それは、ヒトが生み出した、ヒトの姿をしたもの。 それは、ヒトが生み出した、ヒトの持つ技術の極地を体現したもの。 それは、ヒトが生み出した、ヒトのみならぬ全てを破壊するもの。 そして、それは、それら全ての頂点に立つ者。 その名は皇魔。 全ての鏖魔の頂点にして、闘争と破壊の化身。 「次はお前だ」 夜の闇に包まれた創世島を照らすように輝く鋭い純白の装甲を持つ鎧鏖鬼、炎 皇鬼(えんおうき)から、無慈悲な女性の声が響く。 声の正面にいるのは、紅と金の装甲に彩られた、一体の鋼騎。 関節部から白煙をあげながらも二本の足で大地に立つ鋼騎、聖炎凰はその声に 応えず、ただ身構える。 「まずはその四肢を殺す」 互いの間に吹く風よりも速く、白の鎧鏖鬼が動く。 だが、炎皇鬼の背に備わった大きな六枚の翼が生み出す光の軌跡を、向かい合 う聖炎凰に乗る悠羽は知覚する事が出来なかった。 「左脚」 悠羽の知覚は、既に聖炎凰の後ろへ回りこんでいた炎皇鬼から発せられた声と、 「……っ!」 左膝を砕かれ、バランスを失った鋼の身体が傾いたと認識したのと同時であっ た。 咄嗟に左手を着き、右足一本で体勢を立て直す聖炎凰が振り向いた時、そこに 炎皇鬼の姿は無い。 「右腕」 砕かれた聖炎凰の右肘を追いかけるように声が聞こえる。 二度にわたる知覚外からの攻撃に対して繰り出した、聖炎凰の勘に任せた左拳 は、何も捉える事無く空しく宙を裂く。 「左腕」 伸び切った左肘を、純白の影が容赦なく破壊する。 「死が徐々に迫ってくる恐怖は美味か?」 一瞬にして三つの関節を破壊した炎皇鬼は、再び聖炎凰の正面に立つ。 炎皇鬼の動きが止まった事により、ようやくその姿を捉える事に成功した聖炎 凰だが、既に右脚以外の動きを封じられているため、向かい合う敵に対して構え る事は出来ない。 右足一本で己を支え、ただ両腕を力なく下げたまま相手を見据えるしかない聖 炎凰を嘲笑うかのように、炎皇鬼は今までと違い、ゆっくりと一歩前進する。 鋼の身でありながら、人類の技術では到底成し得ない細身を有する炎皇鬼の一 歩は、その見た目を何ら裏切る事の無い、優雅さを伴ったもの。 天使が己の羽を休めるために刻むかのような軽やかで美しい一歩に、聖炎凰は 同じだけ後退し、距離を保つ。 まだ若干の距離があるとはいえ、背の翼を使えば攻撃が十分に届く距離ではあ るが、唯一動く右脚を攻撃に使えば、例え命中したとしても、もはや機体を支え る術は存在せず、無様な姿を晒すだけでしかない。 結局、まともに動くのが白煙をあげている右脚のみ、という状況でできる、こ れが最大限の抵抗であった。 ――これは、前に兄さんと戦った時と同じです……! 両腕と片足の破壊をその身で実感しながら、悠羽は脳内で、近い過去の経験と 現在を結び付ける。 当然の事ながら、聖炎凰の四肢は破壊されたが、フェンサーである悠羽の肉体 に損傷は無い。 だが、HMLSにより感覚を鋼の巨人と合一させている状態における機体の破 壊は、悠羽の肉体ではなく、精神に影響を与える。 即ち、擬似的にとはいえ、自らの手足が破壊された事による喪失感と、それか ら来る幻想の痛み。 肉の四肢を砕かれたものではない、あくまで精神が錯覚して引き起こされた痛 みであるため、それ自体は十分に耐える事の出来るものである。 そして、その痛みは、悠羽の中に一つの映像を浮かび上がらせた。 咬牙王を駆る兄、凌牙の蹴りによってパラディンの左腕を切り落とされた映像 を。 ――そう、今、目の前にいる相手は、兄さんに通じる動きを…… あの時は、凌牙の攻撃が蹴りであると認識できたが、今までの一連の攻撃は、 その中身を感じる事すら出来ていない。 自分の四肢を破壊した攻撃が拳なのか蹴りなのか、もしくは別の何かなのか、 それさえも分からない状態である事を考えれば、目の前に立つ敵の攻撃の方が速 い事になるが、それは大きな問題ではない。 一瞬の加速で相手の死角に回り、関節を破壊する。 真島流破鋼拳の動きの一つであるそれを、誰も知覚できないほどの、まさに神 速で行う事が出来るのは、悠羽が知る限りではただ一人、凌牙だけである。 だが、目の前にいる相手は凌牙では無い。 機体や声の違いだけではない、装甲の奥から伝わってくる、闘気や覇気とでも 呼ぶべきものの質が、明らかに違うのだ。 では、兄に似た動きをする兄とは全くの別人は誰か。 悠羽の中に答えは無い。 「右脚。これで最後だ」 非情に宣告された言葉は、その内容通りの事実をもたらした。 