「もう、一体何を言い出すんですか」 低く抑えられた駆動音と、わずかな振動に包まれた金属製の密室、地下の基地内から地上 へと続くエレベーターの中、悠羽はわずかに乱れた息を整える。 「あんなに盛り上がるなんて思わなかったけどね」 人だけでなく、鋼騎用の資材を運ぶ用途もあるため、それなりに広い空間を持つエレベー ターの中、悠羽の声に応えたのは、純白の髪の鏖魔、雪那。 『だから、アタシと悠羽は、恋人同士なの』 格納庫内で雪那が放った発言は、その場を一瞬にして狂乱の渦に陥れ、早希を始めとする 技術者達は、王を倒さんとする革命の徒さながらの勢いを持った暴徒と化した。 それぞれが言葉にならない奇声を発し、意味も無く暴れ回る、新種の暗黒儀式のような騒 動の中心から抜け出した二人は、地獄の釜の底になりつつある格納庫から、地上へと向かう べくエレベーターに乗り込んだのだ。 「それにしても、さ」 二人では持て余す広さの空間の中、雪那は先ほどの出来事を思い出し、口元を綻ばせる。 「やっぱり、何だか懐かしい、って感じがする」 「懐かしい、ですか?」 雪那の言葉が示すものを理解出来ない悠羽に、雪那は、そ、と返す。 「アタシ、悠羽だけじゃなくて、早希や他の皆とも、初めて会った気がしないんだ。人だけ じゃない。この島そのものが、どこか懐かしいよ」 そう言って、エレベーターの中に流れる空気の味を確かめるように、大きな呼吸を重ねた 雪那は、自分達が目指す方向へと視線を向ける。 「それに、アタシの中の感覚が確かなら」 紅の瞳を上に向け、無機質な天井の更に向こう側を見据える雪那は、口元に浮かんでいた 笑みを消す。 「この先には、あれがある」 笑みが消え、冷たさと鋭さを宿した雪那の横顔を見る悠羽は、背筋が凍りそうなその美貌 の奥に、彼女とは違う者の姿を見た。 ――兄さん もはや血の繋がりさえも失ってしまった兄、凌牙の顔が、悠羽の脳裏に浮かぶ。 五年前、最愛の女性を失った悲しみと絶望を復讐の糧に変え、人間の肉体を捨ててまで人 類の抹殺を誓った、かつての勇者。 以前、直接対峙し、五年という時間を経て更に膨れ上がった狂気をその身で体感し、圧倒 的なまでの力量差を見せつけられてもなお、悠羽にとって、凌牙は唯一の肉親である事に変 わりは無い。 そのためであろうか、悠羽の胸に浮かぶ凌牙の顔は、人類の勇者として戦っていた頃に見 せていた、穏やかな笑みである。 ――でも、どうして、雪那さんを見て…… 在りし日の兄を追想していた悠羽は、ふと我に返り、彼女が目覚めてから幾度となく繰り 返してきた疑問を、再度自身に投げかける。 だが、それに対する答えは出るはずも無い。 結局、全ては彼女の記憶が戻るまで気長に待つしかないのだと、悠羽は自身を納得させる ための結論を導く。 自身の内側を悟られぬよう、雪那から顔を背けようとした悠羽だが、それよりも早く、エ レベーターが停止し、到着を知らせる短い電子音が二人の間に流れる。 「到着だね」 雪那の言葉を合図にするようにエレベーターの扉が左右に開き、二人の眼前に、一面を芝 生に覆われた創世島の地表が広がる。 同時に、真夏の太陽が放つ強烈な光と熱気が二人に襲いかかる。 「うわ、暑いなぁ」 エレベーターから外へと一歩踏み出した雪那は、肌を焼く日光に目を細め、右手を頭上に かざして、容赦の無い陽射しの中、足を動かす。 「で」 時折吹く風に腰よりも長い純白の髪を揺らしながら、雪那は後ろを振り向く。 「悠羽はいつになったら外に出てくるのかな?」 呆れた表情で振り返る雪那の先に、 「だ、だって……」 自動で閉まろうとしている扉に手をかけ、半分だけ顔を出してこちらを伺う悠羽の姿があっ た。 「私、ずっと地下で生活してましたから、こんな強い日差しとか、ちょっと……」 「ああ、もう、何言ってるの。モグラじゃないんだからさ」 いつまでもエレベーターから出ようとしない悠羽を見た雪那は、自分が歩いてきた道を引 き返し、悠羽の腕を強引に掴むと、そのまま彼女を外へと引っ張り出す。 「ほら、しっかり歩く」 「暑いです……。溶けちゃいます……。お嫁に行けません……」 「お嫁は関係無いから。風も吹いて気持ち良いじゃない」 「うぅ……」 普段とは違い、生気を失った頼りない足取りで、半ば雪那に引き摺られる形で芝生の上を 歩く悠羽は、力と熱のこもらない視線を周囲へと泳がせる。 広大な海を挟み、遥か彼方に東京の街並みを臨む創世島は、当初から鏖魔の襲撃を想定し ていたために、地表には一切の施設を配していないが、その中でも、場所による区分は行わ れている。 上空から見ると、ラグビーボールに似た形に見える創世島の中、北側は鋼騎の演習場、南 側は公園として機能している。 