ワタシのカレは天空の勇者(前編) とある街外れの丘の上に建つ、一つの施設。 「Ozora Laboratory」と書かれた看板を掲げるこの施設、大空研究所は、鋼の 英雄、勇者を擁する防衛組織としても機能しており、この研究所の所員は、他の 世界の勇者と共に世界の脅威に対抗すべく日夜活動している。 「そうだ、アイには言ってなかったな」 その大空研究所の中にある食堂に、若い男の声。 夕食時のため、所員で賑わう食堂の廊下側に位置する席に座り、炒飯と餃子を 前に話を切り出すのは、研究者らしく白衣を身に着けた黒髪の男、大空カイト。 機械に自己の意識を持たせる「超AI」の開発者にして、大空研究所が誇る鋼 の英雄達の生みの親であるカイトの言葉の正面にいるのは、一人の女性。 「ふぇ?」 カイトの言葉を受け、ラーメンを勢いよすする動きを止めたのは、短く切った 茶髪が印象的な、ボーイッシュな印象を与える女性、木谷美(きやび)アイ。 彼女もカイトと同じく白衣を着ているが、その下にあるデニムの短パンと赤い スニーカーのために、研究者というより、ファッションの一部として身に着けて いる、といった雰囲気が出てしまっている。 「どしたのカイト?」 「これを見れば分かるよ」 口の中に入っていたラーメンを喉に通したアイの質問を見越していたカイトは、 懐から封筒を取り出し、彼女に渡す。 白い封筒の中央に大きく印字された「鋼」の文字から、それが防衛組織「メタ ル・ガーディアン」のものだと理解したアイは、そこから中身の詳細を推測する よりも早く、中に収められた一枚の手紙を取り出す。 「ええ!? な、何よこれ!」 ほどなくして、短い内容の手紙を読み終えたアイの口から吐き出されたのは、 疑問よりも抗議の色が強い、叫びにも近い言葉。 「大声を出すなよ。みんなが見てるぞ」 「じゃあ説明してよ! こ・れ・は・な・に!」 身を乗り出して詰め寄るアイを前に、平然と炒飯を食べるカイトと、彼女に向け た視線を一瞬で戻し、それぞれの世界に戻る所員たち。 アイがカイト相手に騒ぎを起こすのは、この大空研究所では珍しくもない、日 常の一部なのだ。 「見れば分かるだろ? そういう事だから、俺は明日ここを空けるぞ」 食事を進めながら、あくまで普段通りに返すカイトを前に、アイの勢いは止ま らない。 「だから! なんでカイトが悠羽ちゃんとデートする事になってるのよ!」 言葉と共に、これを見ろ、と言わんばかりに手紙をカイトの前に突き出すアイ。 彼女の手に収まる手紙の内容は、「メタル・ガーディアン」の長を務める男、 真島烈からのものであり、その内容は至って簡単なものであった。 こちらの段取りが決まったので、そちらの都合が良ければ悠羽をお願いしたい。 野獣を思わせる風貌からは想像できない、堅物の役人めいた文体でそう書かれ た手紙の最後には、 「しかも、『エル・ドラド』で!」 自身の感情を沸騰させる一因となる箇所を指差し、アイはカイトの鼻にぶつか りそうな距離にまで詰め寄る。 エル・ドラド。 アイが口にしたのは、かつて海を渡った者達の間で噂されていた、伝説の黄金 郷の事では無く、その名を冠した、巨大遊園地の事である。 白川グループの運営するそれは、最新の技術を駆使したアトラクションを楽し める一般的な遊園地を筆頭に、世界各国の庭園をモチーフとした自然の風景が楽 しめる広大な公園や、更には水族館や博物館まで有しており、老若男女を問わず、 それぞれの好みに合わせた時間を過ごせる、人気のスポットなのである。 「場所は向こうに任せたからな。確かにあそこなら何でも揃ってるから、あの子 も楽しめるんじゃないか」 「そうじゃなくて! ……はぁ、もういいや」 自分だけが熱を上げている事の無意味さを感じたアイは、頬を膨らませながら も席に座り、乱暴に手紙を封筒に収めてカイトに突き返す。 「私だって、カイトと行きたいのに……」 「ん? 何か言ったか?」 「な、なんでもない!」 大袈裟に両手を振って否定するアイを追求する気など無いカイトは封筒を懐に 戻し、再び食事に戻る。 アイは先ほどよりも大きな音を立ててラーメンをすする事を最後の抗議として、 そのまま黙々と食事を進めていく。 「それじゃ、明日は留守番を頼む」 「……わかった」 食事を終え、トレイを手に立ち上がったカイトの背を見ながら、アイは、胸に 返事とは逆の想いを抱く。 ――留守番なんて、しないから スープを最後まで飲み干したアイは、手を合わせて「ごちそうさま」をし、胸 の想いを決意に変える。 ――カイトと悠羽ちゃんのデート、この目で確かめてやるんだから! 翌日。 創世島の地下に広がる「メタル・ガーディアン」の一角、整備班の集う、鋼騎 の格納庫。 「聞いたか! 今日、悠羽ちゃんが男と出かけるらしいぞ!」 