四肢を全て砕かれ、自立が不可能になった聖炎凰は、成す術なく仰向けに倒れ る。 砕剛鬼が塵となって消えた夜空を見上げる聖炎凰の目から輝きは失われてはい ないが、もはや抗うための手段は残されてはいない。 仰向けという姿勢のため、四肢以外に残された唯一の力、背の翼を使う事も出 来ず、悠羽は鋼鉄の箱と化した愛機の中で、ただ破壊の足音が近づいてくる事実 を確認するしかなかった。 「お前も先と同じく、この黒き炎、獄炎掌(ごくえんしょう)で存在そのものを 消し去ってやろう」 そう高らかに告げ、左手に砕剛鬼を葬ったものと同じ黒の炎を宿した炎皇鬼は、 その青の目で、動かぬ聖炎凰を静かに見下ろす。 「さらばだ、悠羽」 「……どうして、私の名前を知っているのですか」 もはや逃れようの無い運命となった死を運ぶ白き死天使の声と、屍同然の鋼騎 から発せられた声が重なる。 「あなたは、一体何者ですか」 死刑の執行という局面に比べれば何の意味も持たないように思える、悠羽の問 い。 悠羽自身、自分の命が間違い無く消え去るという状況の中で、なぜこの言葉が 出たのかは分からない。 強いて言うならば、兄に似た動きをする炎皇鬼の操者の正体を少しでも突きと めようという想いが無意識の内に、この言葉を紡ぎだしていたのかもしれない。 状況から考え、遺言にも似た意味を持つ悠羽の言葉は、彼女の意図を遥かに超 えた結果を生み出す。 炎皇鬼の停止という結果を。 「…………」 悠羽の言葉に対する答えを探しているかのように、左手に黒い炎を宿したまま、 炎皇鬼は動かない。 「……凌牙……静流……悠羽……」 しばしの間の沈黙を破ったのは、これまでとは違う、心を失ったかのような虚 ろな言葉。 「オウマ……ハカイ……シエン……」 壊れたラジオのように、途切れ途切れの短い単語を何とか聞き取れる程度の音 量で繰り返す炎皇鬼の左手から、黒の炎が消える。 次の瞬間、 「ああああああああ!!!」 大地を震わせる絶叫と共に、地面に両膝を着いた炎皇鬼は両手で頭を抱え、苦 痛から必死に逃れるかのように身をのけ反らせる。 「私は!! 我は!! 俺は!!」 いつ果てるとも知れぬ絶叫が続く中、純白の天使は狂ったように六枚の羽を震 わせ、大地をのた打ち回る。 それまで絶対の破壊者として君臨してきた死天使の姿が、今となっては四肢を 失った聖炎凰よりも弱々しく見える。 そして、魂の全てを絞り出したかのような絶叫が終わりを迎えようとすると同 じくして、炎皇鬼の全身が黒い霧に包まれる。 鎧鏖鬼が持つ転移機能の象徴である黒い霧に包まれた炎皇鬼は、当然の帰結と して、その姿を地上から消し去る。 たった一つの相違点を除いて。 「…………人間?」 自分の問いを発端に始まった炎皇鬼の異変を見守るしかなかった悠羽は、その 終わりと同時にコクピットを出て外へと身を晒し、「それ」を見つけた。 砕剛鬼と炎皇鬼という二機の鎧鏖鬼との戦闘により、すっかり荒れ果てた地表 に新たに生まれたのは、一つの人影。 悠羽に背を向ける形で大地に横たわる「それ」は、炎皇鬼の装甲と同じ輝きを 持つ純白の長い髪が背を覆っているため、詳しい姿は分からないが、自分と同じ ヒトの姿をしている事に違いない。 ――やっぱり、あの白い機体に乗っていた鏖魔……ですよね 状況から考えて疑いようの無い結論を胸の内で確認した悠羽は、このまま戦闘 になる事も考慮しながら、恐る恐る「それ」に近付いて行く。 「それ」に接近していく内に、悠羽は次第に相手の詳細を掴んでいく。 最初に確認した通り、「それ」はヒトの姿をしているのだという事。 「それ」は女性の姿をしているという事。 それと、もう一つ。 「眠っているの、ですか?」 接近していく中で新たに芽生えた疑問に、それまで張りつめていた悠羽の緊張 が、わずかに緩む。 悠羽から見えているのは、成人女性の姿をしている「それ」の背中だけである が、その様子は明らかにおかしい。 既に互いの距離は五メートルを切っているにも関わらず、「それ」は一向に悠 羽に対する反応を見せないのだ。 加えて、研ぎ澄まされた悠羽の聴覚が捉えた、かすかな息遣い。 息を潜めて悠羽の接近を待っている者とは決して違うそれは、眠っている時の 呼吸に極めて近い。 これら二つの状況が示す極めて単純な結論を頭の片隅に置きながらも、警戒を 続ける悠羽は、更に足を動かし、「それ」に接近する。 そして、互いの距離が三メートルを切った頃、悠羽は確信した。 ――この人は、完全に眠っていますね ここまで距離を詰める事で得た確信を胸に、警戒を最低限にまで緩めた悠羽は、 早足で「それ」に駆け寄る。 「これが……鏖魔ですか……」 「それ」の正面に回り込んだ悠羽は、自分の見たものが信じられない、とばか りに、ただ茫然と眼下に映るものを見つめ続けていた。 悠羽の視界に映る「それ」は、野球ボールを一回りほど小さくしたような大き さの黒い玉を右手に持ったまま身を丸めて眠る、一人の女性であった。 創世島のみならず、東京や関東一円を一望できるほどの上空に浮かぶ、一本の 巨大な黒の剣、鏖魔の拠点である大型空中戦艦「黒刃」の心臓部である制御室、 その中央に設置された皇魔専用の玉座に、一人の鏖魔が座っていた。 少年のような容姿を有するその鏖魔の名は終破。 容姿には不釣り合いな白のスーツを身に着けた終破は、興味深い舞台を観劇し ているかのように、床に向けた目を細める。 一目で高級だと分かる赤い絨毯が引かれた床に映し出されているのは、創世島 の地表で起こった一連の出来事。 砕剛鬼と聖炎凰の戦いから、悠羽が初めて鏖魔を目にする所までを興味深げに 眺めていた終破は、指を鳴らして床の映像を消し、玉座に深く腰掛けて大きな息 を吐き出す。 「予想外だね、これは」 彼以外に誰もいない制御室の中、終破は静かに独白を始める。 「まさか、彼女があそこまで取り乱すとは思わなかったよ。恐らく、凌牙の血が 混ざってしまって、記憶と人格に混乱をきたしているのだろうけど」 自分の予想外の出来事に対応しかねる、といった様子で宙を仰いだ終破は、間 も無く再度の笑みを浮かべる。 「まあ、これはこれで面白くなってきているのかな。凌牙の妹と彼女が接触すれ ば、色々と楽しそうだ」 そう自分の心を納得させ、これからの新たな展開に笑みを浮かべる終破の耳に、 一つの音が舞い込んだ。 それは、制御室の扉が開く音と、 「終破様、伺いたい事があるのですが」 その奥から姿を見せた、白いスーツを身に着けた女性、斬華の声であった。 「どうしたんだい、斬華」 「私が問わなくとも、終破様には見当がついているはずですが」 来訪者に対し、玉座を立ち、右手を上げて応える終破に、斬華の声が響く。 その声は、普段の彼女のものとは違い、冷たく鋭いものであった。 主である凌牙のみならず、全ての他人に対して一歩引いた距離を置く斬華にし ては珍しい態度に、終破はわずかばかりの驚きを表情に見せるが、すぐに普段の 微笑を取り戻す。 「そりゃ、検討くらいはついてるよ。でも、僕は斬華の口から聞きたいな」 「ならば申し上げます」 挑発しているかのような響きを含んだ終破の言葉に、斬華は、普段の彼女から は決して聞く事のできない、わずかな怒りを滲ませた言葉を返す。 「今回の事、なぜ凌牙様に伝えようとしないのですか」 声だけでなく、普段から感情の起伏がほぼ無い斬華の表情にも、明確な怒りの 色が浮かび上がる。 「怖いね、斬華は」 「私の問いに答えて頂けませんか」 大袈裟に肩をすくめる終破に、斬華の言葉が再び投げかけられる。 「そう焦らないでほしいな。ちゃんと君の質問には応えるさ。だけど、その前に、 一つ確認しておきたい事があるんだけど、いいかな?」 「何でしょうか」 未だに怒りの収まらない斬華を前にしても動揺しない終破は、玉座から斬華の 方へと近付きつつ、口を開く。 「もし僕が、君の危惧している通りの事を思っていたのなら、どうする?」 「私の存在意義は皇魔への絶対なる服従です。もし終破様が、皇魔である凌牙様 に背く事を考えているのなら」 一息。 「全力をもって、終破様を滅ぼさなければいけません」 破壊と闘争を至上の目的とする鏖魔の中において、皇魔の守護という、例外と もいえる役割を与えられた斬華の言葉に、終破は一つの反応を示した。 口元に浮かべる笑みを別の物へと変えるという反応を。 「へえ。斬華が僕を滅ぼす、とはね」 言葉と共にこみ上げてくる笑いを抑えるかのように、終破は俯き、右手で髪を 乱暴に掻き毟る。 「随分と面白い事を言うじゃないか」 そう告げ、顔を上げた終破を見る斬華の表情が、文字通り凍りついた。 終破とは、軍隊で言うならば同じ部隊の仲間であり、始炎が皇魔であった頃か ら、それなりに長い時間を共に過ごしている。 だが、斬華は今まで知らなかった。 終破が、鏖魔がここまで狂気を、あるいは狂喜を表現できるものなのだと。 かつて、自分達が生まれた世界を破壊し尽くしていた頃、斬華はその役割上、 始炎と行動を共にしており、他の鏖魔は別々に行動していた。 