーフという、今や古風と さえ思えるデザインのセーラー服だが、襟と同じ紺のスカートだけは、最近の女子高生の スタイルに合わせてか、非常に短くなっており、悠羽の長い足の大半が露出している。 「そないなカッコで歩いとったら、ウチの連中が大騒ぎしてまうで」 「私も普通の服が着たいんですけど、その、雪那さんが」 少しでも激しい動きをすれば下着が見えてしまうであろう短さのスカートを、左手で懸 命に押さえながら、悠羽は周囲を警戒するように、視線を左右に巡らせる。 「相変わらず、セッちゃんの着せ替え人形になってるんか?」 周囲に雪那の姿と気配が無い事を確認した悠羽は、スカートを気にしながらも、早希の 横に腰を下ろす。 悠羽が鏖魔の一人、戯弾を打ち倒してから約一ヶ月、彼女は記憶喪失の鏖魔、雪那と共 に日々の特訓に励み続けている。 それと同時に、雪那との距離は近付いていく一方であり、近頃では姉妹というよりも、 もはや恋人であるかのような関係になっている。 「最近、ずっとこんな調子で……雪那さん、ひどいです」 そう言って頬を膨らませる悠羽だが、その言葉に雪那を批難するような響きは一切含ま れていない。 「そら、難儀やなぁ」 「そうなんですよ。まったく、雪那さんは困った人ですよ」 早希の言葉を肯定する悠羽だが、その口元がわずかに恥ずかしそうに釣り上がっている 事が、彼女の感情を何よりも物語っている。 「早希さんは、ここで何を?」 「ウチか? ウチは……まあ、サボりってとこやな」 問われ、改めて自身の状況を見直した早希は、渇いた笑みで応える。 「ちょっと気に入らん事があってな、逃げてしまったんよ。ええ歳した人間のやる事とちゃ うんやけど、どうも辛抱できなくなって……情けない話やろ?」 最後の問いに、悠羽は肯定も否定もしない。 どう反応したとしても、早希にとって最良の回答にはならないと感じているのだ。 「いいですよ、早希さん。私でよければ、話して下さい」 代わりに悠羽は、早希の目を見据え、静かに言葉を生み出す。 その言葉に、早希は自分が安易に同情と慰めを求めようとしていた事を理解し、それを 恥じると共に、自分の胸の内に溜まったものを打ち明け始める。 「悠羽は、ライトニング・ストライクって鋼騎、知ってる?」 「いえ、初めて聞く名前です」 フェンサーという職業柄、鋼騎に関しての知識は人並以上にある悠羽だが、その中に、 早希の告げた名は入っていない。 「ライトニング・ストライクは、米軍の中で立ち上がった『ウィング・プラン』って計画 の中で生まれた機体でな。戦うためじゃなく、ただ鋼騎の性能の限界に挑戦して、戦闘機 並みの速度での空を飛ばそう、って考えの中で造られたんよ」 話しながら、世界最速を目指す鋼騎の勇姿を浮かべているのか、早希の表情が晴れやか なものになっていく。 「鋼騎が、空を飛ぶ……?」 対して、悠羽は早希の言葉をうまく飲み込めず、不思議そうな顔で隣の技術者を覗きこ む。 ヒトという生物が空を飛ぶための構造を備えていないように、ヒトの形を模した鋼騎も また、空を飛ぶには不向きであるという事は自明の理である。 そのため、鏖魔との戦いという本来の用途を外れ、世界中の戦場の最前線に立つ鋼騎を 最大限に発揮させるため、制空権の確保は至上の命題であり、鋼騎という新兵器の登場後 も、空を制するための戦闘機は共に進歩を続けてきた。 二十年前に比べ、高出力・高機動化が飛躍的に進んだとはいえ、戦闘機並みどころか、 単独での飛行そのものが実現できていない現状を考えると、早希の話す内容は、夢物語と 大差ないようにも思える。 