現在、悠羽達は島の南端に近い場所を歩いているため、その足下には芝生が生い茂ってい るが、北側は鋼騎が活動する場のため、草のない土と砂に覆われた大地になっている。 咬牙王やヴァルキリー、砕剛鬼や炎皇鬼との戦いは全て島の北側で行われたため、数々の 戦闘の後にも関わらず生い茂る芝生を力無く歩く悠羽は、自分の手を引く雪那の視線が、あ る一点に注がれている事に気付く。 「やっぱり、ここにあった」 悠羽が視線の意味を問いかけようとする直前、雪那の口から静かな言葉が漏れる。 古い友人に偶然再会した時のような、嬉しさを伴った懐かしさと、過ぎ去った過去に対す る悔恨の念を等しく織り交ぜた声と、それと同じ表情を浮かべた雪那は、悠羽から手を離し、 一人で足を前に動かす。 その身が鏖魔であるためか、夏の日差しを受けても汗一つかかない雪那の足が向かう先に あるのは、一本の大きな桜の木と、一つの人工物。 数ヶ月前に花を散らした桜の木に寄り添うように立てられた「それ」は、石を切って作ら れた白の十字架であった。 一メートルほどの高さを持つ石の十字架は、一流の職人が最新の設備を用いて切り出し たかのように精緻なものであり、桜の木陰の中で自己の存在を主張する白は、作られてから の時間を感じさせない、行き届いた手入れの証明である。 雪那は知らない。 この十字架が、絶望に身を焼かれた一人の男の、卓越した体術によって作られたものであ るという事を。 だが、彼女は本能より深い己の根幹の部分で感じている。 この十字架が、誰を想って作られたのかを。 「やっと」 目覚めてすぐに見た、夢にも似た映像と重なる風景を前に、雪那の口が言葉を刻む。 あの映像には無かった、白い十字架に向けて。 「やっと会えたね」 物言わぬ十字架に向かい、返る事の無い言葉を重ねる雪那は、地面に膝を着き、静かにそ れを抱き締める。 まるで、長い時間を経て再会した恋人を抱擁するかのように。 「雪那さん」 全てを忘れ、桜の木の下で十字架を抱き締める雪那の背に、悠羽の言葉がかかる。 「それが、誰のお墓なのか、知っているのですか?」 「分からない」 悠羽に背を向けたまま、雪那はどこか現実味の無い声を返す。 「でも、アタシには分かる」 白い石の質感を確かめるように、優しく十字架に手を添える雪那。 「これも、アタシが失った、大事な部分なんだって。きっと、悠羽と同じくらいに」 名残惜しそうに十字架から手を離して立ち上がった雪那は、服に付いた汚れを払いながら、 木陰の中で悠羽と向き合う。 「ごめんね、待たせちゃったかな」 「いえ、大丈夫です。……それよりも」 雪那への言葉を途中で止めた悠羽は、自身の迷いを断ち切るために頭を小さく左右に振り、 思わず出そうになる言葉の続きを封じ込める。 雪那と兄を重ねて見ていた自分に、間違いは無かったという確信と共に。 どういう経緯があったのかは分からないが、雪那という鏖魔の中には、自分の兄である月 守凌牙の記憶や意識が確かに存在している。 そうでなければ、この墓にここまでの反応は示さない。 凌牙が、自身の最愛の女性、天音静流の死後、彼女を想って作った、この墓に対して。 様々な人間の欲望と悪意に満ちた策略の果てに命を落とした静流の遺体は、もはや回収が 不可能な状態であったため、彼女の身体はここに眠ってはいない。 代わりに眠っているのは、二人の愛の証である、一組の指輪。 本来ならば結婚式で交換するはずだった指輪を土に埋めた時の凌牙の表情を、悠羽は生涯 忘れる事は無い。 「いえ、やっぱり何でもありません」 「そっか」 迷いを見せる悠羽を追求しようとしない雪那は、足下に転がる小石を一つ摘む。 「ここに来たからかな。少し、何かが見えたような気がする」 自分の奥底に繋がる場の空気を十分吸いこみ、雪那は手にした小石を悠羽の頭にそっと乗 せる。 「え? これって」 「それじゃ、お勉強の時間といこうか」 唐突に乗せられた小石を落とさぬよう、頭上に意識を注ぎながらの疑問に、雪那は大股で 悠羽との距離を取る事で応える。 「その石、落としたり取られたりしたらダメだからね」 この時点で、両者の距離は約三メートル。 「これって、兄さんの」 「いい? 取られたらダメ、だからね」 自分が置かれた状況に、かつての、兄との記憶が甦る。 『私も、兄さんといっしょがいいです』 今から遡る事、十年以上も前、まだ幼かった悠羽は、同じく、まだ少年と呼べる年齢であっ た凌牙にそう告げた。 真島流破鋼拳を体得すべく、一心不乱に鍛錬に励む兄の姿は、年の近い者のいない環境で 過ごす悠羽にとって、決して喜ばしいものではなかった。 唯一の肉親であり、最も近しい遊び相手である凌牙が離れていくのであれば、自分から近 付いていけばいい。 そんな単純すぎる結論に至った悠羽は、ある日、抱き枕代わりである、お気に入りの馬の ぬいぐるみと共に凌牙のベッドに潜り込み、眠りに就こうとしている兄の背中に、自身の想 いを告げた。 