そのため、斬華は破壊を行う終破の姿をほとんど見た事が無かった。 それ故、今、初めて目の当たりにしたものを容易に受け入れる事が出来ない。 どこまでも狂い、壊れた愉悦に魂を奪われた、禍々しい、悪魔の笑みを。 「なるほど。確かに君となら面白い闘争ができそうだ」 もはや同じ鏖魔とは思えない終破の言葉と視線が、斬華を絡め取る。 通常の精神を持つ者なら、それだけで発狂してしまいそうな圧迫感を与える 終破に、しかし斬華は怯まない。 彼女もまた鏖魔であり、皇魔のためになら命を捨てる事さえも躊躇わない存 在である。 「終破様の気持ちが真にそうであるなら、もはや言葉は必要ありません」 小さいが力強い呼吸を二度繰り返した斬華は、既に互いの間合いに入ろうと している終破を見据える中で、自分の武器である離界刀(りかいとう)を手に していない事実を悔やむ。 己の肉体と、各自に付与された特殊な能力を頼りに戦う鏖魔の中で、斬華は 数少ない、武器の使用によって全力を発揮できるタイプの鏖魔であった。 無論、武器が無くとも鏖魔としての高い戦闘能力は持っているが、やはり離 界刀がある時と比べれば心許ないのは事実である。 更に、相手が終破である事も、斬華の中に影を落とす。 もともと至高の戦闘能力を持つ皇魔に付き従うために生み出された斬華は、 その役割に相応しい、並の鏖魔を凌ぐ戦闘能力を有している。 その斬華からしてみれば、例え素手であろうとも、並の鏖魔なら恐れる事は 無い、ただ滅ぼすだけである。 だが、今、彼女の眼の前にいる鏖魔、終破は違った。 先代の皇魔、始炎が、その名の通り人類が生み出した最初にして最強の鏖魔 であるように、終破もまた、その名で存在の一端を表している。 終破という名の意味、それは、 「終わりを呼ぶ破壊にして、破壊を呼ぶ者の終わり。ヒトが生んだ、最後にし て究極の鏖魔である僕に、まさか勝てるとは思っていないだろうね?」 その瞳に抑えきれない破壊衝動を宿した終破が、互いの手足が届く間合いに まで距離を縮める。 「勝利は必要ですが、それ以上に必要なのは、私が私の意義を全うする事です」 言葉よりも速く斬華が動き、左の貫手で先手を取る。 雷光のような速度を乗せた斬華の貫手の狙いは、終破の目。 人体の中でも、目は小さく、ピンポイントで狙うには難しい場所であるが、 腹や胸を場合を狙った場合は、筋肉に阻まれて思ったような効果をあげられな い恐れがあるため、生体兵器である鏖魔といえど強度の高くない眼球に狙いを 絞ったのだ。 当然、鏖魔にとっても眼球の破壊は失明につながり、光を失った状態での戦 闘能力は、平常時に比べて格段に落ちる事は確実である。 「いや、やっぱり止めにしよう」 急所を狙った斬華の先制攻撃は、突如として狂気を失った終破の右手によっ て止められた。 「こんな所で僕達が殺しあっても仕方ないだろう? それに、僕は凌牙に対し て敵意なんて持ってないよ」 斬華の五指を右目の数ミリ前で止めた終破は、右手で彼女の左手首を掴んだ まま、普段の笑みを取り戻す。 その余りに唐突な豹変ぶりに戸惑う斬華であったが、既に終破から戦う意志 を感じ取る事が出来ない。 「ま、そういう訳だから、斬華も引いてくれると助かるよ」 「……了解しました」 終破の言葉に完全な納得をしないまま、斬華は掴まれている手を振りほどき、 一歩後ろへ下がる。 「本当に、凌牙様に対する背信を抱いてはいないのですね」 「嘘は言わないさ。それに」 つい先ほどまでと同一人物とは思えない、普段のような少年の純粋さを見せ る終破は、悪戯っぽい笑みを浮かべて右手を開き、斬華に示す。 「もし僕が本気なら、この右手が君を終わらせていたよ」 終破の言葉に、斬華は無言の肯定で返事をする。 彼の言葉通り、もし終破が本気でこちらを滅ぼしに来ていたのなら、左の貫 手を掴まれた時点で全てが終わっていたのだ。 終破に与えられた能力は、終わりを呼ぶ破壊という、彼の名に相応しいもの であるために。 だが、現実は違い、斬華は傷一つ負う無く生きている。 「まあ、凌牙に事実を伝えていなかった事は確かだけどね。君がそれを気に入 らないと言うのなら、今からでも伝えに行くよ」 「凌牙様はただ今睡眠中です。報告は目覚めた後にお願いします」 既に落ち着きを取り戻しつつある空気の中、二人は普段と変わらない口調で 言葉を交わす。 「分かったよ。じゃ、凌牙にはまた後で、という事で」 そう言い残し、終破は軽い足取りで制御室を後にした。 