「うん、気に入った。これからアタシの名前は雪那(せつな)だ」 その名を示す純白の髪と、見る者全てを魅了する鮮やかな紅の瞳を持つ女性型の鏖魔、雪 那は、名付け親である悠羽と、彼女の両親にそれぞれ視線を送る。 「そんなワケだから、とりあえずよろしくね」 一見すると冷たささえ感じられる、鋭さを伴った美貌に似合わぬ人懐っこい笑みを浮かべ て手を軽く振る雪那に、烈とソフィアは、本日何度目かの視線を交錯させる。 ――なんか、この鏖魔っての、思ってたのと違わねえか? ――同感ね。記憶を失っているからかしら 人生の半分近くを夫婦として共に過ごしてきた中で培った、無言の意志の疎通を行った二 人は、最低限の警戒を維持したまま事態の推移を見守る事で当面の結論とした。 「お前が記憶を失ったってのは事実として、だ。これからどうするんだ?」 「自分が何者なのかも分からないのに、どうもこうも無いよ。とりあえず、ここでゆっくり 過ごしながら考えるかな」 腕と背を伸ばし、寝起きの身体をほぐしながら烈の言葉に応えた雪那は、悠羽に視線を向 け、それに、と付け加える。 「今は悠羽と一緒にいたい、っていうのもあるしね」 「……!」 言葉に、悠羽の顔が再び耳まで朱に染まる。 その反応に意地の悪そうな笑みを浮かべた雪那はベッドから立ち上がり、ゆっくりと悠羽 の眼前に立つ。 女性にしては長身の悠羽だが、雪那もそれに見劣りはしない。 むしろ、身長そのものはほぼ同じだが、スタイルが究極にまで洗練されている分、雪那の 方が長身にも見える。 「悠羽の味、もう覚えちゃった」 悠羽に対し、眼前、というには余りにも近い位置に立った雪那は、左の人差し指を自らの 下唇にそっと沿わせながら、彼女の耳に息を吹きかけるように囁く。 「や……あ……」 もはや胸の奥から噴出する熱と感情を処理できなくなった悠羽は、言葉にならない声さえ も満足に発する事ができないまま、ただ茫然とした表情で口を開閉させるしかできない。 「って事で、アタシはしばらくここで厄介になるから。そこの人も、それでいいかな?」 悠羽から身を離した雪那が、何の気兼ねも無く言い放った言葉の後半は、カーテンの向こ う側にいる和彦に向けられたものである。 「お前の目の前にいる人類以前が承諾したのなら、一向に構わん。それがここで一番の権力 者だからな」 カーテン越しに聞こえた声に、雪那は和彦の言う一番の権力者が誰かを定めるべく、三人 の顔をじっくりと見つめる。 「……いいかな?」 「なんで俺って分かるんだよ」 雪那の言葉の向かう先にいた烈は、カーテンの向こう側にいる親友に舌打ちを一つ。 「人類以前、という単語をもとに対象を絞れば、誰だって分かるさ」 「うるせえぞ極道医者。全身の毛穴が百万倍に広がる奇病にかかっちまえ」 学生時代から変わらない言葉の応酬を交わした烈は、一呼吸して表情を引き締め、再び雪 那に向き合う。 「ここに住む事は構わねえ。というか、お前を外に出す訳にゃいかんから、出ていこうとし たら引き止めるつもりだったしな」 ここで烈は煙草を吸おうと懐に手を伸ばすが、ソフィアの視線に気付き、手の位置を戻す。 妻が止めた理由は、この部屋が禁煙である事と、悠羽に煙を吸わせたくない想いからであ ると気付いた烈は、一瞬だけ娘を見た後、話を続ける。 「記憶が飛んじまって何も思い出せないっていうなら、今はそれでいい。思い出した時に根 掘り葉掘り聞いてやるからよ。鏖魔を手元に抱える事のリスクに関しては、俺が最大限の責 任を持つし、それでとやかく言う奴がいたら黙らせてやる。その代わり、今から俺が言う事 を約束しろ」 先ほどまでと全く違う、戦う男の顔になった烈の力強い言葉に、ソフィアと悠羽は、硬い 表情で彼の声に耳を傾ける。 そして、その言葉を正面から受ける雪那は、突き付けられた言葉と同時に、彼の身体から 発せられる暴力的なまでの圧力を感じながら、肯定の意を示すべく、静かに顎を引く。 それを確認した烈は、もう一度雪那の意志を確認するかのように無言の圧力をかけた後、 ゆっくりと口を開く。 「悠羽を裏切ったり泣かせたりするな。何があろうと、絶対にだ」 その言葉に、悠羽は雪那よりも驚きの表情を浮かべ、ソフィアは烈の言葉を全て理解した かのような微笑を浮かべる。 「正直、起きたばかりで記憶も無いお前に、信用もクソも無い状態なのは間違いねえ。だが な、悠羽は違う。お前の言葉に目をキラキラさせたり真っ赤になったり、名前を考えてやっ たり、随分と楽しそうにしてやがる」 戦う男の目から親の目になった烈は、まだ紅潮が収まらない悠羽の頭を優しく撫でる。 「親バカって言われるかもしれねえが、娘の楽しそうな顔を見れるってのは最高な事でな。 まあ、あまりはっちゃけ過ぎるのはどうかと思うけどよ」 音の無い医務室に、烈の父親としての言葉が響き渡る。 「これから悠羽と仲良くしてやってくれや、雪那」 言葉を終え、少し照れ臭そうに笑う烈に、ソフィアが続く。 「私も烈と同じ意見よ。鏖魔という存在に関する知識が無いまま抱える事に不安が無い、と は言わないけれど、やっぱり親は、娘が可愛いものなのよ」 「親に娘、ね……」 烈とソフィアの言葉の意味を整理しようと、雪那は彼らの言葉を胸の内で反復する。 生体兵器として生み出された鏖魔に、親子の絆という概念は存在しない。 