だが、その現実を悠羽よりも遥かに理解しているであろう早希は、先ほどまでとは全く 異なる、無邪気なまでの笑みを浮かべ、最新鋭の鋼騎に乗るフェンサーに言葉を続ける。 「まだ戦闘機には遠い段階なんやけどね。それでも、軽量化を重ねた機体に、超高出力の エンジンを載せて、ようやく鋼騎の単独飛行が見えてきた、って所なんやで。ウチのパソ コンに映像あるから、今度一緒に見てみよか。それでな……」 自身には一切関わりの無い鋼騎の話でありながら、早希は、まるで自分が毎日整備して いる機体であるかのように、嬉々として言葉を続けていく。 ――本当に、鋼騎が好きなんですね 大袈裟なまでの手振りを加え、ライトニング・ストライクという鋼騎の持つ性能と可能 性を語る早希を見る悠羽は、彼女の持つ鋼騎に対する熱意を改めて感じ取る。 長い付き合いの中、悠羽は早希の様々な姿や表情を見てきたが、彼女が最も輝くのは、 鋼騎に関する事をしている時だというのは、いつの時も変わらない。 軽騎の存在もあって、作業自体は格段に楽で安全になったが、それでも力仕事が多く、 怪我を負う危険の高い仕事のため、鋼騎の整備士として活躍する女性は少ないが、早希は 誰よりも熱心に、真摯に鋼騎と向かい合っている。 「……って事なんやけど、すごいやろ?」 話がひと段落つき、言葉を止めた早希に、悠羽は小さな頷きで返す。 内容の所々が専門的過ぎたため、フェンサーの知識では追いつかない所もあったが、話 の八割以上は理解できている。 いかに戦闘を考慮しない設計とはいえ、最新の技術を駆使し、余計な武器や機能を持た ずに機動性の向上に努めた聖炎凰を凌ぐ機動性を有する鋼騎というものがどれほど驚異的 か、それは悠羽にも十分に伝わっている。 そこまで高機動化が進んでしまうと、それを駆るフェンサーに相当の技量が要求される 事になるが、世界には自分の想像できないようなフェンサーがいるのだろうと、悠羽はま だ見ぬ鋼騎の乗り手に敬意を抱く。 「でもな」 早希の声が、一気に落ち込む。 「今回の作戦、ライトニング・ストライクを使ってやるそうや」 声と同時に表情も硬くなった早希は、己の顔を見られまいと俯く。 「作戦の内容から考えて、超高機動型のライトニング・ストライクを使うのは分かるし、 ウチが何を言っても仕方ないのも分かる。けど、ウチは、あれが戦う所なんて、見たく ない」 胸の奥に溜まった感情を少しずつ切り分けて吐き出すように、ゆっくりと言葉を繋げて いく早希の声が、人気の無い廊下に響く。 「ライトニング・ストライクが空を飛ぼうとするのは、鏖魔との戦闘よりも、人間同士の 戦争に利用する技術のためなんは知ってるけど、それでも、一機くらい、戦闘とは無縁の 世界で、思いっ切り空を飛ぶ機体があってもええと、そう、思ってたんやけどね」 鏖魔を倒すための兵器から、人を殺すための兵器に変わりつつある鋼騎に触れ続ける早 希の偽らざる想いが、多くの言葉とわずかな涙になって空気に混ざり、溶ける。 「ウチな、小っちゃい時から鋼騎が空を飛んだらええな、って思ってたんよ。戦うためや なくて、ただ、鋼騎で空を飛んだら気持ちええやろな、ってくらいの考えやったけど」 おかしいやろ? と早希は小さな自嘲の笑みをこぼす。 「だから、ライトニング・ストライクの話を聞いた時はめっちゃ嬉しかったし、機会があ れば触ってみたい、って思ってた。ウチは何もしてないけど、それでも、ウチの夢が、海 の向こうで叶いそうやったのに……」 言葉の最後は、もはや聞きとる事が難しいほどに、掠れたものになっていた。 悠羽から完全に顔を隠すため、更に身を丸めた早希だが、小刻みに震えている背が、自 分の今の状態を何よりも明確に伝えてしまっている。 