どこまでも続く直線のみで構成されている黒刃の通路に、三人の足音が響く。 「さて、目的地に着くまでには少し時間があるから、何か話でもしようか」 少年のような無邪気な声を発したのは、先頭を歩く終破であった。 その言葉に、後ろから付いてくる二人、凌牙と流鰐(るがく)の返事は無い。 終破のすぐ後ろにいる二人は、それぞれの顔に異なる表情を浮かべたまま、無 言で足を動かしている。 周囲の空気さえも殺してしまいそうなほどの殺気を全身から放つ流鰐に対し、 凌牙はこれから行われる戦闘に一切の関心がないかのような表情を浮かべている。 両者の温度差の激しさに、終破は思わず笑みをこぼしながら言葉を続ける。 「凌牙、君は鏖魔についてどれだけ知っているのかな?」 名を呼ばれ、意識を前方の終破へと向けた凌牙は一瞬の思考の後に口を開く。 「何も知らん、と言うのが正直な所だ。そもそも、お前達は人間と接触を図った 事があるのか」 「それもそうか。今まで行った二度の戦闘は、無人の鎧鏖鬼ばかり出していたか らね。なら、今から新たな皇魔に向けての楽しい講義の時間だ。暇潰しにはちょ うど良いね」 凌牙の言葉を聞き、自分の質問の無意味さに気付いた終破は、前を向いたまま 次の言葉を生み出す。 「まずは、僕達の世界について説明しようか」 ここで一度言葉を切った終破は、通路の左右に多数ある部屋の扉の中で、前方 の一つを指さす。 「例えば、あの部屋が凌牙の世界だとしよう。それで、その中に置かれた様々な 家具は国家や大陸という事にする」 終破の指がその隣の扉を指す。 「で、こっちの部屋が僕達がいた世界だとする。中に置かれた家具、国家や大陸 は違っても、基本的な作りは変わらない。当然、そこには二本の足で大地を踏み しめる人間が文明を発展させながら住んでいたよ」 それでね、と前置きをした終破は指を互いの扉の間の壁へと動かす。 「凌牙の世界と僕達の世界の間には見えない壁がある。ちょうどこんな感じでね。 だから、本来ならお互いの世界の住人が干渉する事はないんだ。けれど、僕達の 世界は、この壁を越える技術を手に入れた」 「それが、この世界の空に開けられた魔界穴か」 終破の説明を聞く凌牙の脳裏に、二十年前はモスクワ上空に、五年前は東京上 空に開けられた異次元への穴の光景がよぎる。 同時に、凌牙の内側に一つの疑問が浮かび上がる。 「ひとつ聞くが、お前達がこちらの世界に攻撃を仕掛けてきた目的は何だ」 それは、鏖魔という有史以来初めてとなる異界からの外敵に直面した人類の誰 もが抱いた最大の疑問であった。 突如として空に現れた巨大な戦艦と、破壊の限りを尽くす無人兵器は、人類に 戦闘行為以外の接触を図ろうとはしなかったため、その目的を知る術は誰も持ち 合わせていなかった。 「僕達の目的かい? そうか、凌牙は、こっちの人間は本当に何も知らないんだ ね」 その疑問が余りにも意外だったのか、終破は凌牙の顔を不思議そうに見つめた 後、 「僕達は全てを破壊したいだけだよ。鏖魔にあるのは、ただ純粋な破壊衝動だけ なんだからね」 そう、当然のように口にした。 「鏖魔というのはね、僕達の世界の人間が生み出した生体兵器なんだよ。兵器と しての戦闘能力だけでなく、ヒトと同じ自我、感情、生殖機能さえも与えられた 個体。正式には『甲種自律式完全殲滅兵器』って言うんだけどね。自分で考え、 行動し、その気になれば生殖活動を行って個体数を増やす事も出来る。どうだい、 なかなか優れものだろう?」 鏖魔と遭遇して二十年、人類が抱き続けてきた疑問に対する答えを述べる終破 の言葉は続く。 