闘争本能と破壊衝動が異常なまでに発達した鏖魔にとって、絆と呼べるものは、同士討ち を防ぐため本能に刷り込まれた、安全装置にも似た仲間意識だけである。 兵器には存在しない概念を理解しようとする雪那だが、やはり思考が結びつかない。 だが、悠羽に対する想いは別である。 自分が目覚め、悠羽と出会ってから、時間の経過はほとんどない。 にも関わらず、雪那は悠羽に対して特別な感情を抱いている。 まるで、目覚める前から彼女の事を知っていたかのように。 その感情が、悠羽に自分の名を任せるという行動につながり、悠羽と一緒にいたいという 想いにつながっている。 「どうかしたか?」 思考に没頭する様子に訝しげな視線を向ける烈に、雪那は軽く首を左右に振る事で応える。 「ん、なんでもない。要は悠羽を大事にしろ、って事でしょ? それなら頼まれなくたって 大丈夫だよ。ね?」 最後の言葉を投げかけられた悠羽は、瞳を輝かせて勢いよく何度も頷く。 その仕草が可愛らしいと思った雪那は、同時に、ある違和感を覚える。 ――あれ? なんだろ、これ 違和感の正体は、軽い頭痛である。 頭の中にある何かが自己の存在を主張して止まないかのような、内部からの痛みは、間も 無く雪那の意識を飲み込む。 急速に眠りに落ちるような感覚と同時に、雪那の意識は周囲から遮断された。 『君を、幸せにしたい』 飲み込まれた意識の中、最初に届いたのは一つの言葉。 強い決意と迷い、そして恐れを内包した短い言葉に一瞬遅れ、雪那の意識は周囲の風景を 描き始める。 そこは、四方を夜の海に囲まれた島の端であり、周囲に敷き詰められた一面の芝生が、こ の場が人の手が加えられたものであると主張している。 公園のようにも見える場であるが、遊具の類は一切置かれておらず、人工物は自分の後ろ に置かれたいくつかのベンチのみである。 正面に見える、一本の大きな桜の木が、己こそがこの場の主だと言わんばかりに堂々と立 ち、満開に咲かせた花が、意識の中で春を告げている。 そして、その桜を背に、自分の眼前に立つのは、一人の女性。 雪のような白い肌に、月明かりを受けて輝く白に近い金の髪。 浅い海面を思わせる薄い青の瞳と、女性の持つ優しさと母性を凝縮した柔らかな美貌。 ゆったりとした白のワンピースを身に着けた女性は、このまま月の光に溶けてしまいそう な、どこか儚い美しさで、言葉を発したこちらを見据える。 その表情は穏やかで、言葉の続きを静かに待っている。 『とは言うが、幸せとはどういうものなのか、皆目見当がつかない』 雪那の意識の主体になっている言葉の主は、声の中に迷いを色を強くし、その迷いを体現 するかのように、眼前の女性から視線を外す。 逃げるように宙へと泳がせた視線の先にあるのは、大きな満月。 地上から見上げていると、人類がそこに到達した事が冗談に思える夜空の主を見つめ、次 の言葉を模索している中、聞こえてきたのは小さな笑い声。 『相変わらず変な所を深く考えるわね。そんな心配しなくても、私は十分幸せよ。こんなに 綺麗な月と桜の下にあなたがいて、私がいる。これって、とても幸せな事じゃないかしら?」 問いかけられた言葉に、すぐに返す事が出来なかった。 言葉を返そうとする意志よりも強く、目の前で微笑む彼女に意識を奪われてしまったため に。 状況は違えど、彼女とは毎日顔を合わせているし、二人で会う事も初めてではない。 だが、桜と月光に彩られた彼女の姿は、こちらの言葉を奪うには十分すぎるほどの美しさ であった。 『だから』 意識の全てを奪われたこちらに、優しく包みこむような言葉が重ねられる。 『私の全てを、あなたに委ねるわ』 言葉に、身体が反射的に動いた。 これまで溜めてきた想いに突き動かされる形で起こした行動は、目の前の女性を強く抱き 締めるという結果を導く。 細すぎる、とも思える彼女の身体を折りそうなほど強く抱き締め、口に出すのは一つの言 葉。 『愛している』 それは、これまでの歴史で数えきれないほどの人間が数えきれないほど口にしたであろう、 単純にして明確な意志を示す、ごくありふれた言葉。 『……愛している。これ以外に、言葉が出てこない』 自分の言った言葉の意味を噛み締めるかのように、あるいは、この言葉を受けた彼女が何 らかの反応を示すまでの時間を埋めるかのように、同じ言葉を繰り返す。 抱き締められるがままの彼女は無言のまま、その言葉を全身に染み込ませるように軽く瞼 を閉じる。 言葉の無い二人の間を、春の夜風が駆け抜ける。 抱き締めた体勢のまま、無言の時間が過ぎていく。 恐らくは一分にも満たない時間ではあったが、想いを告げ、その答えを待つ身としては、 その時間は果てしなく長く感じられる。 そして、何度目かの風が互いの間を抜けた後、彼女は静かに口を開き、言葉を告げた。 『私も凌牙の事を愛してる。誰よりも、ずっと』 「あれ? 立って目を開けたまま寝ましたか?」 浮かび上がった映像が終わり、現実に意識を引き戻した雪那が最初に目にしたのは、こち らを覗き込み、目の前で手を振る悠羽の姿であった。 「反応が無いです……すぐ寝ちゃう人ですね」 「愛している」 「………………え?」 告げられた言葉の意味を即座に理解出来ず、顔色を変える事さえ無く硬直する悠羽を、雪 那は強く抱きしめる。 「愛している。これ以外に、言葉が出てこない」 それまでとは違う、低く抑えられ、しかし力強い雪那の言葉が、静かに響く。 