普段は決して見せる事の無い早希の姿を目の当たりにした悠羽は、彼女にかけるべき言 葉を探すが、どんな言葉でも彼女の心を癒やす事が出来ないのだと分かっているために、 ただの一言も発する事も出来ず、ただ早希の震える背を見る事しか出来なかった。 『各員に通達。間も無く、米軍の作戦開始時刻です。それに伴い、作戦終了時まで地表へ の外出が禁止になります。現在地表部に出ている者は、速やかに退避をお願いします。繰 り返します……』 悠羽と早希の間に空いた空白を埋めるかのように、オペレーターの放送が、地表を含む 施設の全域に響き渡る。 「……」 「早希、さん……?」 放送に合わせるように無言で立ちあがった早希は、悠羽の言葉に返事を返さず、力の無 い足取りで歩き始める。 「ごめんな、悠羽。ウチ、ちょっとアカンみたいやわ」 数歩歩いた所で、悠羽に背を向けたまま普段からは考えられないほどに弱々しい言葉を こぼした早希は、そのまま力の無い歩みを再開する。 その小さな背中に、悠羽はやはり何も言う事ができなかった。 一瞬だけ意識がブラックアウトした後、普段よりも遥かに高い場所からの視界が確保さ れる。 続いて聴覚を己のものとし、間も無く足の裏に硬い床の感触が伝わる。 鋼の肉体との合一に要した時間は、およそ一秒ほど。 「こちらケイン。ライトニング・ストライクの起動を確認」 鋼騎との合一を示す、外部スピーカーを通しての声を届けたケイン・ルーカス中尉は、 起動と同時に自動で展開する内部のスキャンとチェックを確認しながら、空色の装甲に包 まれた、鋼騎としては細すぎる手足を軽く動かす。 作戦遂行にのために緊急的な改良を加えてはいるが、それでも戦闘を行うには程遠い性 能の手足は、ケインに通常の鋼騎のような力強さを与えてくれない。 細くしなやかな形状の手足は、見た目こそ美しいが、そこに付与された力は、やはり見 た目通りのものでしかない。 手足だけでなく、高速機動を行うための最低限の装甲しか与えられていない胴体部は、 対鋼騎用の兵器でなくとも容易に破壊されるであろう事は間違いない。 通常の鋼騎とは全く異なる感覚も、しかしこの機体に普段から搭乗しているケインにとっ ては既に馴染みのものであった。 鋼騎の単独飛行を目的としたプロジェクト、『ウィング・プラン』のテストパイロット に抜擢された若きエース候補は、既に自らの手足として乗りこなしている試作機の調子を 一通り確認し終え、機体に問題が無い事に小さく頷く。 同時に、内部のスキャンとチェックも終了し、ケインと同様の判断を下す。 「機体に問題は無い。作戦は予定通りに行う」 遥か眼下でこちらの様子を伺っていた十数名の整備士たちに向かって、極力感情を排し、 代わりに有無を言わさぬ力強さを声に乗せる。 自分達の整備した機体が順調に機動した事に、いずれもベテランの技術者達は安堵の表 情よりも、躊躇いの色を強くする。 この作戦が無事に成功し、ケインが快心の笑顔で帰還する事などあるはずもないと、誰 もが理解している。 故に、ライトニング・ストライクの起動成功は、彼の人生を終える道へと続く扉を開く 事と同義であった。 仮にここで機体が起動せず、作戦の遂行が不可能な状態になれば、少なくとも今日、ケ インの命が失われる事は無かったであろう。 だが、プロジェクトの成功を目指して共に過ごしてきた仲間であるケインの強い意志を 曲げる事を、誰もしようとはしなかった。 例え、それが中尉の命を奪う結果になったとしても。 あるいは、彼らの中に存在する技術者としての確固たる誇りが、故意な整備不良を拒ん だという側面もあったのかもしれない。 どのような要素が絡んだにせよ、結果としてライトニング・ストライクは起動し、ケイ ンにとって、亡き友の名誉を取り戻すための作戦は予定通り実行される。 ――本当に、すまない プロジェクトのメンバーとして、一人の人間として互いに認め合い、酒を酌み交わしな がら胸の内を語り合った整備士達の複雑な表情を見て、彼らの葛藤を汲み取ったケインは、 完璧に仕上げられた愛機に、彼らが自分の意志を尊重してくれた事に感謝し、同時に、自 分の私情で、己の命だけでなく、プロジェクトの結晶であるこの機体までも死なせてしま う事に、心の底からの謝罪を胸の内で行う。 「中尉」 後ろから聞こえるのは、ナイトUに搭乗した整備士の一人であり、ライトニング・スト ライクよりも大きな機体は、右肩に二連装の砲に似た、白く長い筒状の物を担いでいる。 三十五メートル程のサイズを有する自機よりも長大な「それ」を担いだままライトニン グ・ストライクの背に接近し、「それ」の先端部に備えられた鉤爪状の接合部をライトニ ング・ストライクの右肩に取り付け、固定を確認。 自身の倍近い長さを有する物を取りつけられた重みで、ライトニング・ストライクは後 ろに倒れそうになるが、同時にふくらはぎの部分から転倒防止用の脚が展開し、機体を支 える。 危うい均衡を保つ空色の鋼騎を不安げに見守る仲間を眼下に、ナイトUに乗る整備士は 左肩にも同様の物を取り付け、手際良く固定していく。 「『ソニック・アロー』、装着完了」 両肩へ合計四本の筒――鋼騎用大型増設ブースター、「ソニック・アロー」――の装着 を終えた整備士は、ゆっくりとライトニング・ストライクから離れる。 今回の作戦の要であり、軍や政府が世界に披露したい装備の装着を背にかかる重みで認 識したケインは、機体もまたブースターを認識し、使用準備が整った事を音で伝える。 「『ソニック・アロー』の装着を確認。こちらも問題無い」 先ほどと同じく感情を極力排したケインの声が、ビッグバードの格納庫内に響く。 「こちらケイン。準備は万全だ」 『了解した』 機長との短い通信を終えたケインが仲間に送る言葉を探している間に、作戦開始を告げ るサイレンが必要以上の音量で空気を震わせる。 その音を合図に、ナイトUに乗る整備士以外の者は壁際に退避し、付近の手すりに身を 寄せる。 そして、サイレンが鳴り終わると同時に、ケインの前方――ビッグバードとしては後方 にあたる――ハッチが開き、艦内に強風が吹き荒れる。 「中尉、これを」 本体の背部スラスターをわずかに噴射させた勢いで何とか立ち上がったライトニング・ ストライクの前方に移動したナイトUは、右手に持った大型のライフルを手渡す。 ライトニング・ストライクの全長にも迫ろうかという黒の大型ライフル、「レオ・ファ ング」は、見た目通りの破壊力を誇るが、その大きさと重さ故に、高機動化が進んだ現代 の鋼騎戦では無用の長物に成り果てた代物である。 続けてナイトUから手渡されたのは、ライフルよりも長大な鋼の槌であった。 長い柄の先に長方体の箱を取り付けたような、極めてシンプルな構造の槌、「ギガント・ スマッシャー」もまた、高機動戦に付いていけず、時代に取り残された武器である。 今回の標的が巨大な空中戦艦という事と、短時間で最大限の破壊を成し遂げなければな らない、という点を考慮してケイン自身が選んだ武器が、それぞれ愛機の手に収まる。 左手にレオ・ファングを、右手にギガント・スマッシャーを携えたライトニング・スト ライクの非力な腕が、己の武器の重みに悲鳴をあげるが、この程度なら任務に支障が無い 事は事前に確認済みである。 両腕に新たな重みを得た事で、前後の重量バランスが安定したライトニング・ストライ クは、頼りない足取りで開かれたハッチを、最期の任務への入口へと向かう。 