「僕達を生み出した人間に少し先の事を考える力が無かったのか、それとも、技 術者としての限界に挑戦したかったのかは分からないけど、闘争本能ばかりが発 達した上に、自我を持った兵器が大量に生み出された結果がどうなるかは……考 えるまでもないね」 過去を振り返っているのか、この場ではないどこかを見据える終破の口の端が わずかに歪む。 いつもの少年らしい笑みではなく、残忍で凶暴な悪魔の笑みの形に。 「蹂躙に蹂躙を重ねるような闘争を続けた結果、海は枯れ、大地は砕け、僕達の 世界は生命の存在しない死の世界になってしまった。僕達は最後の生き残りとい う訳さ。そして、次の破壊を求めた僕達は、この黒刃に搭載された次元超越装置 を使って、この世界にやって来た」 「なるほどな。鏖魔とはよく言ったものだ」 鏖魔の存在と、その意義を知った凌牙だが、その表情に変化は無い。 「おや、冷静だね」 「以前なら驚いて見せたかもしれんがな」 「意外とつまらないものだね……と」 無感動な声で吐き捨てるように呟く凌牙の前で、終破の足が無骨な黒い金属の 扉の前で止まる。 「到着だよ」 言葉と同時に扉に手をかけた終破は、重い金属の扉をゆっくりと開く。 制御室の扉とは違い、断末魔のような高音を響かせながら開いていく分厚い金 属の扉の奥に広がっていたのは、灰色の空間であった。 コンクリートのような灰色の壁に四方を囲まれたその部屋は、最低限の明かり を確保するための照明以外に一切の調度品が存在しない殺風景なものであるが、 ただひとつ、大きな特徴があった。 部屋の中央部が周囲の床に比べて一メートルほど高い位置にあるのだ。 約五メートル四方の広さを持つその部分は、まるでロープのないリングのよう にも見える。 「ここなら多少派手に暴れても問題無いから、好きにしてくれて構わないよ」 「上等じゃないか、終破」 終破の言葉が終らない内に、彼の後ろから空を飛ぶように跳ねた流鰐が、部屋 の中央部に着地する。 「さあ来な! この流鰐がアンタを消し去ってやるよ!」 一足早くリングの上に降り立った流鰐の言葉に、凌牙は彼女に聞こえるよう、 故意に大きく息を吐き出す。 「弱い犬ほど……というやつだな。そう吠えなくとも相手をしてやる」 今から戦闘に臨むとは思えないほどに落ち着いた動作でリングに上がった凌牙 は、もう一度大きく深呼吸を行い、流鰐との距離を取る。 「流鰐、と言ったな」 「あん?」 流鰐と約三メートルの距離を取った凌牙は、初めて彼女の名を呼ぶ。 「お前では俺の相手にはならん。だから、少しハンデをくれてやる」 次の瞬間、凌牙の取った行動を理解した流鰐の顔に、今まで以上の怒気が湧き 上がる。 「両手を引っ込めるとは、どういうつもり……!」 その言葉通り、凌牙は両手をポケットに入れた姿で流鰐と対峙している。 「見ての通りだ。お前の相手など足だけでも十分すぎる。ただし、だ」 際限なく怒りを沸き上がらせていく流鰐の姿を嘲笑うかのような態度の凌牙は、 右手をポケットから出して五指を広げる。 「この右手は一度だけ使わせてもらう。お前の息の根を止める、その時に」 必殺の力を有する右手を再び元の位置に戻した凌牙は、自分の立つリングの大 きさを確認するように周囲へと視線を巡らせた後、更に言葉を続ける。 「……まだ不十分か」 その言葉の意味を理解しようとする流鰐に、凌牙の言葉が重なる。 「もしお前が俺に一撃でも当てるか、俺をリングから落とす事が出来たなら、そ の時はお前の勝ちだ。俺が自ら自分の命を絶ってやろう」 凌牙の言葉を聞く流鰐の顔は、もはや怒りという言葉では表せない領域に達し ていた。 目の前の男が発した言葉は、生体兵器である流鰐のプライドを粉砕するには十 分すぎるものであった。 ――こいつは殺す! 完全に殺し尽くす! 禍々しい感情が流鰐の胸を黒く染め、全身の筋肉が闘争を始めるための力を生 み出す。 「死んで後悔しな!」 自らが放った怒号よりも早く動いた流鰐は、一直線に凌牙へと向かった。 目の前に立つ相手を、その存在ごと消し去るために。 ――呼吸を通じ、己が身体に自然の気を取り入れる 深呼吸を何度か繰り返す凌牙の脳裏に浮かぶのは、かつての師として仰いだ、 育ての祖父ともいえる男、真島剛の言葉。 彼の先祖が編み出し、真島家に代々受け継がれた格闘術、真島流破鋼拳の基礎 であり、奥義の一つとされる、人体の持つ力を最大限に引き出す特殊な呼吸法、 練呼法(れんこほう)は、人ならぬ身となった凌牙の肉体にも同様の効果をもた らす。 回数を重ねるたびに、凌牙は自分の感覚が鋭くなり、肉体に力が漲っていく実 感を得る。 「死んで後悔しな!」 場の空気を震わせる声と共に一直線に向かってくる流鰐の動きを見ながら、凌 牙は静かに呟いた。 「死ぬのは、お前だ」 終破の後を追った斬華が到着したのは、両者の戦闘が始まって五分ほど経って からであった。 「やあ、遅かったじゃないか」 「終破様が自分の位置を知らせてくれなかったので、少し手間取りました」 笑みを浮かべて迎える終破に普段通りの抑揚の無い声で応える斬華は、視線を 部屋の中央に向ける。 「凌牙の様子が気になるかい?」 「いえ、凌牙様に万が一の事態など有り得ません。ですが」 終破の言葉を否定した斬華は、自分の見ている光景の不可解な点を口にする。 「なぜ、凌牙様は一切の攻撃を行っていないのですか」 「ああ? そりゃマジかよ?」 斬華の言葉に反応したのは、彼女の後に続いた鏖魔の中で先頭に立っていた臥 重であった。 「君達も見に来たのか。まあ、よく見ておくといいよ」 斬華達五人の鏖魔を部屋の中に入れた終破は、再び部屋の中央で行われている 戦いへと意識を向ける。 「彼がどうして皇魔になり得たのかをね」 ――なぜ! なぜ当たらない! 弾丸のような速度で左右の拳の連打を繰り出す流鰐は、目の前の現実を拒もう と、ただ一心不乱に身体を動かし、攻撃を繰り返す。 決して届かない攻撃を。 「どうした。一撃でも当てる事が出来ればお前の勝ちだぞ」 至近距離で放たれる拳の連打を上体の動きのみで難無く回避する凌牙は、口に 嘲笑の笑みを浮かべたまま、一切の反撃を行わない。 「その笑いを! 今すぐ消してやる!」 凌牙とは対照的に、どこまでも熱くなっている流鰐は拳だけでなく、足、膝、 肘など全身のありとあらゆる場所を用いて様々な攻撃を浴びせかけるが、その全 てが凌牙に掠る事さえ無く、虚しく宙を舞う。 「これだけの時間を使っても俺に一度も当てる事が出来ないのだ。笑いたくもな るだろう」 両手をポケットに入れたまま、閃光のような流鰐の右回し蹴りを軽いステップ で回避した凌牙は、入口付近に集まる終破以外の鏖魔の姿を確認する。 「他の鏖魔も揃ったか。せっかく仲間が集まったのだ、もう少し頑張ってみたら どうだ」 「黙れ! お前だけは殺す!」 余裕を崩そうとしない凌牙に、殺意の塊と化した流鰐は下から突き上げ左の掌 打を放つが、これも標的を捉える事無く宙に舞う。 即座に左腕を戻した流鰐は槍のような中段蹴りで追撃をするが、凌牙はこれを バックステップで回避。 その瞬間、連撃を外した流鰐の口に笑みが浮かぶ。 「かかった!」 戦闘が始まって以来、初めてとなる歓喜の声をあげた流鰐は、凌牙に向かって 加速する。 今、凌牙の立つ位置は、正方形のリングの角の端。 それは、切り立った崖の先端と同じく、左右どちらにも逃げ場が無い事を意味 している。 