「え? あ…………ええ!?」 抱き締められた状態で、雪那の告げた言葉の意味をようやく理解した悠羽は、何よりも先 に、この上なく強い驚きの声をあげた。 遥か上空に浮かぶ鏖魔の空中戦艦、黒刃。 全長約五キロという長大な艦の中は、その大きさとは裏腹に、人気がほとんど感じられな い。 人類が造った戦艦なら、その運用に際し、大きさに見合った人員が必要になってくるが、 この艦は違っていた。 次元の壁を突破する機能のみに特化した設計と、徹底された自動化により極めて少人数で の運用を可能にしたこの艦からは、一部の特権階級に属する人間のみが別世界に逃げようと した思惑が透けて見える。 そして現在、この艦を運用しているのは、これを製造し、別の世界へと逃亡しようとした 者達ではない。 彼らは完成した箱舟に乗る事無く、その命を終える事となった。 この艦と同じ、自らが生み出した兵器、鏖魔によって。 「やあ、戯弾(ぎだん)」 その黒刃の一室に、明るい少年のような声が響く。 それは、声と同じく少年のような容姿に、見た目とは不釣り合いな白のスーツを身に着け た鏖魔、終破である。 その先にいるのは、本来の姿を改修し、西洋の王族の私室を思わせる豪華な内装に生まれ 変わった部屋の中、高級な絨毯の上で坐禅を組む、一人の男、戯弾。 後ろで結ばれた鮮やかな金髪に黒い着流しという、ミスマッチな容姿の戯弾は、無骨な顔 ごと青の瞳を一瞬だけ終破へと向け、すぐに瞼と閉じて顔を正面に向ける。 「終破殿か。何の用で参られた」 「いや、特に用事なんて無いけどね」 飄々と応え、室内に足を踏み入れた終破は戯弾の横に立ち、しばらく坐禅を組む戯弾を見 下ろした後、 「こう、でいいのかな?」 と、戯弾の真似をして、自身も坐禅を組み始めた。 その行動に、戯弾は何の反応も示さず、ただ黙って坐禅を続ける。 見よう見まねで坐禅を始めた終破は、戯弾を見習って瞼を閉じたまま動かない。 それからしばらく、互いに無言のままの時間が流れる。 部屋に音を発する物がなく、周囲に誰もいないため、一切の音が消えた空間の中、洋室の 絨毯の上で坐禅を組むという奇妙な光景が続く。 「ねえ、戯弾」 しばしの間の静寂を破り、終破は瞼を閉じ、正面を向いたまま問いかける。 「何か」 「これって、何が面白いのかな?」 自らの予想とは違う結果に困惑したような終破の問いに、戯弾は微動だにせず応える。 「これは、面白いかどうかの話では御座らん。戦に挑む前に己が心を律する為の行為なり」 「己の心を律する、ね」 戯弾の言葉の後半を呟いた終破は苦笑。 「全くもって鏖魔らしくない言葉だね。僕達鏖魔は、ただ自分の本能に従うがまま、破壊と 闘争に酔いしれるものだと思ってたよ」 「その言葉、否定はせん。鏖魔たるもの、破壊と闘争が本懐なれば、それを満たすが道理で あろう」 戯弾は深く息を吐き、鍛え上げられた胸板をわずかに動かす。 「が、ただ闇雲に破壊と闘争を重ねるだけでは、己の魂が満たされないのも道理。故に、心 を律し、己が望む死合いに賭けるが最上なり」 「なるほど。そう言われてみれば、君の考えも見えてくるよ」 互いに瞼を閉じ、顔の見えない状態の中、戯弾の言葉を理解した終破の口に、明確な笑み が浮かぶ。 「僕も、いや、他の鏖魔も、最初はただ力を振っているだけで満足できた。けど、いつから か、ただの破壊では満足できなくなってきて、より強い相手との戦いを求めるようになった。 で、君はその時に全てを賭けるためにこうしてるって事だね」 「然り」 「でも、強い相手との戦いを求めるのは理解出来るけど、そのために他の破壊を放棄する、 っていうのは理解し難いな。鏖魔なら、出来る破壊は、その内容に関係無く全て行うものじゃ ないかな。そういう意味では、流鰐(るがく)や臥重(がじゅう)は鏖魔らしい鏖魔かもし れないね」 「理解されようとは思わん。拙者はただ、次の死合いを全うするのみ」 「まあ、君がそれでいいというのなら、それで構わないさ」 坐禅に飽きたのか、終破は立ちあがり、近くの椅子に腰掛ける。 「でも、君が行くあの島に、敵は一人とは限らないよ」 「……始炎(しえん)殿か」 かつての主の名を漏らす戯弾の声が、わずかに強張る。 「君も見ていたと思うけど、虎強(こごう)の砕剛鬼(さいごうき)を滅ぼしたのは、炎皇鬼 (えんおうき)だよ。つまり、彼女は生きていて、あの島にいる」 「始炎殿を蘇らせたのはお主であろう?」 右目だけを開き、終破を見据える戯弾の表情に、始炎が生きていた事による驚きは無い。 言葉と視線による追求に、終破は苦笑で肯定の意を示す。 「拙者は、今の始炎殿と死合う事が可能か?」 「恐らくはね」 「それは重畳」 その言葉を聞いた戯弾は再び瞼を閉じ、口元に小さな笑みを浮かべる。 「あの島に赴き、皇魔の血族を討ち取った後は、始炎殿とも死合えるという事か。魂を満たす 事の出来る相手に二人同時に出会えるなど、なんという僥倖か」 鏖魔としての本能を刺激され、笑みを濃くしていく戯弾。 「悠羽って子はともかく、始炎にも勝てると思うかい?」 問いかけに、戯弾は小さく首を左右に振る。 「今の始炎殿が以前と同じままなら、拙者も虎強殿と同じ末路を辿る事になろう。あれの強さ は、我等鏖魔の理を超えた領域に達しておる。だが、あれほどの強者と死合えるのなら、勝敗 などは些事に過ぎん。