『兄さんといっしょじゃないと、さみしいです』 馬のぬいぐるみで顔を隠しながら、悠羽は自分の本心を包み隠さず言葉に変える。 『……弱ったな』 眠りに就く直前の曖昧になった意識を覚醒させる妹の言葉を背中に受け、凌牙は目を擦り ながら、悠羽を視界に収める。 『まあ、ここの所、あまり遊んでやれなかったしな』 馬のぬいぐるみを通して悠羽を見据えながら、発言の背景を汲み取った凌牙は、その罪滅 ぼしとばかりに、妹の頭を優しく撫でる。 『だがな、悠羽』 手の動きはそのままに、凌牙は声を低く、硬いものに変える。 『お前は、俺と同じ場所に立つべきじゃない』 ぬいぐるみに隠れた妹の目が見開かれるのを見ながら、凌牙は言葉を続ける。 『真島流破鋼拳、いや、そもそも格闘術というものは、突き詰めれば、効率良く人体を破壊 する為の技術でしかない。いかに鏖魔と戦うため、という名目があるにせよ、その事実に変 わりは無い』 言葉を失い、悠羽は自身の顔を完全にぬいぐるみに埋める。 『だから、お前はこんな技術を身に付けてはいけない。お前は、今のままでいれば、それで いい。これからは、もう少し遊ぶ時間を作ってやるから、な』 七つ下の妹を気遣う凌牙の声が、子守唄のように優しく響く。 だが、 『それでも、私は、兄さんといっしょがいいです……!』 『……本当に、弱ったな』 こちらの言う事を聞こうとしない悠羽に、凌牙は、自分が妹にどれだけの孤独を与えてい たのかを想う。 育ての両親である烈やソフィアを始めとして、この島には多くの人間が存在し、それぞれ が組織の一員として機能している。 だが、彼らはあくまで仕事をするために島にいるのであって、それよりも悠羽の世話をす る事が優先される事は、あってはならない。 育ての母であるソフィアや、烈の母、俊江(としえ)が積極的に悠羽の面倒を見てはいる が、それでも四六時中という訳にはいかない。 結果、友人と呼べるほどに年の近い者のいない環境下に置かれた妹が、どれほど寂しい思 いをしていたのか。 兄としての配慮に欠けていた自身の行動を自省し、これからは悠羽のための時間を少しで も多く取ろうと決めた凌牙であったが、それと妹の主張は別である、とも考える。 先ほど口にしたように、自分が体得しているのは、人体の破壊に特化した、殺人の技術に 他ならない。 特に、この真島流破鋼拳は。 代々、異常ともいえるほど筋肉質な肉体を有する真島の血族が、その肉体を最大限に生か し、波乱の世を己の身一つで渡り歩くための術として編み出された格闘術である、この破鋼 拳は、空手や柔道といった一般に広まっている武道とは、大きく違う点がある。 武道と呼ばれるものの多くが、技術だけでなく精神面での鍛錬も重視するのに対し、この 格闘術は、己の肉体で出来得る最大限の攻撃力を突き詰める事に終始する、 それが何よりの違いであった。 そして、それこそが、唯一の肉親である妹に学ばせたくない、最大の要因であった。 心を鍛えず、ただひたすらに破壊の効率を極めていくこの格闘術と相対した者は、みな一 様に吐き捨てる。 これは武術では無く、狂った魔獣そのものだ、と。 愛する妹に、魔獣の拳を学ばせたくはない、兄として当然ともいえる判断は、わずかに揺 れる事も無い。 が、一度言いだした以上、意地になって主張を押し通そうとする妹の気性は、兄である凌 牙が誰よりも理解している。 恐らく、これ以上言葉を重ねた所で、悠羽を更に意地にさせる以上の効果は無い。 ――仕方ないな 今までに幾度となく手を焼かされてきた、妹の頑固な主張に対して小さなため息をついた 凌牙は、これまでの経験から、最も効果的な対処を導き出す。 『なら、一つ勝負をしようか』 もはや眠気など完全に消え去った凌牙は、ベッドから身を起こして床に足を着けると、ま だぬいぐるみに顔を埋めている悠羽の手を引き、彼女を床に立たせる。 不意に立たされ、目を白黒させる悠羽を余所に、凌牙は部屋の隅に転がっていた砂時計を テーブルの上に置く。 『この砂時計の砂が全て落ちるまで、お前がそのぬいぐるみを持っている事ができたなら、 明日から俺と一緒に破鋼拳を習えるようにしてやる。ただし、それが出来なかった場合は、 大人しく諦める事。それでいいな?』 まだ幼い妹が一度に理解できるよう、ゆっくりと告げられた凌牙の言葉に、悠羽は小さく 頷く。 『よし、確かに約束したぞ』 自身も小さく頷いた凌牙は、砂時計を逆さに向け、悠羽との距離をとる。 その動きに合わせ、悠羽も可愛らしい足取りで凌牙から離れる。 それなりのランクのホテルを思わせる広さと内装の部屋の中、悠羽はドアの近くで、凌牙 はそれとは反対の壁の近くで、それぞれ足を止める。 