「我が友の名誉のために」 格納庫の端に到達したライトニング・ストライクはそこで一度動きを止めて振り返り、 共に空への夢を共有した仲間達を見渡す。 「そして、いつか空に愛される鋼騎が生まれる日のために」 これから死地へ赴く緊張感ではなく、一人の男としての誇りに満ちたケインの言葉に、 仲間達は皆、言葉ではなく、敬礼という形で応えた。 ナイトUを始めとして、他の者達も強風に煽られながらも片手を自由にし、それぞれ が無言の敬礼でケインを見送る。 両手が塞がっているために敬礼を返せないケインは、代わりに大きく頷いて見せると、 そのまま身を反転させ、空へと身を投げ出した。 「こちらケイン。『オペレーション・カミカゼ』を開始する」 ビッグバードが何者にも阻まれず進む空の下、鋼鉄の巨鳥が目指すモノ、空中に浮かぶ 一本の巨大な剣は、二十年前と変わらぬ姿でそこにいた。 人類が「鏖魔城」と呼び、恐怖するその空中戦艦の名は、黒刃。 異世界で生み出された生体兵器、鏖魔の拠点である。 暦の上での夏が終わっても、まだ弱まる気配の無い日光を受け止める長大な甲板の先端、 剣でいう切っ先にあたる部分に、人影が一つ。 鮮やかな青に染まった短髪と、ビジュアル系バンドのステージ衣装を思わせる、様々な 銀のアクセサリーに彩られた黒の上下を身に纏った青年の姿をした鏖魔、臥重(がじゅう) は、大の字で仰向けに寝転がり、何をする訳でもなく太陽を眺めている。 「虎強と戯弾がいなくなっちまったなぁ」 風は強いものの、雲一つない空から降り注ぐ日光を全身で浴びても汗一つかかない臥 重は、仲間と呼べる存在の最期を思い、口の端を歪ませる。 「あいつら、楽しかっただろうなぁ。全力で戦って、鏖技を使って、そうやって戦いの中 で死んでいくってのは、すげえ幸せだよ。……なあ、お前らもそう思うだろ?」 命を賭けた闘争のみを求めてやまない、鏖魔としての真理を言葉に表した臥重は、仰向 けに寝転がったまま、甲板上に現れた二つの気配に問いかける。 「その考えには概ね同意できるけど、君ほど鏖魔としての本能は強くないよ」 問いかけに応えたのは、白のスーツを着こなす、少年のような容姿をした鏖魔、終破。 「私にとって優先されるべきは、凌牙様です」 終破の言葉に続くのは、同じく白のスーツを身に着けた女性型の鏖魔、斬華。 見た目の印象と身長差から、まるで姉弟のようにも見える二人は、その高度が生み出す 強風に髪を揺らしながらも、確かな足取りで臥重の元へと歩み寄る。 「臥重は、ここで何をしていたのかな」 「別に何もしてねえよ。双滅の奴が行く時を待ってるってだけだよ……っと」 二人に見下ろされる形になった臥重は、銀のアクセサリーが幾重にも奏でる音と共に、 勢いよく立ち上がる。 「あんたらこそどうしたんだ? この世界の太陽を見たくなったのか?」 「君が眠っている間に飽きるほど見てきたから、今更珍しくもないよ」 身体をほぐしながらの臥重の問いに普段通りの微笑で応えた終破は、遥か彼方の空に人 差し指を向ける。 「人間が、この黒刃に、僕ら鏖魔に挑もうとしている」 「人間……というと、あの月守悠羽とかいう奴か?」 「残念ながら彼女じゃないみたいだけどね。もし彼女が来たのなら、斬華では無く、双滅 を呼んでいるよ」 「そういう事です。今回の敵には、私と離界刀が相手をいたします」 感情の希薄な抑揚の無い声で話す斬華は、右手の長大な深紅の鞘を、差し出すように臥 重へと向ける。 西洋の剣ではなく、日本刀のような反りのある刀身を収めるための形状をした深紅の鞘 は、二メートルを軽く超える異様な長さを有し、中身を抜かずとも、その名が示す通りの 力を備えていると分かるだけの迫力に満ちている。 