鏖魔としての本能を最大限に満たせるのであれば、その後の生死を考え る事に何の意味があろうか」 閉じた視界の中で始炎の姿を追想する戯弾は、自らの死を意識しての言葉を悲観する事無く、 むしろ、わずかな喜色を滲ませながら言葉を吐き出す。 普段から多くを語らず、感情を表に出さない戯弾が鏖魔としての本能を剥き出しにしている 姿を見た終破は、それに満足したように頷き、椅子から立ち上がる。 「期待しているよ。君の名が示す通り、彼女は無数の弾丸と戯れる事になるだろうね」 「それが拙者の闘争ゆえに」 戯弾の返事が終破の背に届くのと、部屋を去る彼が扉を閉めるのとは、ほぼ同時であった。 「ねえ、烈」 一切の照明を消した暗い部屋の中、わずかに乱れた吐息と共に、一糸纏わぬ姿のソフィアは、 同じく服を身に着けていない、自身が跨っている格好となっている夫の名を呼ぶ。 「あ?」 ソフィアの下で寝転がり、彼女を見上げる姿勢になっている烈は、多分に眠気の混じった、 普段の覇気が欠けた短い言葉を返す。 凌牙がこの島に再び姿を現してから先日の戦闘に至るまで、寝る間も無いほどの過密な業務 をこなした疲労は、もはや若者では無い烈の顔にはっきりと表れている。 だが、それでも他人の前では決してそれを感じさせないよう振る舞うのは、組織を束ねる立 場から来る責任感というよりは、 ――ほんと、意地っ張りね 出会った頃と変わらない夫の性格を愛おしく感じたソフィアは、我が子をあやす要領で、彼 の頭を優しく撫でる。 「よしよし」 「ったく、俺はガキじゃねえっての」 悪態をつきながら、ソフィアにされるがままになっている烈は、先ほどまで激しく動いてい た妻の肢体を改めて観察する。 睡魔の誘惑が徐々に全身を蝕みつつある中にあってもなお見惚れてしまうほどの見事な曲線 は、出会った頃と何も変わらない。 しかし、女性としての魅力に満ち溢れた身体の内側に潜むのは、触れた物をことごとく切り 刻む、薄く鋭い刃である。 その切れ味は、過去に彼女と数度に渡る命のやり取りを経験した烈自身が誰よりも理解して いる。 「どうしたの? そんなにじっと見つめちゃって」 「いや、最近シワが増えたな、って思ってな」 言葉に、ソフィアは電光石火の動きで、夫の前に全てを曝け出している己の身体に視線を巡 らせる。 「ま、嘘だけどよ」 「…………あら、そう」 烈の頭を撫でていた時の優しさを遠い彼方へ捨て去り、ソフィアは聞く者の心臓を握り潰さ んばかりの冷たい声を夫に落とす。 右手を、烈の頭から下へとシフトさせながら。 「ぁが! ソフィア! お前! 爪を! 爪が! 俺の!」 「夫婦の誓い第二条、嘘をつかない。……まったく、本当に困った人ね」 やがて気持ちが収まったソフィアは右手を離し、夫を責めから解放する。 「ああ、俺のパイルバンカーが泣いてるぜ……。ちょっと前に、あんなに優しくしてくれたの と同じ手と思えない所業だ」 わずかに上体を上げ、ソフィアの責めの被害を目で確認した烈は、そのまま両腕を彼女の首 に回し、自身の方へと引き込む。 烈の腰に跨っていたソフィアは簡単に体勢を崩し、全身で夫の胸に飛び込む形となる。 「で、どうしたよ」 密着したソフィアを慰めるように、烈は腕を動かして彼女の背を優しく撫でる。 烈の指が自身の背に触れた瞬間、ソフィアの表情に恐れと怯えの色が刻み込まれるが、それ らはすぐに霧消する。 ソフィアの実際の年齢は夫である烈でさえ知らないが、若さに溢れる瑞々しい妻の身体の中 で、背中という場所は特別であった。 背を撫でる指から伝わる感触は、白く、きめ細かな彼女の肌からは想像も出来ないほどに、 歪なものである。 そこにあるのは、彼女にとって、文字通りの傷跡である。 かつて受けた、常軌を逸した凌辱の中、彼女は背に生涯消える事の無い傷を負った。 その背中をキャンパスに、ナイフをペンに見立て、悪意に満ちた言葉を肌に刻み込むという 形で。 「雪那って子の事だけど」 今や自分自身と夫以外に知る者のいない、人間としての誇りを否定する言葉の形に抉られた 背を撫でられながら、ソフィアは本題を切り出す。 「あの子、どこか凌牙に似ていると思わない?」 瞬間、烈の指が止まる。 「やっぱり、お前もそう思ったか」 ソフィアの唐突な言葉に烈は驚く事無く、逆にそれを肯定する。 「見た目も中身もまるで違うんだが、なぜか凌牙に似てやがる。不思議な奴だ」 「そうね。だからこそ、結局、あの子を好きにさせているのよね。あの子は人間じゃない、鏖 魔だっていうのに」 最愛の女性を失い、絶望と狂気に突き動かされた息子を想うソフィアは、穏やかな表情の中 に、わずかな陰りを織り交ぜるが、それを隠すかのように夫の唇を奪う。 互いに紅潮し、汗ばんだ身体を擦り合わせる夫婦は、全身で相手の体温を感じながら、貪る ように唇を重ねる。 「……お前、キスするタイミングおかしくねえか?」 互いの唇を離す際に生じた銀の糸が自身の胸板に落ちる様子を見ながら、烈は恥ずかしそう に微笑む妻に問う。 「細かい事は気にしない」 夫の問いを一言で切り捨てたソフィアは、でも、と続ける。 「私達が思っている、という事は、悠羽も同じ事を思っているはずよ。だからでしょうね、悠 羽が、あの雪那って子に惹かれているのは」 「なるほどな」 ソフィアと話をしながらも覚めない眠気を振り払おうと、烈は横になったまま右手を伸ばし、 煙草を取ろうとするが、それよりも速く、彼女が優しく右手を握る事で行動を阻止する。 