一切の照明の無い部屋の中、その暗さに慣れた視界が、相手の姿をわずかに認識する。 移動の間にも止まる事無く落ちていく砂を意識しながら、悠羽は守るべき対象であるぬい ぐるみを、強く抱きしめる。 同時に、正面に立つ兄のわずかな挙動さえも見逃さないよう、目を大きく開けて、その姿 を見据える。 『では、行くぞ』 闇の中、兄の声が、静かに響く。 そして―― 「取られたらダメ、って言ったのに」 桜の葉を揺らす風のような、涼しげな声が聞こえる。 微動だにしない、悠羽の背後から。 「ま、こんな所かな」 右手の中に収めた小石を弄びながら、雪那は悠羽の正面へと戻る。 再び視界に雪那の姿を収めてもなお、悠羽は動かない。 「本当に……兄さんと、同じ……」 十年以上の時を超えて行われた過去の再現に、悠羽はただ茫然としたまま、うわ言のよう な言葉を真夏の空気に溶け込ませる。 あの時は抱き抱えたぬいぐるみ、今は頭上の小石、その違いはあれど、自分に対して行わ れた動きは、何も変わらない。 あの時と同じく、気付いた時には全てが終わっている。 『これで決まりだ』 気付かぬ間にぬいぐるみを奪い去った凌牙の言葉が、頭の中に反響する。 「あれ? 悠羽が固まっちゃった」 動かない悠羽に疑問の視線を投げかける雪那は、彼女の眼前で手を振り、その反応を確か めようとする。 「もしかして、暑さにやられちゃったかな」 「……すみません、大丈夫です」 意識を正面に戻した悠羽は、雪那が右手で転がす小石に視線を注ぐ。 凌牙が人類の敵となった後、かつての約束を反故にして真島流破鋼拳の教えを受けた今で さえも、雪那の動きを見切る事は出来なかった。 彼女の鎧鏖鬼、炎皇鬼と戦った時と同じように。 悠羽の意識が明瞭になったと確認した雪那は、自分が取った小石を見せるように、右手を 広げる。 「アタシが悠羽からこれを取った瞬間、分かった?」 問いに、悠羽は言葉の代わりに首を横に振る。 意識のいくらかを過去に取られていたとはいえ、正面に立つ相手の動きが見えない、とい うのは、異常な事だと言わざるを得ない。 「じゃ、何で悠羽はアタシの動きが分からなかったのかな」 「それは、雪那さんの動きが速すぎるから……です」 試すような紅の瞳に、わずかに心を揺さぶられつつも、悠羽は即座に思いついた理由を返 す。 「まあ、そう間違った答えじゃないかな」 風になびく純白の髪をかき上げながら、雪那は大きく後ろに下がり、先ほどと同じ程度の 距離を広げる。 「でもさ」 言葉よりも速く、空気が揺れる。 鋭く踏み込んだ足音と共に、白と黒の残像を生み出すほどの速さで迫る雪那を前に、悠羽 は瞬時の判断で右に飛び退く。 間に合うかどうか、その境界線上のタイミングで行われた回避運動に成功した悠羽の前髪 が、眼前で巻き起こる突風で揺れる。 「うん。今度は反応できたね」 一瞬前まで悠羽がいた位置で停止した雪那は、課題を達成した生徒を誉める教師のような 口調でそう告げた後、同じく教師の調子で問いかける。 「どうして、今のは避けられたのか、分かる?」 「それは……雪那さんの動きが分かったからです」 「どうして?」 「どうして、と言われましても」 重ねられる問いに、悠羽は言葉を失う。 自分が反応し、回避できたのは、雪那の動きが分かったから、という理由が全てであり、 それ以上の理屈は存在しない。 もし、目に見えるものを、なぜ見えるのかと問われたならば、それはただ「見えているか ら」と答える他に無いのと同じように。 「私が、雪那さんの動きを感じる事が出来たから、としか」 「今の動きが、悠羽から石を取った時と同じスピードだったとしても?」 悠羽が信じられない、といった表情を浮かべるのに対し、雪那はその反応が自分の予想通 りだった事に笑みを浮かべる。 「そりゃ、多少は誤差があるだろうけど、同じスピードになるように意識してやったから、 ほとんど変わらないはずだよ。でも、悠羽は今の動きに反応できた。この違いは何か、って 事を理解出来れば、それだけで悠羽はずっと強くなれるよ」 未だに納得のいかない表情を浮かべる悠羽を見た後、まだ沈む気配の無い太陽を見上げた 雪那は、自身の奥底に眠る記憶と意識の断片を頼りに話を続ける。 「それじゃ、順を追って話を進めようか。悠羽、動作、主に攻撃の基本は?」 「呼吸、筋力、集中力、タイミング、角度、体勢、でしょうか」 「そう。アタシも悠羽も、その瞬間に応じて、それらを最大限に活かせるように動いている。 自分の持つ破壊力を限界まで発揮できるようにね」 雪那の言葉が、真島流破鋼拳の教えと寸分も違わないという事実は、もはや悠羽に驚きを 与えない。 彼女の中に兄を感じている悠羽にとって、雪那が真島流破鋼拳を理解している事は、むし ろ当然の事とさえ思える。 「では、防御の基本は?」 