届く事の無い攻撃を繰り返した流鰐がついに辿りついた絶好の機会で繰り出す 攻撃は、加速した己の身体をそのままぶつけるというものであった。 一撃を当てるか、この場から落とせば勝ちという条件下において、拳や蹴りよ りも面積の広い身体の方が確実という考えは、当然の帰結であるといえる。 だが、流鰐は知らない。 つい先ほど、同じような考えで捨て身の攻撃を実行し、それを叶える事の出来 なかった者の存在を。 一瞬で爆発的な加速をした流鰐は、一つの事実に気づいた。 高速状態で狭まった視界の中のどこにも、凌牙の姿が無い事に。 「間抜けが」 声は、流鰐の真上から聞こえた。 同時に感じるのは、後頭部への軽い衝撃と、加速を止められない自分の身体が リングの下へと落ちていく感覚。 自身の跳躍に次いで、流鰐の後頭部を足場にした二度の跳躍で彼女の体当たり を回避した凌牙はリングの中央に着地し、彼女が落ちた方向へと視線を向ける。 「くそっ……! なぜ……!?」 肩で息をしながら再びリングへと上がり、凌牙と対峙する流鰐の顔には、先ほ どまでの怒りではなく、純粋な驚愕が貼り付けられていた。 「なぜお前の攻撃を全て避けられたのか、不思議か」 流鰐のありとあらゆる攻撃を回避し、息一つ切らしていない凌牙は、ゆっくり と足を前に進める。 「答えは簡単だ」 お互いの攻撃が届く間合いにまで距離を詰めた凌牙の顔面に流鰐の拳が放たれ るが、凌牙はそれを首を傾けて回避する。 「俺にはお前の攻撃が全て見える。いつ、どこに、どんな攻撃を繰り出してくる のかがな」 続けて襲いかかる右の肘も状態を反らして回避する凌牙は、流鰐の攻撃を一切 意に介さず、言葉を続ける。 「それが分かっていれば、回避など容易だ。いつ、どこに来るか分かっている攻 撃など、子供でも容易く回避できる」 軽いバックステップで足払いを回避した凌牙は、一瞬だけ入口からこちらを見 る終破達の姿を確認し、更に口を開く。 「お前と、そこで見ている連中の後学のために、もう少しだけ教えてやる」 側頭部を狙った右の拳を避ける凌牙は、流鰐に酷薄な笑みを見せる。 「もっとも、お前はここで死ぬがな」 「黙れ!」 咆哮と共に流鰐は凌牙を掴もうと両腕を伸ばすが、既にその行動を読んでいた 凌牙は半身になると同時に、無防備な流鰐の足を引っ掛け、彼女を転倒させる。 攻撃と呼ぶにはあまりにも弱いが、凌牙が初めて取った能動的な行動に意表を 突かれた流鰐は、何が起こったのか分からないまま地面に身体をぶつける。 「俺がお前の攻撃を見切れる理由は単純なものだ」 無様に転がる流鰐を黒い感情の渦巻く瞳で見下ろしながら、凌牙の言葉は続く。 「俺はお前の筋肉や視線の動き、空気の流れや殺気を読んでいるだけだ。お前は 自分の存在全てで次の手を俺に大声で教えているのと変わらん」 「馬鹿な……あの攻撃の間に全てを……!?」 凌牙の言葉が信じられないといった表情を浮かべ、立ち上がる流鰐に、更に言 葉が続く。 「付け加えるなら、お前は常に全力で動き過ぎだ。どれだけの早さを持っていた としても、同じ早さで動き続けていれば慣れていく。一度慣れてしまえば、動き を読む事は更に容易になる」 言葉の終わりと、顎をのけ反らせた流鰐が吹き飛ばされたのは同時だった。 「お前は、今の蹴りを見る事はおろか、そうやって倒れるまで感じる事さえ出来 なかったはずだ」 「が……っ!」 凌牙の言葉に呻きで返す流鰐を見下ろす凌牙。 「相手に気配や動作を見切られる間を許さない、これが攻撃の基本だ。お前のよ うに無闇に動く必要はない。自分の速さを示すのは、攻撃を行うその一瞬だけで いい。」 流鰐の顎を蹴り上げた足を前に進め、凌牙は彼女との距離を詰める。 