「あれだけ凌牙に甘えていたんだもの、あの子の奥から感じる、凌牙に似た雰囲気に気付かな いはずがないわ。……それにしても」 烈の動きを制したまま口を動かすソフィアは、夫から視線を外し、軽く顎を上に向けて宙を 見上げる。 「私の服を借りていったのは良いけど、あの子達、どこで何をしているのかしらね」 少し前の時間へと記憶を遡らせたソフィアは、我が子を心配する母親の顔で、そう呟いた。 「ん? つまり、悠羽はアタシに戦い方を教えて欲しい、って事?」 烈とソフィアが雪那の話をするよりも前、格納庫へと続く通路を歩く雪那は、額に人差し指 を当てて一瞬だけ思案した後、導き出した結論を声に出す。 身長ではなく、体型的な問題で悠羽の服ではなくソフィアの服を借りる事にした雪那は、白 いファーのついた黒のロングコートに、胸元を開けた、同じく黒のパンツスーツという、およ そ常人には真似の出来ない服装で闊歩しているが、それを違和感無く完璧に着こなすのは、彼 女の完成された美しさの賜物である。 黒で統一された服と、肌の白さ、そして全ての色を寄せ付けない純白の髪のコントラストも 合わさり、廊下で擦れ違う者は老若男女関係無く、今までこの島で見た事の無い女性を訝しむ より先に、足を止めて目を奪われてしまう。 「そうです。私は、もっと強くならないといけないんです」 擦れ違う度に魅了されていく人達に手を振り、気軽に挨拶を交わす雪那を横目に、彼女と共 に通路を歩く悠羽は、自らの決意を確認し、固めるために、言葉を強く吐き出す。 「ふうん」 長い足を大きく動かし、背筋を伸ばして堂々と歩く雪那は、もう何人目になるか分からない 自らの虜に手を振りながら、熱のこもらない声を返す。 「アタシ、記憶がハッキリしていないから、戦い方を教えてくれ、って言われても、どうした らいいのか、よく分からないよ」 「そうですか……」 抱いていた期待が砕かれた事実に、悠羽は明らかな落胆を声と顔で表す。 「でもさ、それでも何か悠羽にとってプラスになる事があるかもしれないし、とりあえず、や るだけやってみようか」 「そ、そうですね。そうですよね」 雪那の言葉に、表情を一転させて笑みを見せる悠羽の変化が可愛らしいと感じた雪那は、 「だってアタシ、悠羽の事、好きだから」 「…………!」 言葉に、悠羽の顔がみるみる赤みを帯びていく。 何度言われても慣れないのか、毎回同じ反応を見せる悠羽を見る雪那は小さな笑みをこぼし、 自身の唇を、隣で歩いている悠羽の耳に重なる寸前まで近付ける。 「ねえ、悠羽はアタシの事、好き?」 先ほど、医務室の中でしたように、耳に吐息をかけるような声量で問いかける雪那の声に、 悠羽の紅潮はますます加速していく。 「こ、こんな場所で、そんなの…………意地悪です」 「好き? 嫌い?」 「……好きです」 「ふふ、ありがと」 そう言って、最後に一瞬、悠羽の耳を軽く噛んだ雪那は、顔の位置を正面に戻す。 「ど、どうして、雪那さんはそんなに意地悪するんですか」 雪那の歯が当たった場所に指を沿わせながら、悠羽は暴れ回る鼓動を必死で抑えつつ、問い かける。 高揚のあまり、雪那と目を合わせられないため、正面を向いたままの悠羽の問いかけに、雪 那は表情を消して思考する。 記憶を失った中、なぜ悠羽だけが特別な存在なのか。 答えは二つ。 一つは、失われた記憶の中で、悠羽は自分にとって特別な存在であったであろう、という確 信がある事。 だが、悠羽が自分の事を知らない以上、これが確かなものであるとは言い難い。 それでも、今の自分が、悠羽を特別な存在と思っている事に間違いは無い。 例え、眠っている記憶が偽りだとしても。 もう一つは、目覚めてすぐ脳裏に浮かび上がった、一つの光景。 月が浮かぶ夜空の下、とある女性に愛を告げた、夢とも記憶の断片とも判断のつかない光景 を見た自分は、その女性の中に、悠羽を想った。 無論、あの中に出てきた女性が悠羽で無い事は理解している。 しかし、自分にとって、あの女性と悠羽は重なって見える。 姿形では無い、本質的な何かが。 「愛しているから、かな」 雪那は思考の末に辿り着いた、シンプルな結論を言葉に表す。 「悠羽は、アタシの無くした記憶の中で大事な存在なんだよ、きっとね」 「……」 その答えに、今度は悠羽が思考の海に潜る。 雪那の言葉が、自分の想いと合致していたために。 自分が確保し、目覚めさせた、雪那という鏖魔。 出会ってから丸一日と経っていない異種族ともいえる存在に対し、過剰なまでの好意を抱い ているのは、彼女の中に、兄の面影を感じたからである。 見た目にも性格にも共通点は無いが、それでも、雪那とこうやって並んで話をしていると、 かつて、兄に可愛がられていた時の記憶が浮かび上がり、心をくすぐる。 今は人間の肉体を捨て、人類の敵に変貌してしまったが、以前は七つ違いの自分の事を非常 に可愛がってくれていた兄の姿が鮮明に浮かび上がり、目の前の鏖魔と重なる。 「私も」 思考を終えた悠羽の口が、ゆっくりと開く。 「私にとっても、雪那さんは大事な存在ですよ。出会ったばかりですけど、これだけは確かだ と思います」 「ありがと。悠羽がそう言ってくれて、ホントに嬉しいよ」 雪那と悠羽は、言葉と同時に足を止める。 足を止めた二人の眼前にあるのは、大きな金属の扉。 