「呼吸、気配、殺気、気流、視線、音、です」 「うんうん。分かってるじゃない」 悠羽の回答に満足気な笑みを浮かべた雪那は、何度か大きく頷く。 「相手の全てを感じる事で、次の手、その先の手を読み、回避につなげる。これが防御の基 本だね」 五年前、この格闘術を学び始めた時に聞いたものと変わらない内容を聞きながら、悠羽は 雪那の、血で濡れたような深紅の唇が次の言葉を紡ぎ出すのを静かに見守る。 「という事は、相手に防御をさせないようにするには、その逆をいけばいい。呼吸も気配も 殺気も気流も視線も音も、何もかも全てのものを相手に感じさせない、簡単にいえば、相手 の知覚を超える、って事。感じる事が出来ないモノに対して、防御も何もあったものじゃな いからね」 直後、悠羽の視界から、雪那の姿が消えた。 「こんな風に、さ」 その声が聞こえて初めて、悠羽は自身の背後に合わさるような位置に、雪那が回り込んで いるのだと理解出来た。 「今の動きは見えなかったでしょ? それどころか、こんな近くにいるのに、声をかけるま で気付けなかった。それはつまり、アタシが悠羽の知覚の外に存在していたって事。もし、 アタシが悠羽を殺すつもりだったら……」 悠羽の背中に囁きながら、雪那は身体を回転させ、悠羽の首筋に唇を這わせる。 「こんな風に、食べちゃえるんだから」 「ひゃっ!」 その言葉通り、首筋に当たる雪那の歯に、悠羽は思わず大声をあげてしまう。 「や……やめて下さい……んっ」 歯だけではなく、その間から艶めかしく出し入れされる舌の感触や、雪那の吐息も加わり、 増大する刺激に、悠羽は全身から力が抜けそうになりながら、弱々しい制止の言葉を漏らす。 「ふふ、本当に可愛いね、悠羽は」 希望に沿って口を離した雪那は、ゆっくりとした足取りで悠羽の正面に回ると、唾液に濡 れた首筋を撫でながら、どこか夢を見ているような表情の悠羽と再び距離をとる。 「まあ、要はこういう事。さっき悠羽が回避できたのは、アタシが音と気配を出していたか ら……って、聞いてる?」 「あ、はい。大丈夫、だと、思います」 訝しげな視線を向ける雪那に返しながら、悠羽は告げられた言葉を胸の内で反響させる。 ――確かに、あの時は足音が聞こえて そこまで思考した悠羽は、雪那の言わんとしている事を理解した。 同じ速さの動きでありながら、なぜ反応できる時とできない時があるのか。 雪那の言う「知覚の外」で行われる動きとは何か。 自分と兄との間にあるものの本質がどこにあるのか。 「理解出来た、って顔だね」 小さく頷く悠羽を前に、雪那は手の内に収めたままになっていた小石を再度彼女の頭に乗 せる。 「じゃ、次こそは取られないようにね」 「で、でも、理屈が分かっただけで、いきなり動けるようには」 「そればっかりは教えてあげられないよ。悠羽が身体で覚えないと。大丈夫、悠羽ならすぐ に出来るようになるって」 夏の日差しを受けて輝く純白の髪を揺らしながら、雪那は小さく息を吸い込む。 「それじゃ、行くよ」 「ああ、極楽極楽や」 メタル・ガーディアンの中にある大浴場に、リラックスした女性の声が響く。 街にある公衆浴場とは違い、普通の湯を張ったものが一種類しかないが、その分広さを持 つ湯船の縁に両腕を預け、顎を上に向ける女性、早希は両足を伸ばし、湯の中で軽く上下に 動かす。 組織が二十四時間体制で動いているという事と、太陽を一切見る事の無い、時間の感覚を 鈍らせる地下にいるという事で、本来ならば風呂に入るのは少し早い時間であるにもかかわ らず、早希の視界には、数人の女性の姿が映る。 各人に割り当てられた部屋の中にも浴室は備え付けられているが、それでもこの大浴場が 賑わっているのは、やはり日本人は風呂が好きなのだろう、と考えながら、早希は疲れを滲 ませた息を吐き出す。 聖炎凰の整備が思ったよりも順調に進んでいるのは喜ばしいが、そのために少々無理をし ているのも、また事実である。 「風呂からあがったら、ひと眠りせなアカンなぁ」 右手で目頭を揉みながら呟く早希は、同時に、脱衣所から聞こえる、何者かの話し声に意 識を傾ける。 『……それは……です』 『だからね……可愛い……』 脱衣所までの距離と周囲の音が邪魔をして、細かい部分までは聞き取れないが、楽しげな 雰囲気の会話をしている声の、その両方ともに、早希は聞き覚えがあった。 ――この声は わずかに聞こえる声が何者であるのかを脳が処理し、判断するまでの時間は、一瞬にも満 たない。 だが、事態は早希の脳の回転を上回る速度で進んでいく。 「それ!」 まず聞こえたのは、勢いよく脱衣所のドアを開ける音と、それ以上の勢いを持った女性の 声。 そして、「それ」は、砲弾のような速度で早希の眼前に降って来た。 