「おいおい、わざわざ人間相手に離界刀を使うのかよ」 かつて、離界刀の持つ力を自身の目で確かめた経験のある臥重は、思わず呆れの声をあ げる。 「間違っても、この艦をぶった切るなよ」 「そうならないよう、努力します」 臥重の冷やかしにも律儀に頭を下げて対応した斬華は、甲板の更に先端部へと足を動か す。 やがて、約五キロという全長を誇る黒刃の先端の限界まで移動した斬華は、半歩でも踏 み外せば地上へと落下するような場所に迷う事無く立ち、正面の空を見据える。 彼女が狙う敵の姿は、未だ見えない。 だが、彼女は感じている。 自分達の視線の先、遥か彼方の空から敵がやって来る事を。 それも、以前のように数に任せた無粋な侵攻では無い。 卓越した技量を持つ戦士が、己の全てを賭して立ち向かってくるのだと。 強風の流れを読むかのように、斬華は右手の離界刀を鞘に収めたまま、ゆっくりと瞼を 閉じる。 皇魔という存在に付き従うための存在である斬華は、他の鏖魔のように、闘争を己の存 在意義として扱った事は無い。 とはいえ、一人の鏖魔として、戦闘行為を重んじる本能が無いわけではない。 故に、これから対峙するであろう人間に対して最大限の闘争を行えるよう、離界刀を手 にして、この場に臨んでいる。 閉じた視界の中、斬華は精神を集中させ、強風が吹く大気の流れを感じ、理解していく。 向かい風を超えた先にいる、敵の姿を掴み取るために。 そして、大気の壁を音を遥かに凌駕する速度で突き破り、この黒刃に牙を剥かんとする 敵の存在を感じ取った斬華は、視界を元に戻す。 「来ます。空を駆ける、鋼の稲妻が」 右手にわずかに力を込めた斬華が口にしたのは、奇しくも黒刃へと突撃をかける鋼騎の 名を正確に表したものであった。 「こちらケイン。『オペレーション・カミカゼ』を開始する」 何も支えの無い高高度の空に身を投げ出したケインは機長に通信を入れると同時に、背 に取り付けられた増設ブースター、「ソニック・アロー」を起動させる。 直後、小さな爆発のような衝撃を背に感じたケインは、急激な加速と、自機の到達した 速度の証明でもあるGの洗礼を受けながら、意識を前方に集中させる。 データの上では機体をマッハ三前後まで加速させるソニック・アローは、間も無くライ トニング・ストライクをその数字に限りなく近い領域にまで導く。 間も無く、速度を安定させたライトニング・ストライクは、機体の姿勢を制御し、空中 を駆ける稲妻としての自己を確立させる。 それは、この機体に情熱を傾けた人々の理想とは一致しないながらも、二十年にわたる 鋼騎の歴史上初めて、単独での飛行に成功した瞬間であった。 だが、歴史的偉業を成し遂げたケインの顔に、達成の笑みは無い。 安全性の問題がクリアできていない試作段階のソニック・アローは、装着した鋼騎の自 由を奪い、行動を大幅に制限させる。 そのため、音速を突破した鋼騎に許される動きは、わずかな上下の傾き程度であり、基 本的には、ただ真っ直ぐ正面を向き続けていなければならない。 ソニック・アローと機体を繋げる肩を動かす事や、身を左右に傾ける動きは特に厳禁で あり、そうした動きを行った場合、機体がどうなるのかは分からない、と、前方を見据え るケインは、作戦前に受けた注意を再度思い返す。 絶大な加速と引き換えに、ほぼ直進のみしか出来ないこの装備は、目標の位置が明確な 基地や都市への作戦を中心に数年前から一部で使用されている鋼騎用の増設ブースター、 「ラピッド・アロー」の単純なバージョンアップだが、その性能は格段に向上している。 ラピッド・アローの三倍近い限界速度に、十倍以上の使用時間。 