核シェルターを思わせる、無骨で頑強な印象の扉は、鋼騎を収納し整備する格納庫へと続く 扉である。 「ちょっと待ってて下さいね」 ジーンズのポケットから、カードキーと身分証明書を兼ねたIDカードを取り出した悠羽は、 扉の右端についているカードリーダーに、自分の写真が貼り付けられたIDカードをかざし、 ロックを解除する。 「雪那さんのカードも、近い内に出来ると思いますよ」 一連の行動を不思議そうに見つめる雪那に言葉をかけた悠羽は、そのままカードリーダーに ついているボタンを操作して、扉を開ける。 カードリーダーからの指令を受け、中央からゆっくりと左右に開く扉の奥に広がっていたの は、所狭しと並べられた機械の数々が奏でる音の数々、鼻を突く機械油の臭い、そして、 「アホ! そこは後やって言うたやろ! あんまりナメた事してると、真冬の道頓堀に叩き落 とすで!」 機械が織り成す音にも負けず響く、女性の怒声であった。 「ここは?」 「先にここに寄って、聖炎凰の様子を見ておきたかったんです。少し、行ってきますね」 初めて見る光景に視線を泳がす雪那と対照的に、目的を明確にしている悠羽は、自分が目指 す場所に向けて足を動かす。 悠羽が目指す場所は、格納庫のほぼ中央。 「早希さん」 「お、なんや、悠羽かいな」 ほどなくして目的地に辿り着いた悠羽は、そこで作業をしている女性の名を呼ぶ。 その声に応えたのは、人ではなく、人型であった。 女性の声を発した、三メートルほどの大きさを持つ、黄色と黒に彩られた人型の機械は、丸 い頭部を悠羽の方へと向ける。 顔だけでなく、全体的に丸みを帯びたデザインの機械、「軽騎(けいき)」と呼ばれる作業 用の小型鋼騎に搭乗している女性、早希は作業を中断し、悠羽の下へと一歩で辿り着く。 「どないしたん? まだ休んでてええのに」 「ちょっと、聖炎凰の様子が見たくなって来ちゃいました」 早希の声とミスマッチなデザインの軽騎の奥に視線を移す悠羽は、その先に、仰向けに寝か された一機の鋼騎を確認する。 鮮やかな金と赤の装甲に包まれた鋼騎、聖炎凰は、昨夜の戦闘で砕かれた関節をそのまま外 気に晒しており、現在は右肘と左膝に、早希と同じ軽騎に搭乗した整備士が何人かずつ集まっ て修理を行っている。 「修理は思ったよりも早く終わりそうやけど、さすがに今日明日って訳にはいかんから、もう ちょい我慢したってな」 「ごめんなさい。私がもっと強ければ、こんな事には」 「そないな事あらへんよ。…………よし、ちょっと休憩しよか」 周囲に休憩の指示を出した早希は、軽騎の前面を展開させ、自身の身体を剥き出して、悠羽 の前に降り立つ。 「やっぱり軽騎の中は蒸し暑くて敵わんわ。ダイエットにはええかも知れんけどね」 茶髪のポニーテールに、油汚れの目立つカーゴパンツとタンクトップという、普段通りの姿 で悠羽の前に立った早希は眼鏡を外し、顔中に貼り付いた汗をタンクトップで拭う。 その結果として、汗の代わりに油汚れが顔に広がるが、早希はそれを気にする事なく、眼鏡 をかけ直す。 「梅、ウチに水持ってきて。三十秒やで。……でな、さっきの話やけど」 早希と同じく、軽騎から降りて休憩していた青年、梅崎に指示を出した後、彼女はその場に 腰を下ろす。 「色々あったけど、結局、悠羽もウチらも無事に終わったって事は、これは『勝った』って言っ てもええんちゃうかな。少なくともウチは、負けた、とは思ってへんよ」 早希の横に悠羽が座ると同時、先ほど告げた半分の時間で水の入ったペットボトルを持って きた梅崎が、悠羽に手を振ろうとしたのを鋭い眼光で制した早希は、水を一息で飲み干す。 「あれが格闘技の試合やったら、悠羽の負けかもしれへん。けど、これは生き残りを賭けた戦 いなんやから、過程じゃなくて結果で判断すべきやと思うよ」 空になったペットボトルを梅崎の方へと放り投げた早希は、彼がそれを落としそうになりな がらも受け取るのを見届けて、言葉を続ける。 「それにな、悠羽が命を賭けてあんなに必死に戦ったのが報われないなんて、そんなの寂しい やんか。だから、何があっても、ウチだけは悠羽の味方やから」 「ありがとう、ございます。早希さんがそう言ってくれるだけで、私、私は……」 その言葉に胸が詰まり、溢れそうになる涙を懸命に堪える悠羽の肩を、早希はそっと抱き寄 せる。 「相変わらず、すぐ泣く子やなぁ。安心しぃ、もし悠羽の事を悪く言うのがおったら、ウチら が整備班が残らず吊るしたるから。聖炎凰を見てるウチらは、悠羽がどれだけ必死にやってる か、痛いほど分かってるよ」 「そ、そうだよ悠羽ちゃん! 僕は、僕達はいつだって悠羽ちゃんを応援してるから!」 早希の言葉に続いたのは、明るい茶色に染めた髪の青年、梅崎。 悠羽より年上であるが、顔立ちが幼いために年下に見える梅崎は、続く言葉を懸命に探りな がら、何とか口を動かす。 「聖炎凰を完全な状態に出来ないのは僕達の責任だけど、悠羽ちゃんは文句一つ言わず乗って、 あんな化物みたいなのを相手に戦ってるんだ! だから」 「おいおい、梅みたいな若造が悠羽ちゃんを語るなんて十年早いぜ」 「全くだ。俺達は悠羽ちゃんがもっと小さな頃からこの島にいるっての」 梅崎の言葉を遮ったのは、整備班の中でも古株の者である。 彼らだけではなく、いつしか、悠羽と早希の周りには、整備班の人間が彼女らを取り囲むよ うに集まっていた。 