「終破様の本意は、果たしてどこにあるのでしょうか」 最後まで本心の見えなかった終破の意図を見つけるかのように、斬華は彼の 右手に掴まれた左手首を見るが、そこに答えは記されてはいなかった。 砕剛鬼と炎皇鬼との戦いから一夜が明けたメタル・ガーディアンの内部は、 一種の騒動の最中にあった。 その騒動には、格納庫に閉じこもり、四肢を破壊された聖炎凰の修理に追わ れる整備班以外のほぼ全ての男性のスタッフが関わっていた。 それは、 「昨日の戦闘で、ついに鏖魔を捕まえたらしいぞ!」 「なんでも、すごい美人らしい!」 「俺が聞いた話では、悠羽ちゃんが巨乳美女を捕まえたって話だが」 「しかも全裸で!」 「つまり、巨乳が全裸なんだな!」 「違うぞ! 全裸が巨乳なのだ!」 「むしろ、巨乳と全裸をイコールで結んでやれば……」 「という事は、要するに巨乳と全裸は等しい存在に!」 「ならば、我らの巨乳女神、ソフィア様もまた全裸!」 「ビバ! 巨乳! ビバ! 全裸!」 「ビバ! 全裸! ビバ! 巨乳!」 憶測が憶測を呼び、情報の混乱を招いた結果、眠れる美女がいるという医務 室の前には、主に男の人波が押し寄せていた。 だが、その人波と熱狂も長くは続かない。 「はい、そこまで」 医務室のドアの前で門番のように立ったソフィアの一声で、暴徒寸前にまで 熱を上げていた人波は、途端に勢いを失う。 もっとも、これはソフィアの声だけでなく、彼女が両手で握る、巨大なリボ ルバータイプの拳銃の存在も大きかったのかもしれないが。 「正直、私は昨夜の戦闘のおかげで寝てないから、少しイライラしてるの。だ から、今日はちょっと引き金が軽いかもしれないわよ?」 そう言ったソフィアは、威嚇とばかりに銃口を群衆に向ける。 「これ、ツェリスカっていう銃だけど、知ってる? 象だって殺せる化物みた いな銃なのよ? といっても、これはその中身を改造して、非殺傷のゴム弾に 変えてはいるけどね。でも、ゴム弾とはいえ、この口径の銃から撃ち出された ら、その威力は……ねえ?」 後半部分にサディスティックな笑みを織り交ぜながら語るソフィアの前に立 つ人々の顔が、一気に青ざめる。 「あ、もしこれで撃たれて大変な事になっても労災は下りないから、そのつも りでね?」 その言葉を最後に、医務室の前を占拠していた人の波は、進路を変えた台風 のような勢いで消えていった。 「まったく、何をどうすれば、あんな騒ぎになるのかしら」 人の持つエネルギーの神秘を垣間見たソフィアは、六キロという重量を誇る ツェリスカを持つ両手を下ろし、一息ついてから医務室のドアを開ける。 白を基調とした、学校の保健室をスケールアップしたような医務室にいるの は、今の所、ソフィアを入れて四名である。 一人は、医療班の主任であり、この部屋の主である相馬和彦。 もう一人は、この組織の長であり、彼女の夫でもある真島烈。 最後の一人は、部屋の奥のベッドで静かに寝息を立てたまま目覚めない、白 髪の女性。 昨夜の戦いで悠羽が確保した、鏖魔と思われる女性である。 「人払い、ご苦労だったな」 部屋の手前の事務机で書類を書きながらソフィアを労うのは、和彦であった。 「ええ」 書類に視線を落したまま彼女と目を合わせない和彦に、ソフィアもまた、彼 を一瞥もしないまま、短い返事だけを残す。 和彦と烈は高校の頃からの付き合いで、互いに親友と呼べる仲であるが、烈 の妻であるソフィアとの関係は、決して良好とはいえない。 互いの仲を遠ざける出来事があった訳ではないのだが、ただなんとなく、と いうレベルの不和を互いに抱いてしまっているのだ。 多少意識的に遠ざけている関係ではあるが、それで特別な不都合が生じてい ない現時点では、現状のままで構わないだろう、と判断しているソフィアは、 部屋の奥に備え付けられたベッドへと足を向ける。 昨夜の時点でこのベッドを使用している者がいなかった事が幸いして、今、 この医務室は鏖魔専用のものになっている。 先ほどの騒ぎが示すように、もはや鏖魔を確保した事を隠す理由などどこに も無いのだが、それでも無闇に人目に晒すべきではない、という判断である。 ちなみに、この医務室を閉鎖している間は、使われていなかった部屋の一つ を臨時の医務室として使用しており、和彦以外のスタッフはそちらを担当して いる。 鏖魔を生きたまま確保するなど、当然、今までの人類の歴史には無い経験で ある。 昨夜の戦闘で死亡したと思われる虎強と名乗る鏖魔は日本語を巧みに操り、 こちらとのコミュニケーションを円滑に行う事が出来た。 