圧倒的な力の差を見せつけられてもなお、自分に近づいてくる皇魔に対するた めに流鰐は立ち上がろうとするが、 「な……」 膝から崩れ落ち、床に尻餅をついてしまう。 「なぜ! なぜ立ち上がれない!?」 自分の体が思い通りに動かない事実に焦燥と怒りが積み重なるが、どれだけ流 鰐が声を発そうと、彼女は立ち上がる事が出来ない。 「鏖魔は生体兵器と聞いたが、そんな事も分らんのか」 何度も立ち上がろうとしては失敗する流鰐の眼前に立った凌牙の混沌の視線が、 彼女に突き刺さる。 「確かに、お前達鏖魔は人間とは比べ物にならんほどの強靭な肉体を与えられて いる。だが、お前達を生み出した連中が、人間の体を再現する事に力を注ぎすぎ たのは、大きな過ちだったな」 およそ血の通った生物とは思えない、地獄の氷のような冷たく鋭い声が淡々と 響き渡る。 「肉体がどれだけ強靭であろうと、その構造が変わらないという事は、弱点も変 わらない、という事だ。つまり、顎を蹴れば脳へもダメージが伝わる。脳が揺れ ていては肉体の強度など関係無い。ただ無様な姿を晒すだけだ」 言葉を終えた凌牙だが、その後に行動を続けようとはしない。 ただ、底の無い深淵のような黒の瞳で自分を見下ろしたまま動かない凌牙に、 流鰐は言葉の代わりに両手を強く握りしめる。 「くそっ! あくまで私が立ち上がるのを待ってるって訳か!」 「分かっているなら早く立て。お前にもう一度攻撃の機会を与えてやる」 あくまで流鰐を軽視するその言葉に、彼女は激しく笑う膝を怒りと気力で強引 に押さえつけて立ち上がる。 「あんた、どこまでも私をコケにしてくれるみたいだね……!」 まだ脳へのダメージが完全に抜けきらず、左右にふらつく身体を必死に支える 流鰐の顔に、残忍な笑みが浮かぶ。 「いいさ、見せてやるよ。私の鏖技(おうぎ)を」 意識を覚醒させるため、頭を左右に振った流鰐は大きく一歩下がって距離をと ると、全身に力を込め、筋肉を収縮させる。 「喰われて死にな! 鏖技、潜刃殺(せんじんさつ)!」 技の名を高らかに叫んだ流鰐は、水泳選手が飛び込むような姿勢をとり、その まま正面の床へと勢いよく突っ込んでいく。 そして、まるで床が水面へと変化したかのように、流鰐の身体はその中へと完 全に入り込んでしまった。 本物の水面と違い、飛沫も音も無いが、流鰐は床の中へと潜ったのだ。 「ほう」 突如として眼前で起こった常軌を逸した現象に、凌牙は驚愕するどころか、わ ずかばかりの喜色を添えた笑みを浮かべる。 「それがお前の能力か。鏖魔というのは、つくづく面白い連中だな」 凌牙が発した言葉は、特殊な能力によって姿を消した相手に向けられたものか。 それとも、過去に相対したかつての皇魔、始炎を思い出した自分に向けてのも のか。 凌牙は軽く跳躍し、床の中央付近へと身を移す。 直後、一瞬前まで凌牙のいた位置に、水面から跳ね上がるトビウオのように、 床の中から流鰐が高速で飛び出した。 床に潜った時とは違い、足から姿を現した流鰐は、一本の槍のように揃えた両 足で凌牙を貫こうとするが、それが外れた事を認識すると同時に舌打ちをし、再 び床へと潜る。 「潜刃殺か。なるほどな、その名の通りの技という事か……だが」 再び流鰐が潜った位置を見ながら、凌牙は一歩右に移動。 凌牙の移動が終わった瞬間、床の中から姿を現した流鰐が二度目の攻撃を仕掛 けるが、またも不発に終わる。 「くそっ!」 二度にわたって必殺の鏖技を避けられた苛立ちを隠せない流鰐は、三度目の潜 行。 「余興としては面白いが、これで敵を、この俺を殺そうというのは冗談にしても 質が悪すぎる」 床の中に潜っている相手に聞こえているかどうかわからない言葉を紡ぐ凌牙の 視線が、わずかに動く。 