「悠羽ちゃん、昨日はよく頑張った。本当に大きくなったな」 「俺達とこの島を守ってくれて、ありがとよ」 「いつでもここに来てくれていいんだぜ。整備班は二十四時間年中無休で悠羽ちゃん大歓迎だ」 「たまにはフェンサー用のスーツもな」 「これからは聖炎凰メインだろうけど、訓練の時くらいはパラディンも頼むよ」 技術者達は、それぞれが自分の言葉で悠羽に声をかけていく。 その内容は様々だが、底に流れる想いは変わらない。 「ほらな、悠羽は負けてなんかいないんやで。こんな多くの人間の命を救ったんやから」 肩を震わせる悠羽の背をそっと撫でながら、早希はこの場にいる者の想いを代弁する。 「聖炎凰の事は心配せんでも大丈夫や。今回みたいに壊れたら、ウチらが何度だって直したる。 そりゃ、機結陣はウチらだけでは完成させられへんけど、それでも鏖魔と戦えるように、前よ りも強くなるように、気合入れて整備するから。それが、ウチらの戦いや」 「早希さん……みなさん……本当に、ありがとう、ございます」 何とか最後まで言葉を紡ぐ事が出来た悠羽は、言葉の終わりと同時に、大声をあげ、早希の 胸に顔を埋めて涙を流した。 「ほんまに、よう泣く子やなぁ」 「あれ? 何の騒ぎかと思えば、悠羽が泣いてる。一体どうしたのかな」 幼子のように感情を剥き出しにして涙を流す悠羽に集中していた皆の意識に割り込むように、 場違いなほど呑気な声が響く。 その声に場の全員が声の方向へと振り向き、そこに明らかな部外者の姿を認める。 そして、この場に似つかわしくない白髪の美女を見た技術者達は、ほぼ全員が同じタイミン グで口を開き、一つの言葉を発した。 『なんておっぱいだ……』 自分達が認識した新たな人物の、身体の一部に熱狂的な視線を集中させた技術者達は、数秒 後、それぞれが感情を爆発させた。 「おっぱい! それは禁断の果実!」 「おっぱい! それは未来の道標!」 「おっぱい! それは神々の芸術!」 「おっぱい! それは宇宙の真理!」 「おっぱい! それは地上の楽園!」 「おっぱい! それは超級の双子!」 「おっぱい! それは絶対の勝者!」 一瞬にして、先ほどまでとは全く違う空気に包まれた格納庫の中を、暴徒にも近い熱狂を帯 びた男達が口々に叫びながら、その感動を踊りで表現し始める。 「ん? あれ? 何これ?」 この狂乱の原因が自分にあるとは理解出来るが、それが何故かという事まで思考が進まない 雪那は、突然の流れについていけず、白黒させた目を周囲に泳がす。 「おっぱい!」 「おっぱい!」 「おっぱい!」 「おっぱい!」 「おっぱい!」 事態に付いていけない雪那を余所に、熱狂の中で、誰が指揮するでもなく、自然と動きを統 制させていく男達は、キャンプファイヤーの周囲でフォークダンスをするかのように、雪那を 囲んで踊り始める。 「こ、こう、で、いいのかな?」 自分の周囲で踊り始めた男達を見た雪那は、狂乱の中心に立ちながら、周りの動きに合わせ て手足を動かす。 「…………ちょっとごめんな」 この騒ぎに気圧されたのか、既に泣き止みつつある悠羽の肩を軽く叩いた早希は立ち上がり、 冷静な動きで軽騎に乗り込む。 慣れた動作で軽騎を起動させた早希は、命の宿った鋼鉄の人型の右脚を思い切り振り上げ、 それを一気に地面に叩きつける。 鋼鉄の衝突が生み出すのは、全てを掻き消す大音量。 「おどれら、ええ加減にしいや! 歯ぁ食いしばって一列に並ばんかい!」 外部スピーカーの音量を調節し、場にいる全ての者の鼓膜を破る勢いで放たれた早希の怒声 により、一瞬前までの狂乱が夢であったかのように、格納庫が静まり返る。 そして、早希の逆鱗に触れた事を認識した男達は、 『全部、梅が悪いです』 梅崎を除く全員が、口を揃えて、全く同じ言葉を、全く同じタイミングで発した。 「ええ!? ちょっと、何ですかその連携プレイ!?」 「梅、おどれを吊るせばええんやな」 「早希さん!? 今の、どこをどう見れば僕だけの責任に!?」 「梅、正直に言うで。……とりあえず、最初は誰でもええんよ。一人吊るしたら、ウチも落ち 着くと思うし」 「生贄!? 生贄なんですね僕は!?」 「ちゃうちゃう。尊い犠牲、っちゅうやつや。安心しぃ、親御さんには上手い事言うとくから」 言葉と共に鋼鉄の拳を開閉させる早希は、梅崎のものではない、一つの声を聞いた。 鋼騎と同じHMLSにより、センサーと合一したその耳に聞こえるのは、大きな笑い声。 思わず動きを止めた早希は、頭部を声の方向へ向けてカメラをズームさせる。 そこに映っていたのは、腰よりも長い位置まで伸びた、純白の髪を持つ女性。 黒のスーツの胸元から覗く、この騒ぎの原因となった、豊かに実った胸を上体ごと揺らしな がら、白髪の女性、雪那は紅の瞳に涙を浮かべながら笑い転げている。 「な、なんや?」 天上の美貌を惜しみなく崩して笑い転げる雪那の姿に、早希は思わず戸惑いの声を漏らす。 「だってさ」 込み上げる笑いを堪えつつ、雪那は言葉を紡いで軽騎を指差す。 「この空気、何だか懐かしくなっちゃって。この馬鹿みたいな騒ぎ、久しぶりって感じ」 笑いが収束に向かいつつある雪那は、瞳に溜まった涙を拭いつつ、呼吸を整える。 「ああ、ごめんごめん。続けていいよ」 「……はあ、もうええわ」 雪那の笑いによって怒りを削がれた早希は、大きなため息と共に軽騎から降りる。 