恐らく、悠羽が確保した女性の鏖魔も同じく日本語を解せると思って間違い 無い。 互いの間でコミュニケーションが可能であるならば、この鏖魔が持つ価値は 計り知れない。 なにしろ、今まで人類が翻弄されてきた謎の破壊者である鏖魔の情報を引き 出す事が出来るのだ。 そのためには、と、ソフィアは思考のネジを締め直す。 ――どんな手を使ってでも、情報を聞き出さないと 鏖魔の情報を得た分、こちらは有利になるのだ。 それは、自分の娘である悠羽の命を守る事にも繋がる。 昨夜の戦闘で、ソフィアの精神はこれ以上ないほどに疲弊してしまった。 愛しい娘が何度も命の危機に晒されている姿を平然と直視できるほど、彼女 の精神は頑強では無い。 結果として、悠羽は外傷も無く帰ってくる事が出来たが、次も無事に帰って くる保証などどこにもない。 ならば、自分の手がどれだけ汚れようとも、娘のために鏖魔の情報を聞き出 す。 そう決意したソフィアは、鏖魔が眠るベッドのカーテンを開ける。 その先にいたのは、昨夜から一向に目を覚ます気配の無い鏖魔と、 「あ……ソフィア」 彼女にかかるシーツを取り除き、間に合わせで用意した白いシャツを今まさ に剥ぎ取らんとする夫の姿であった。 「まあ待て。しばし待て。これには深いワケがあってだな。つまり、なんとい うか、その」 「夫婦の誓い第四十二条、とりあえず死になさい」 ツェリスカを両手で構え直したソフィアは、夫に向かって躊躇う事無く引き 金を引いた。 頭からかかるシャワーの冷水が、悠羽の意識を急速に覚醒へと導く。 気だるさを纏わりつかせた身体に冷水の温度が心地良いと感じながら、悠羽 はシャンプーを手に取り、丁寧に髪を洗っていく。 昨夜、命の危機に瀕した戦闘の果てに、一人の鏖魔と思われる女性を確保し た後、それまでの疲労と緊張の糸が切れた悠羽は、気絶するように眠りへと落 ちてしまったのだ。 あれだけの戦闘をしたばかりだというのに、目覚めてシャワーを浴びている と心が落ち着くのは、日頃の習慣によるものなのか、と悠羽は自分の心に疑問 を持ちながらもシャワーの温度を上げ、髪を覆う泡を洗い流す。 その後、コンディショナーを髪に馴染ませていく悠羽は、水を弾く、美しく 引き締まった、強くしなやかな身体を見渡す。 あれだけの戦闘にも関わらず、自分の身体に外傷が無い事実に驚きと安堵を 交える一方で、手足に重さを感じるのは、愛機である聖炎凰が四肢を破壊され た事による精神の痛みを引きずっている証拠である。 同時に、悠羽は早希や鉄男を始めとする整備班が懸命に仕上げた聖炎凰を破 壊されてしまった事実に、胸を痛める。 ――私が、私がもっと強ければ、こんな事には…… 五年前、既に完成された強さを誇っていた凌牙は、鏖魔との戦いにおいて咬 牙王に損傷を与えはしなかった。 格闘術を武器とする機体だけあり、関節や末端部の消耗は激しく、その整備 をする事は幾度となくあったが、今回のような破壊による整備をしていたとい う記憶は、悠羽の中には無い。 五年前の鏖魔の侵攻に、砕剛鬼や炎皇鬼のような有人の鎧鏖鬼は一度も姿を 見せてはおらず、聖炎凰の左手には、悠羽の能力である神炎掌(しんえんしょ う)を発現させるためのシステム、機結陣(きけつじん)は搭載されていない。 そういった条件の違いはあるが、悠羽はそれで良し、とする事は出来なかっ た。 例え同じ条件下にあったとしても、聖炎凰に乗っているのが凌牙であったな ら、結果は変わっていたであろう。 彼は右手に宿る能力を使わなくても、誰よりも強い、そう言い切る事が出来 る。 全てを決めるのは、敵の強弱や能力の有無では無い、自分の力なのだ。 そう結論を出した悠羽は、再度髪を丁寧に洗い流した後、シャワーの勢いを 強め、頭からそれをかぶり続ける。 ――強くなるためには、どうしたらいいですか 正面の鏡に映る自分自身に対する問いかけへの答えは、既に分かっている。 戦闘能力を高めるための手段は、大きく分けて二つ。 一つは、武器などの外的な力を身に着け、それを行使する。 例えば、銃を持てば、手足の届く範囲の遥か先から、挙動一つで必殺に近い 一撃を撃ちだす事が出来る。 射程距離と破壊力、戦闘を有利に進める上で絶対的な力である二つの要素を 兼ね備え、それを簡単に行使できるからこそ、銃という道具は、多くの人々に とっての力の象徴なのである。 だが、悠羽はその選択肢を選ばない。 確かに素人同士の殺し合いであれば、銃ほど心強いものはない。 