「俺は教えたはずだ。お前の攻撃の全てが読めると」 見えない相手の位置を視線で追う凌牙は、一歩後退。 「それは、お前が床の中に姿を隠そうと同じ事だ。俺には、お前が動く軌跡や攻 撃を仕掛けるタイミングが全て分かる。つまりは」 言葉を止めた凌牙は、その場で真上に跳躍。 空を飛んでいるのではないかと思うほどに大きな跳躍を見せる凌牙の下から、 三度目の攻撃を仕掛ける流鰐の姿が現れる。 「こういう事もできる」 床の上にいるはずの獲物が自分の更に上に位置しているという事態に目を見開 く流鰐。 攻撃のためにつけた加速のため、下から凌牙を追い抜く形となった流鰐は、高 速で近付く皇魔の、ある動きを見た。 彼が持つ必殺の力を宿した右手が、ポケットから抜き出されるという動きを。 「凍りつけ、その魂ごと」 右手の五指を開いた凌牙の口から紡がれるのは、冥府に住まう死神でさえ震え 上がらせるであろう絶対零度の声。 そして、稲妻よりも速い皇魔の右手が、眼前を通過する流鰐の胸の中心を捉え る。 「これが絶氷葬だ」 音も無く着地した凌牙の声は、絶氷葬によって細胞の一片に至るまで凍りつい た流鰐が床に落ち、砕け散る音によってかき消された。 流鰐を文字通り粉砕した凌牙は、何事も無かったようにリングを降り、入口で 事の成り行きを見守っていた終破達を一瞥する。 既に凌牙のと絶氷葬を知っている終破と斬華と違い、その脅威を初めて目の当 たりにした四人の鏖魔は、それぞれに驚愕の表情を浮かべたまま自分達の新たな 支配者に視線を送る。 「やはり、君は皇魔として君臨するのに相応しい存在だよ」 降り立のった凌牙に対し恭しく頭を下げる斬華の横で、満足そうな笑みを浮か べた終破は、凌牙と他の鏖魔へと交互に視線を移し、言葉を続ける。 「皆もこれで納得しただろう? 凌牙は本物の皇魔だよ」 その言葉に、四人の鏖魔はそれぞれ無言の肯定で応える。 全員の了承を確認した終破は再び凌牙へと視線を向ける。 「さて、これからどうするんだい?」 終破の問いに、凌牙は軽く瞼を閉じる。 閉じた視界の中に浮かぶのは、人間の肉体を捨ててなお想い続ける最愛の女性 ではなく、血の繋がりを失った唯一の肉親。 ――悠羽 五年ぶりに再会し、完膚なきまでに実力差を見せつけた妹の名を胸の内で呟い た凌牙は、閉じていた瞼を開く。 「これからの行動は創世島で告げた通りだ。お前達には人類殲滅の前に、一人の 女を滅ぼしてもらう」 凌牙の言葉に反応する鏖魔を見渡しながら、凌牙は続ける。 「詳しい話は終破にでも聞け。誰がどうやって彼女と相対するかは好きにしろ。 ただ、一つだけ言っておく」 凌牙は全てを凍りつかせる右手を全員に見せつけるように前に出す。 「俺の右手が全てを凍らせる事が出来るのと同じように、これからお前らが相手 をする女、月守悠羽の左手は全てを焼き尽くす。あの始炎と同じようにな」 凌牙が告げた言葉に、四人の鏖魔の表情が変わる。 「悠羽の実力は始炎には程遠いが、あの左手、神炎掌を甘く見ると命は無い。そ れだけは覚えておけ」 絶対の強さと美しさで鏖魔の頂点に君臨していたかつての皇魔、始炎の能力を 思い返す面々の表情に緊張が生まれる。 純白の髪をなびかせ、世界を焼き尽くす姿は、この場にいる全ての鏖魔の記憶 に刻み込まれている。 「終破、後は任せたぞ」 最後にそう言い残し、部屋を去る凌牙。 その後ろを一歩遅れて斬華が続く。 「奴らを相手にどこまで強くなれるか、見せてもらうぞ」 部屋を出た凌牙は、後ろに続く斬華にも聞こえない声で、静かに呟いた。 第五話 鏖魔七将(後編)