クリアすべき問題点はあるものの、これが量産される事があれば、超音速の鋼騎による 強襲作戦が実現するのだろうと、ケインは人生で初めての速度に押し潰されそうになりな がらも、背で膨大な黒煙と炎を吐き続ける新兵器の行く末にわずかな恐怖を抱く。 ビッグバードから降りた時点で、目標との距離はおよそ三百キロ。 ソニック・アローの有効範囲が約五百キロのため、燃料切れの心配は無い。 およそ秒速一キロという速度で宙を切り裂くライトニング・ストライクの中で、ケイン は目標に到達するまでの時間で、亡き友、スティーブ・グリーンフィールドを想う。 二十年前の鏖魔の襲撃によって両親を失い、孤児となった二人は、家が近所であったた め、同じ施設で育てられた。 同じく鏖魔の襲来で親を失い、孤児になった者――後に『ロスト・チルドレン』と呼ば れる世代である――で溢れかえる施設の中で打ち解け、親友となった二人は、国の援助で 学校に通いながら、将来は鏖魔を滅ぼすために軍人になろうと誓いあった。 それから、当然のように士官学校へと進んだ二人は、共に優秀な成績で卒業し、鋼騎の フェンサーとして長年の夢であった軍人への第一歩を踏み出した。 さすがに同じ部隊に配属とはいかず、長年共に過ごしてきた親友と距離を置く事になっ たが、二人は実績を積み重ね、競うように名をあげる事で、互いの繋がりを実感していた。 いつか共に鏖魔を滅ぼす、その夢を砕いたのは、かつて鏖魔を滅ぼした勇者であった。 部下と共に新型鋼騎、ヴァルキリーを駆って悪魔となった勇者、月守凌牙に戦いを挑ん だスティーブは、部下の命を犠牲にする非情の策を展開するも、過去の勇者を倒す事は出 来ず、異国の地で果てた。 凍りついた身体を鋼騎ごと破壊されるという、無残な殺され方で。 そして、悪魔に敗れたスティーブは、国家からもう一度殺され、今ではその存在すら否 定されてしまった。 友の無念を想うケインは、沸き上がる感情に耐えるよう、強く奥歯を噛み締める。 「待っていろスティーブ」 声を置き去りにする速度の中、ケインは鋼の両手に力を込める。 「お前の無念、今日こそ晴らしてやる」 決意を固めるケインの視線の先、約五十キロ先にわずかに見えるのは、空に浮かぶ一本 の剣。 この作戦の目的地であり破壊すべき目標、鏖魔の居城、黒刃を視界に収めたケインは、 不自由な機体を制御し、わずかに機体を上へを向ける。 その動きに合わせて背も傾き、ライトニング・ストライクの軌道が直進から、わずかに 斜め上へと変わる。 つい先ほどまで米粒の様であった黒刃が、高性能カメラとリンクしたケインの視界の中 で目に見えて大きくなっていく。 黒刃まで、約三十キロ。 作戦は最終段階に入りつつあるが、敵が動く気配は無い。 ある程度の迎撃があって当然だと予想していたケインは不審に思うが、警戒を緩めよう とはせず、もはや見下ろす形となった黒刃に意識を集中する。 黒刃まで、約二十キロ。 今はケインの視覚と同義の、ライトニング・ストライクに搭載されたカメラは、黒刃の 姿を克明に捉える。 武装らしきものが一切無い船体に、剣の腹を思わせる、平らな甲板がどこまでも続く。 この大きさの戦艦を宙に浮かせるどころか、空間の壁を超える手段を持つ異世界の技術 を改めて実感したケインは、彼らの技術を解析して生み出された鋼騎で決着をつけるべく、 スティーブの事さえも一時的に思考から追い出す。 黒刃まで、約十キロ。 この時点で、ケインは背のソニック・アローを機体から切り離す。 ソニック・アローをこれ以上展開させると、黒刃を通り過ぎてしまう危険性があると判 断したためだ。 反転出来ない状態で目標を通り過ぎてしまえば、もう挽回の余地は無い。 