盛大な音と飛沫を撒き散らしながら降って来た「それ」に、浴場中の視線が一気に集まる。 「な、な、何や!?」 突如、眼前に降って来たモノの正体が掴めないまま、早希は反射的に湯船から飛び出る。 が、早希は間も無く「それ」の正体を理解する。 湯の中に漂う純白の髪と、 「せ、雪那さん!?」 後ろから聞こえる、悠羽の困惑した声によって。 「う〜ん、気持ちいい!」 悠羽の声に反応するように、満面の笑みで湯の中から立ち上がった雪那は、自分の正面に 見知った人間がいると気付く。 「あら、早希じゃない」 「……あら、とちゃうわ、このスカタン」 自分の眼前に降って来たモノの正体と、およそある程度の状況が掴めた早希は、笑顔で手 を振る雪那と対照的に、俯き、肩を震わせる。 「ん? どうしたのさ」 「アンタ、風呂の入り方も知らんのか! どこの世界に脱衣所からひとっ飛びで湯船に突っ 込むアホがおるんや! 風呂は静かに入るもんや! それにな、風呂に入る時は、まずは身 体洗ってから!」 「さ、早希さん、雪那さんはまだ」 「悠羽、アンタもこんな非常識なの連れ回すんやったら、首輪でもつけて管理せなアカンで! ええか、セッちゃんの不始末は悠羽の責任やからな!」 雄々しく仁王立ちをした体勢のまま、早希は雪那と悠羽、それぞれに怒声を浴びせる。 「そ、それじゃ、とりあえず身体を洗いましょうか」 「むぅ、仕方ないなあ」 早希の剣幕に圧倒される形で、雪那は不服そうな表情のまま湯船から足を出す。 無造作に足を動かし、湯船から出る、雪那が行ったのは、ただそれだけの動作であったが、 そこには同性でさえ魅了する、品格とも呼べる空気が備わっていた。 何も身に着けていないため、惜しげも無く全てを晒している、彼女の持つ極限まで洗練さ れたスタイルが、浴場内の女性の目を引き付けて離さない。 自然に生み出された命では無く、あくまで「そういう形を持つモノ」として設計し、生み 出された鏖魔に浴びせられる羨望の眼差しは、いわばマネキンに対して賞賛の声を向けるに も近いものがあるが、現実に目の前で生き、動く絶世の美女を前に、彼女達の思考はそこま で及ばない。 先ほどまで怒りを露わにしていた早希でさえ、その感情を置き去りにして、ただ目の前の 女性が動く様子に視線を奪われるがままになっている。 「よいしょ、っと」 そんな女性達の視線などまるで意に介さず、雪那は悠羽の隣に座る。 「それじゃ、悠羽、さっと洗っちゃって」 「はい、それじゃ背中から……って、私がですか!?」 「そうだよ。ほら、早く洗ってお風呂に入ろう」 「あの……そういうのは自分で」 「約束したよね? あの小石を守り切れなかったら、今日は何でも言う事聞くって」 「そ、それはそうですけど」 「じゃ、お願いね」 「わ、分かりました……」 その流れに、周囲から歓声が沸き起こる。 「センパイ、これ、イイ感じってヤツですよ!」 「次のイベント、和彦様本だけじゃなく、悠羽ちゃん本も追加ね……!」 その中でも別方向での盛り上がりを見せているのが、経理部の花月利香(かづきりか)と 風鳥知里(かざとりちさと)の「花鳥風月コンビ」である事を確認した早希は、相変わらず 好きやなあ、と呟き、悠羽達に背を向けて湯船に浸かり直す。 ――けど、ほんまに仲がええなあ、あの二人 悠羽が雪那の身体を洗う動きに合わせて盛り上がる周囲から意識を外した早希は、一瞬だ け二人に視線を移す。 ――まるで、姉妹みたいやな じゃれ合うような二人の姿に、かつての兄妹の姿を重ねた早希は、もう随分と遠くに感じ られる過去を想う。 反対する父を押し切り、高校卒業と同時に鋼騎の技術者としてこの島に来た時、悠羽はま だ幼く、ずっと兄の凌牙にくっついていた憶えがある。 閉鎖的な島の中で過ごしていたためか、人見知りの激しかった悠羽は、兄と同い年の新参 者と距離を取り、なかなか打ち解けようとしなかった。 まるで拒絶されているかのような扱いを受けた早希は、半ば意地になって悠羽との距離を 詰めようとし、様々な手段を講じた。 ――結局、食べ物が一番効果的やったな、あの時は 島の中には十分な物資が供給され、日常生活に支障をきたす事は無いが、それでも何から 何までが揃う、という訳ではない。 そこで早希は、島には無い種類の菓子を用意し、悠羽に与えたのだ。 『悠羽ちゃん、もう、ウチの事避けへん?』 『はい! とっても美味しいです!』 ――あれ? 今思えば、これって、ウチの言葉に対する返事と違うような…… 長い時を経て発覚した事実に早希は疑問を抱くが、結果オーライ、と自分を納得させる。 「せ、センパイ!」 「ええ、もう頭の中でネームは完成しているわ!」 思考の妨げになる花鳥風月コンビの歓声を意識して聞かないようにし、早希は再び意識を 過去に遡らせる。 ――そういえば、凌牙と初めて会ったの、いつやったかな 悠羽の兄、凌牙に対する第一印象は、一言で表すなら「牙」であった。 彼を初めて見たのは、格納庫の中、当時メタル・ガーディアンが保有していた唯一の鋼騎 であるナイトUに搭乗する時であった。 通常のフェンサーと違い、パイロットスーツを身に着けない姿のまま、何の道具を使う事 も無く、その身だけで遥か頭上のコクピットに辿り着くという、およそ常識からかけ離れた 凌牙の横顔は、鋭い攻撃的な空気に満ち、まさに一本の牙を思わせるものであった。 後に咬牙王を駆り、「勇者」と呼ばれる事になる頃には、無駄な力を極力抜き、戦闘前で あっても落ち着いた表情を見せていた事を考えれば、あの頃の凌牙はまだ未熟であったのか もしれない、と早希は思い返す。 ――ホンマに、何をやってるんや、あいつは 愛が強すぎる余りに、悪魔に身も心も捧げた、かつての勇者を想う早希は、思わず舌打ち をしてしまう。 フェンサーと整備士という関係に、年が同じという事もあり、凌牙と打ち解けるのに時間 はかからなかった。 幼い頃から島で育った環境のため、悠羽と同じく年の近い友人に恵まれなかった凌牙も、 同じ年の人間を受け入れるのに抵抗は無かった。 島の外を殆ど知らない凌牙に、自分が知る限りの世間を教え、凌牙は島の事や、自身が学 んでいる格闘術の話を早希に聞かせた。 やがて、心の許せる友人、という存在であった凌牙は、次第に早希の中で、その存在の意 味を変えていく。 今から七年前、彼が自身の全てを賭けて愛する事になる女性、天音静流が現れるまでは。 「あのアホたれ……」 過去を想うあまり、胸の奥に封印していた感情を呼び覚ましてしまった早希は、思わず口 走ってしまった言葉を振り払うかのように顔の下半分を湯に沈め、口と鼻の両方で水面に気 泡を作る。 「早希さん」 「う、ウチは何も喋ってへんよ! それ、空耳やから!」 背後からの声に、今の言葉を聞かれてしまった事への動揺を隠せない早希は、決して風呂 の影響だけでは無い紅潮した顔を声の方向へと向ける。 「どうしました? 何か、ありましたか?」 「今度はちゃんと身体を洗ってきたからね」 そこにいたのは、身体を洗い終え、今まさに湯船に入ろうとしている悠羽と雪那であった。 早希は、それだけの時間を追想に費やしていた事実に驚く一方で、今の言葉が聞かれてい ないかという不安を抱きながら、背後に立つ二人を見上げる。 ――とりあえず、何か話題を振らんと もしかしたら聞かれたかもしれない、自分の言葉を彼女らの消すために、頭を全力で回転 させる早希は、その中で確かに見た。 自分の胸を見た雪那が、唇の端に軽薄な笑みを浮かべるのを。 「ちょ、ちょい! セッちゃん!」 「ん?」 頭の中に浮かんでは消えていく、いくつかの話題を吹き飛ばし、早希は急速に沸き上がる 感情をそのまま言葉に表す。 「アンタ、今、ウチの胸見て笑ったやろ!」 「……何の事?」 早希の怒声を受けてなお平然と笑みを浮かべる雪那は、そのまま流れるような動きで湯船 に足を入れ、早希の隣に腰を下ろす。 早希のみならず、浴場の女性全員が、湯船に浮かぶ巨大な二つの膨らみに視線を注ぐ中、 雪那は純白の髪が邪魔にならないように、手で整えながら言葉を続ける。 「早希の胸、可愛くて良いじゃない」 それが、引き金だった。 「な……何が可愛いや! 馬鹿にしくさって!」 その言葉を嫌味と受け取った早希は感情を爆発させ、雪那の胸に飛びつく。 「こんな風船みたいな胸してからに! ウチが搾り取ったる!」 「ちょっと早希、痛い痛い」 「うわぁ……」 言葉通り、両手で雪那の胸を掴む早希と、両手で頬を抑えながら、それを見つめる悠羽、 更にそれを外側から見つめる他の女性陣という、奇妙な構図の中、早希は動きを止めよう としない。 「どや! これで少しは縮んだか!」 「だから痛いって。もう、乱暴なんだから」 湯を派手に撒き散らしながら、湯船で暴れるように絡み合う雪那と早希。 ――また、この感じがします…… 頬を赤らめ、高揚した気持ちで二人を見ている中、悠羽は自分の胸が、もう一つの気持 ちに蝕まれている事を自覚する。 それは、格納庫の中で二人が楽しそうに話をしている時に感じたのと同じ感情。 自分にとって大切な存在である二人の仲が良い事に、不満などあるはずが無い。 だが、悠羽の気持ちは完全に喜びに満たされてはいない。 それどころか、今までの人生でも経験した事がないほどの黒い感情が、わずかではある が、確かに胸の隅に居座っている。 ――なんだか、とても、気持ち悪いです 胸に巣食う黒の感情は、決して大きくない。 だが、意識し始めた瞬間から、悠羽はその感情から逃げる事が出来ない。 飽きる事無くじゃれ合い続ける雪那と早希を見る悠羽の視界が、不意に歪む。 ――もう、駄目です 思考と行動は、同時だった。 