「で、自分は何者なんや? 悠羽の知り合いか?」 軽騎から降り、雪那の正面に立った早希は、初めて見る相手の、足下から頭頂部に至るまで をじっくりと観察する。 ――なんちゅうか、えらい別嬪さんやな 非の打ち所のない、完成されすぎている事が逆に不自然なほどの美しさに、早希は先ほどの 騒ぎが起こった理由の一端を垣間見る。 「あ、彼女はですね」 「アタシは雪那。今日からここで厄介になる事になったから、よろしくね」 落ち着きを取り戻した悠羽の言葉を遮り、雪那は自己紹介と共に、人懐っこい笑みを浮かべ るが、 「……なるほど、えらい別嬪さんやから何者かと思ったら、そういう事やったんか」 雪那の言葉で大体の事情を理解した早希は、声にわずかな緊張と敵意を交える。 それは早希だけでなく、周囲の技術者も同様であり、初めて直接対面する鏖魔という存在に、 一様に緊張を走らせる。 「大丈夫です。彼女は確かに鏖魔ですけど、敵じゃありませんよ」 そんな場の空気を汲み取った悠羽は、周囲の緊張と警戒を解くため、意識して明るい声を出 す。 「ほら、さっきまで皆さんと一緒に踊ったり笑ったりしてたじゃないですか。悪い人は、あん な良い顔で笑ったり出来ませんよ」 「せやけどな、悠羽。なんだかんだ言うても鏖魔って事は」 「大丈夫です。雪那さんは、悪い人じゃありません」 早希の言葉に被せるよう、瞳と言葉に強い意志を乗せた悠羽は、正面からじっと早希を見つ める。 「今すぐ雪那さんを信用してくれ、とは言いません。代わりに、今は、今だけは私を信用して 下さい。お願いします」 媚びるのではなく、あくまで強い意志を乗せた言葉を早希に正面から相対する悠羽は、深々 と頭を下げる。 「な、何も、そないな事までせんでも。ほら、はよ頭上げて」 まさか頭を下げられる事になるとは思っていなかった早希は、予想外の事態に困惑しながら、 悠羽に頭を上げさせる。 「ほんまに、悠羽に頭下げさせるなんて、思いもせんかったわ」 本心を包み隠さず言葉にした早希は、気持ちを落ち着けるために一呼吸の間を置く。 「ま、悠羽がそこまで言うんやから間違いないやろ。皆もそれでええな?」 「おう。悠羽ちゃんの頼みを聞けないような外道は、この整備班にいやしねえよ」 早希の声に応えた男の声が、この場にいる全員の総意であった。 「ほな、セッちゃん。これからよろしく頼むで」 「セッちゃん?」 恐らくは自分の事を指すであろう初めての単語に、雪那は思わず言葉をそのまま返す。 「自分、『セツナ』って言うんやろ? なら、『セッちゃん』でええやんか」 「セッちゃん……ねえ」 まだ慣れない呼び名を、雪那は何度か口の中で転がし、自分の中で感触を確かめる。 「ま、いっか。うん、セッちゃんでいいよ。早希の事は『早希』でいいよね」 「ああ、ええよ。ほな、ウチは『セッちゃん』で呼ばせてもらうで」 もはや互いの間に壁を感じていないのか、二人は仲の良いクラスメイトのように屈託の無い 笑みで、いくつかの言葉を交わし合う。 とても昨夜に敵対していた者同士とは思えない微笑ましい光景に、悠羽は雪那の理解者が増 えた事の喜びを実感すると同時に、ごく小さな、もう一つの感情の芽生えに気が付いた。 ――あれ、なんでしょう。この感じ 早希とは長い付き合いであり、彼女が凌牙と同い年という事もあって、今では姉妹同然の関 係である。 雪那とはまだ付き合いと呼べるほどの時間は経過していないが、どこか兄を感じる彼女もま た、自分にとって大事な存在である。 だというのに、 ――二人が仲良くしている事の、何に不満があるのでしょうか 今までの人生で経験した事の無い感情を、自分自身で整理できない悠羽は、胸の内で広がり 続ける不快な想いを処理できないまま、二人の会話を見ている事しか出来ない。 そして、 「あ、あの!」 自分でも意外なほどの大声で二人の会話を止めた悠羽は、自分が何故こんな声を出したのか 理解出来ずに、ただ頬を紅潮させる。 「ん? どないしたんや?」 「え、あ、あの、私、その」 突然の声に多少驚きながらも、不思議そうな表情で尋ねてくる早希に対し、気持ちを整理で きていない悠羽は、まともな言葉が返せず、ただいたずらに焦燥だけが募る。 「なるほどね」 この場の中で、唯一悠羽の気持ちを理解出来た雪那は、悪戯めい笑みを浮かべると、悠羽の 後ろに回り込み、肩へと手を伸ばす。 「ふふ。悠羽ってば、アタシが早希と仲良く話してるのが気に入らなかったんでしょ?」 「え、そ、そんな事……」 図星を突かれた悠羽は、弱々しく不完全な否定の言葉を漏らすが、その態度は雪那の問いを 肯定する手助けにしかならなかった。 「ごめんね。恋人が他の女と仲良くしてたら、誰だって面白くないよね?」 「………………え?」 何の重みも無く語られたその言葉に、場が凍りついた。 「せ、雪那さん!!」 「セッちゃん……あんた、今、何て言うたんや……!?」 凍りついた空気の中、何とか思考を働かせて言葉を口に出した早希に対し、雪那は先ほどよ りも悪戯っぽい、小悪魔のような笑みを浮かべる。 「だから、アタシと悠羽は、恋人同士なの」 それが決定打であった。 直後、悠羽を早希をも巻き込み、先ほどの騒ぎとは比較にならない、感情の爆発が巻き起こっ た。 先ほどと違い、驚愕や怒り、嫉妬が渦巻く、混沌と狂乱の騒ぎが。 第十話 神炎掌(前編)