一切のミスを許さない作戦の遂行にあたり、ケインの決断は瞬時に行われる。 分離の信号を受けた肩の接合部のロックが小さな音を立てて外れ、推力を無くし、支え を失ったソニック・アローが重力の理に従って眼下へと落ちていく。 この下は海であり、日本側へは事前の通達があるため、船舶に当たる危険性は皆無であ り、海に落ちたソニック・アローは付近に待機している部隊が速やかに回収する手筈になっ ている。 ソニック・アローを切り離したとはいえ、それまでに受けた加速が瞬時にゼロになる訳 では無く、音速を超えた速度を保ったまま、ライトニング・ストライクは背部のスラスター を全力で展開し、最後の距離を詰める。 この段階にあってもなお一切の迎撃を見せない黒刃に、ケインは敵の意図を理解しかね ていたが、カメラを通して見る敵艦の映像から、彼は一つの仮説に行き着く。 ――まさか、奴らは生身で迎え撃つ、というのか…… 以前より甲板上にて姿を捉えていた三人の鏖魔が、創世島を二度に渡って襲撃した有人 タイプの鎧鏖鬼を出して迎撃してくる、というケインの予想は、現実のものになりそうに なかった。 むしろ、自らの予想を遥かに超える展開にわずかに動揺しながらも、ケインはこの好機 を歓迎した。 鏖魔の身体能力が人間を遥かに上回るであろう事は、一ヶ月ほど前に創世島で行われた 戦闘の戦利品ともいえる、鏖魔の頭部の解析結果からも明らかである。 だが、いかに戦闘用ではないとはいえ、ライトニング・ストライクの力は人間のそれと は比較にならない。 いかに鏖魔とはいえ、生物相手に力負けなどしない。 ライトニング・ストライクが、黒刃の先端部のほぼ真上まで到達しようとも、彼らに動 きは無い。 あくまで生身で決着を着けようという鏖魔の意志の裏に罠の危険性を感じたケインは、 カメラをズームさせ、ほぼ真下に位置する鏖魔の詳細を確認する。 こちらを見上げる、白いスーツを着た中性的な美しさを持つ女性の鏖魔は、手に長い剣 のようなものを持っているが、それ以外に不審な点は無い。 彼女の後ろに控える二人の鏖魔に至っては、武器の類すら持っておらず、全てを彼女に 任せる、といった、くつろいだ表情をしている。 黒刃の真上に到達したライトニング・ストライクは、スラスターを停止させ、ソニック・ アローの束縛の無い機体を、黒刃の甲板に対し、機体の前面が水平になるように傾ける。 直後、天に向けた背から再び炎が噴き上がり、ライトニング・ストライクは黒刃に向かっ て垂直に落ちる、まさに鋼の稲妻となって襲いかかる。 「おおお!!」 ついに捉えた友の仇を前に、ケインは三体の鏖魔を仕留めるべく、咆哮を大気に響かせ ながら、左手の大型ライフル、レオ・ファングを構える。 最も近い女性の鏖魔との距離は、およそ一キロ。 レオ・ファングならば、鏖魔の肉体ごと甲板の先端を抉れる距離である。 故に、照準を合わせたケインは、機体の左手を真下に伸ばし、引き金を絞る。 だが、それが果たされるよりも早く、ケインは自分の身体、ライトニング・ストライク の装甲と、ケイン・ルーカス自身の肉体に、何かが食い込む感触を抱いた。 その感触の正体が何であるかを知る前に、ケインの視界が上下にずれる。 左側の視界が、右側に比べてわずかに低くなっているのだ。 『これが、離界刀です』 通信機を通して聞こえてきた女性の声が耳に届く前に、ケインは絶命していた。 その人生の最期の瞬間、亡き友の事を想う時間さえも与えられずに。 黒刃の甲板から一キロほどの距離を経た空中で、機体ごと身体を左右に両断されるとい う結末をもって、この作戦と、彼の人生は終わりを告げた。 第十三話 ライトニング・ストライク