「え、えいっ!」 わずかに戸惑いを帯びた声をあげながら、悠羽は身体を跳躍させ、勢いよく湯船に飛び 込む。 「あら」 その予期せぬ行動に動きを止めた雪那は、濡れて顔に貼り付いた白髪を整えながら立ち 上がり、宙に浮く悠羽の手を取って自身の元へと抱き寄せる。 「いいよ、悠羽も相手してあげる」 悠羽を軽く抱き締めた雪那は、そのまま踊るように一回転し、舞台役者でさえも見惚れ るほどの優雅な動作で、悠羽を湯船の中に座らせる。 その余りにも美しく、自然な動線を描く雪那の一連の動きに、周囲から感嘆の吐息が漏 れる。 「ほら、ちゃんと肩まで浸かって」 唐突に湯船に座らされた悠羽の頭に、右側に寄り添うように座る雪那の手と言葉が添え られる。 「今日はいっぱい動いたからね。ちゃんと身体を温めて、ゆっくり休もうか」 「は、はい」 湯船から立ち上る湯気と一緒に、先ほどまで渦巻いていた黒い感情も消えてしまったの か、どこか気の抜けた表情で返事をした悠羽は、彼女の言葉に従い、肩まで湯に浸かる。 「そや、自分ら、外に出て何してたんや?」 「秘密の特訓、かな」 早希の問いに明確な答えを出さないまま、雪那は左手で悠羽の頭を優しく撫でる。 「まだまだ問題は多いけど、すぐに良くなるよ。悠羽はセンスが良いし、何より、アタシ が教えてるしね」 「なんや、セッちゃん、人に物を教えられるんか。意外やな」 「ま、なんとなく、だけどね」 苦笑を浮かべて応えた雪那は立ち上がり、湯船の外に出る。 「それじゃ、アタシは出るから」 「あ、それじゃ、私も出ます」 雪那の後に続いて湯船から出る悠羽を見る早希は、再び、二人の背に、兄妹の姿を重ね る。 黒髪を揺らす悠羽の背に、幼い頃の彼女の姿を、白髪を揺らす雪那の背に、在りし日の 勇者の姿を。 ――ほんまに、不思議な子やな。なんでか知らんけど、凌牙に似てるんやから 雪那の背を見つめる早希の瞳は、かつて凌牙を見ていた時と同じ輝きを放っていた。 「はぁ、疲れました」 風呂からあがり、ペンギン柄の水色のパジャマに着替えた悠羽は、自室のベッドに、う つ伏せで勢いよく倒れこむ。 「はい、お疲れ様」 悠羽に借りた、ウサギ柄の白いパジャマに身を包んだ雪那は、水の入ったペットボトル を傾けながら、悠羽の背に跨る。 背に感じる雪那の感触に、思わず振り向く悠羽だが、 「いいからいいから」 と、雪那の笑顔に追求を阻まれる。 「悠羽、今日は疲れたでしょ? マッサージしたげる」 言葉を終えない内に、雪那は自身の言葉通り、悠羽の背に両手を添え、筋肉をほぐし始 める。 「よいしょ、っと」 女性としての細さや美しさを持つ身体の奥に、戦う者としての確かな力強さを感じなが ら、雪那は悠羽の身体を労わるよう、両手を動かす。 「ふぁ……ぁ」 雪那の手から生み出される快感と、思わず出てしまった欠伸を同時に口から吐き出しな がら、悠羽は全身の力を抜く。 「どう? 少しは思ったように動けるようになった?」 「まだまだですよ」 「だろうね。こうやって身体を触っていると分かるよ」 手から伝わる感触を通し、桜の木の下で行った特訓を思い返した雪那は、背から腕の方 へと手を動かす。 「まだまだ、動きに無駄が多いね。不必要に力が入っている証拠だよ」 「ん……そ、そこ、痛いです」 「無駄な動きをするから、筋肉を痛める。悠羽の課題は、まずはそこかな。いい? 力な んてものは、最低限でいいんだからね」 悠羽の両腕を丹念に揉む雪那は、筋肉の感触を確かめながら、昼間にも言った言葉を繰 り返す。 「全身の力を緩め、精神を極限にまで研ぎ澄ませ、あらゆる気配を消す。これが出来るよ うになれば、悠羽はもっと強くなれるよ」 「頭では理解出来ますが……やっぱり難しいです」 気持ち良さと疲労のため、急速に睡魔に侵攻されていく意識の中、悠羽は何とか口を開 き、雪那の言葉に応える。 「ま、そうだろうね。いきなり何でも出来るなら、誰も苦労はしないよ」 悠羽の睡眠を促すよう、子守唄のように優しく穏やかな口調で話す雪那。 「でも、それが出来るようになった時、面白いものが見られるよ。悠羽の世界が変わるく らいにね」 「おもしろい……もの……」 「そう。そして、それを見ない限り、悠羽はアタシや勝ちたい相手に勝つ事は出来ない」 その言葉に、返事は無かった。 代わりに聞こえるのは、悠羽の静かな寝息。 「あら、寝ちゃった」 悠羽が眠った事に気付いた雪那は手の動きを止めて立ち上がり、器用に彼女の身体の下 に敷いてあるシーツだけを抜き取って、それをそっと掛ける。 「すぐに到達できるよ。相手の時間さえも支配する、神の領域にね」 完全に眠りに落ちた悠羽の頬に指を添え、そっと呟いた雪那はシーツをめくり上げ、そ のまま悠羽の隣で眠りに落ちた。 第十一話 神炎掌(中編)