しかし、今の自分が戦う相手は、決して素人などでは無い。 ある程度以上の遠距離からの攻撃を完全に無効化する能力を持つ鎧鏖鬼では あるが、互いに向かい合うほどの距離であれば、銃火器の使用に問題はない。 事実、鋼騎を擁する軍隊では、重装甲と刀剣類で身を固めた前衛と、軽装甲 で動きの制約を極力無くし、前衛の隙間から銃火器で鎧鏖鬼を狙い撃つ後衛に 分けてチームを組むのが常識である。 近接戦闘の中で、弾丸の持つ速度は大きな武器であり、研ぎ澄まされた精密 射撃は、鎧鏖鬼の急所を一瞬で貫く事が出来る牙となる。 だが、これは射手が狙いを定める間、敵の動きを封じる前衛がいるという事 と、射手自身の腕が熟練のものである、という前提条件が必要になってくる。 当然、悠羽にはそのどちらも欠けている。 達人以上の動きで迫る鎧鏖鬼を相手に、素人丸出しの腕しかない銃火器を装 備した所で何になるというのか。 同じ理由で、刀剣類も悠羽には扱えない。 凌牙が去り、今に至るまでの五年間で鍛えた技は、自身の肉体をどう使い、 相手を破壊するか、それだけである。 自身が力を得るための理由のもう一つは、鍛錬。 己の肉体と精神を今以上に研ぎ澄まし、技を磨く、というものである。 自身の五体以外に武器を持たない悠羽にとっては、もとより、この選択肢以 外に道はない。 が、この方法には大きな欠点がある。 それは、時間。 鍛錬と一口にいっても、一日や二日で見違えるような成果は出るなどあり得 ない。 何年もかけて地道に努力を積み重ねた結果、今以上の強さを手に入れる事が 出来る、それが鍛錬というものである。 これまでの五年、そうやって自身を高めてきた悠羽にとって、日々の積み重 ねの重みは十分以上に理解している。 同時に、その即効性の薄さも。 昨夜の戦いで勝てなかった相手よりも強い鎧鏖鬼が、今日にでも現れるかも 知れない。 そんな状況の中、悠長に鍛錬を積み重ねて強さを磨いていく時間は、どこに も無い。 武器の類は使いこなす事が出来ない。 地道な鍛錬では時間がかかりすぎる。 どちらにも決定的な穴がある選択肢の答えを出せない悠羽の脳裏に、一つの 姿が浮かび上がる。 昨夜、自分が確保した鏖魔の女性の姿が。 虎強が炎皇鬼と呼んだ白い鎧鏖鬼を駆っていたのが彼女であるならば、彼女 は兄に近い実力を持っている可能性が高い。 ならば、彼女に聞けば、何かしらの回答が得られるのではないか。 少なくとも、こうやって一人で悩んでいるよりは遥かに良い。 「……よし、そうしましょう!」 シャワーを水を止め、水飛沫を飛ばす犬のように頭を左右に振り回した悠羽 は、足早にシャワールームを出ると、彼女の元へ急ぐべく準備を始めた。 「……で、来てみたはいいですが」 シャワーを終えた後、髪を乾かす間も惜しんで医務室へと駆け付けた悠羽で あったが、 「何でまだ寝てるんですかこの人は……」 自分が頼りにしていた希望があっさりと砕かれたショックで、悠羽は肩を落 とし、寂しげな視線を眠ったままの鏖魔へと向ける。 「昨夜からずっとこのままよ。声をかけても叩いても音を鳴らしても起きない のよ」 どうしたものかと思案するソフィアは、疲労が伺える美貌をベッドの脇でう ずくまる夫に向ける。 「あなた、この問題を解決したら、さっきのは不問にしてあげてもいいわよ?」 「不問も何も、もう刑は執行済みじゃねえか」 力無くそう返し、呻き声をあげてうずくまる烈の姿に、悠羽は母に疑問の視 線を投げかける。 「お母さん、お父さん、一体、どうしちゃったんですか?」 「悠羽は知らなくていいのよ。万年発情期のケダモノの処理の仕方なんて」 「ちょ、おまっ、人のタマ撃っといてそりゃ」 「あら、まだそんな元気があるのね、なら、もう一発撃っちゃおうかしら?」 「……すいません勘弁して下さい」 普段通りの両親のやり取りを聞きながら、悠羽は再度視線を眠ったままの鏖 魔へと戻す。 鏖魔というものがどういう姿をしているのか、具体的に想像した事は無かっ たが、それでも自分と全く同じ姿をしている事実には驚きを隠せない。 全ての色を寄せ付けない純白の髪、透き通るような肌、眠っていても分かる、 完璧すぎるほどに造形され、整えられた顔立ち。 そのあまりに完成された美しさは、彼女がこの世のものではない、そう思わ せるほどの魅力を秘めていた。 生まれてから今までの人生をこの島で過ごしてきた環境からか、異性に対す る特別な感情というものを持ち合わせた事の無い悠羽でさえ、眠っている彼女 を見つめていると、不自然なまでに身体が熱くなってくるのが分かる。 ――ど、ドキドキです…… 人生初であろう胸の高鳴りを隠すかのように、鏖魔から目を背けた悠羽は、 紅潮した頬を両手で隠しながら、彼女を目覚めさせる方法を思案する。 ――ええっと、こういう場合は フェンサーという仕事柄、人命救助の知識は人並み以上に持っているが、今 回は意識を失っているのではなく、眠ったまま目覚めない、というケースであ る。 当然、そのようなケースに対応できる知識は悠羽の中には無いが、思考は進 んでいく。 恐らく、通常の人間が目覚めるであろう方法は一通り試されているはずなの で、それを上回る何らかの対処が必要なのだろう。 よく見れば、彼女の額に丸い赤の跡がついているが、これは恐らくソフィア が烈に使用したものと同じ弾を撃った証拠であろう。 いかに急所とはいえ、大の男が立てなくなるほどの威力を持つ弾を受けても なお起きない、というのは、どこからどう見ても異常である。 それ以上の衝撃、例えば自身の力を込めた打撃を当てれば、結果は変わって くるのかもしれないが、鏖魔の肉体の強度が分からない以上、あまり無茶をす る訳にはいかない。 あくまで起こす事が目的であって、殺す事が目的ではないのだ。 思考を進める中、悠羽は自分の左手に視線を移す。 そこに宿るのは、全てを灰に変える力を持つ炎の力。 そして、昨夜見た純白の鎧鏖鬼もまた、炎の力をその左手に宿していた。 自分とは違う、黒い炎を。 ――もしかして、私の炎を近付ければ何か反応してくれるかも知れません 一瞬、そんな考えが頭をよぎり、思わず左手に意識を集中させようとするが、 ――だ、ダメです! もし間違えてこの人を燃やしてしまったら大変です! すぐに思い直し、左手から意識を離す。 「困りました……」 図らずも、思いを口に出してしまったその瞬間、悠羽に再度の閃きが訪れた。 ――間違いありません。これなら目が覚めるはずです! その閃きの元となったのは、小さな頃読んだ、あるいは読み聞かせてもらっ た物語。 とある美しい姫が、陰謀によって目覚める事の無い眠りに落ちてしまう。 それを救ったのは、 ――王子様のキス、です 記憶の中から呼び覚ました物語の内容を追いかける悠羽は、その結末までを 追想し終えた後、この方法が正しいのだという、確信の頷きを繰り返す。 だが、ここで悠羽は新たな壁にぶつかった。 方法は分かったものの、肝心の「王子様」なる人物がどこにもいないのだ。 この部屋の中にいる男性は烈と和彦だが、どちらも王子様ではない。 それどころか、この島にいる男性を全て連れてきた所で、王子様などいるは ずが無い。 せっかくの考えも無駄になってしまった、と悠羽は諦めかけたが、そこに別 方向からの閃きが駆け抜けた。 それは、 ――とりあえず、キスしてみましょう 閃きというより、当初の考えを変な方向に捻じ曲げてしまった結果、キスと いう行為だけが残ってしまったかのような考えだが、悠羽はその考えに満足の 笑みを浮かべ、頷く。 「では、失礼します」 相手の了承を得ないままの行為に多少気が引けたのか、悠羽は形だけとはい え、断りの言葉を前置きし、自分の唇を一気に眠ったままの鏖魔の唇に重ねる。 そのあまりに突然の行為に、延々と小競り合いを続けていた烈とソフィアは、 娘の行動を理解するのに、数瞬の時間を要した。 眠ったままの鏖魔を起こすための考えを練っていた娘が、いきなりキスを始 めた。 常軌を逸したその行動に、烈とソフィアは互いに顔を見合わせ、かけるべき 言葉を探すべく、脳を高速で回転させる。 「ん……」 唇越しに鏖魔の体温を感じながら、悠羽は目を開き、この行為が実ったかど うかを確認する。 そこには、自分を見つめる、二つの紅の瞳があった。 「や……やった! やりました!」 唇を離し、自分の考えが正しかった事の喜びで飛び上がりそうになった悠羽 は、両親にも確認を仰ぐべく、玩具をねだる子供のように、それぞれの服の裾 を引っ張る。 「悠羽、お前、今、そいつに、初めての、初めての」 「ちょ、ちょっと待ってね悠羽。お母さん、とりあえず色々考えなくちゃいけ ないから」 だが、悠羽の行為がもたらした結果よりも、行為そのものの方が重大であっ た両親は、未だ混乱から抜け出せないまま、娘にかけるべき言葉を探している。 「ふぉえ〜〜」 そして、悠羽のキスによって目覚めた鏖魔は、見た目にそぐわぬ間抜けな声を 出しつつ、その上体をベッドから起こし、その覚醒を主張した。 第八話 失われた名前、与えられた名前(前編)