「男だと! 烈さんじゃないのか!」 「どうやら相手は、大空研究所の大空カイトらしい!」 「なにぃ! あの野郎、確か彼女がいただろう!」 「彼女がいながら悠羽ちゃんとデートか……こりゃ、天誅が必要だな」 「創世島の技術を集めて、あの野郎を成敗じゃ!」 「おお! 正義は我らにあり!」 「悠羽ちゃんを守るは、島の掟ぞ!」 悠羽とカイトの一件を聞いた鋼騎整備のエキスパート達は、それぞれ工具を天 に掲げ、反乱を起こす農民さながらの雄叫びを何重にも響かせる。 「あんまりアホな事ばっかり言ってると、全員まとめてカーネルおじさんの刑に するで!」 咆哮の壁を突き破るのは、拡声器によって増幅された女性の声。 「真冬の道頓堀に落とされたくなかったら、黙って仕事に戻らんかい!」 拡声器を手に、仁王立ちで声を張り上げるのは、茶髪のポニーテールに眼鏡を かけた女性、篠原早希。 「まったく、これやからウチのアホ共には黙ってたんやけどな」 早希の勢いに圧され、熱気を消された技術屋達が持ち場に戻る光景を見ながら、 彼女は眼鏡の位置を直しながら宙を見上げる。 「でも、心配なんは確かやねんけどな……」 島で育ち、外界との接触が極端に少ない悠羽に、普通の女性としての経験をさ せてやりたい。 両親の想いから実現したカイトとのデートだが、やはり不安は拭えない。 烈は、「何かあっても、あの兄ちゃんなら何とかしてくれるだろ」と言ってい たが、重度の世間知らずに超人的な身体能力が合わさった悠羽に不安を感じるな、 という方が無理な話である。 そんな事を考えていた早希の背後で、格納庫の出入り口の扉が開かれる。 「早希さん」 自動で左右に分かれていく扉の奥から姿を見せたのは、 「こんな格好で、いいんでしょうか……?」 白い日傘を手に、普段は着る事の無い、同じく白のワンピースを身に着けた悠 羽であった。 飾り気の無い、非常にシンプルデザインの、膝までの長さのワンピースを着た 悠羽は、ワンピースに合わせた、薄いブラウンのミュールのために勝手の変わっ た足下に気を遣いながら、早希の正面に立つ。 それほど高くないものの、ミュールのヒールによって、普段よりもわずかに身 長が高く見える悠羽は、早希の前で軽く一回転。 「ど、どうです?」 ワンピースの裾を緩やかに舞わせ、不安げに問う悠羽の言葉に応えるのは、早 希ではない。 「お……おおお!!」 「ゆ、悠羽ちゃんが白のワンピース……だと……!?」 「黒髪ロングに白のワンピース! 例えるならラーメンに白飯並のゴールデンコ ンビ!」 「日傘まで装備とは、小道具にも余念がありませんな!」 「清楚系お嬢様スタイル、しかと目に焼き付けさせて頂きました!」 「携帯のカメラ程度では満足できん! 誰か、鋼騎の頭部カメラを起動させろ!」 「家宝じゃ! 今撮った写真は、子々孫々に受け継がれる家宝じゃ!」 ワンピース姿の悠羽を一目見た整備班の面々は、それぞれに感情を爆発させ、 それを一切隠す事無く、本能の赴くままに叫び、携帯やデジカメで悠羽を撮影し ていく。 「あ、なんだか好評みたいです」 「……ほんまに、このアホどもは」 加速していく熱気の渦を、「好評」の一言で片づけた悠羽は、原人レベルに先 祖還りした技術屋達に向かって、笑顔と共に軽く手を振って応える。 「まあ、これを選んだウチのセンスに間違いが無かった、っちゅう事やし、それ はそれでええ事かも知れんけど」 瞬間、場が沈黙した。 不自然なまでに唐突な沈黙が数秒続いた後、 「悠羽ちゃんが可愛いから似合ってるけど、やっぱり……なあ?」 「白のワンピースってのは狙いすぎてると思ってたんだよ。悠羽ちゃんが可愛い からいいけど」 「日傘まで付ける辺り、わざとらしさが鼻につくというか。悠羽ちゃんが持つか ら問題無いけど」 「ほら、早希さんって……『まだ』だから、デートとかに変な幻想持ってるんだっ て。悠羽ちゃんは最高だけど」 先ほどとは対照的に、身を屈めて寄せ合い、声を潜める技術屋達。 「……おいコラ。なんやねんそれ。特に最後の言ったヤツ」 静まった格納庫の中、早希が手近にあった鋼騎整備用の電動ドリルを持ち、静 かにスイッチを入れようとした時、 『あ〜、聞こえるか。俺だ』 施設内全域に流れる放送を告げるメロディに続いて聞こえてきたのは、この島 の主、真島烈の声。 『今、すげぇ可愛い悠羽が……あ、悠羽は普段から可愛いか。まあ、普段の三割 増しに可愛い悠羽が、どこかをウロウロしてると思うが』 咳払い。 『東京湾に産業廃棄物として投棄されたくなかったら、絶対に手ぇ出したり、尾 行したりするなよ』 再び咳払い。 『悠羽、この放送を聞いてたら俺の部屋に来い。そろそろ出るぞ』 その言葉を残し、放送が終わる。 「……さ、さてと。作業に戻ろうかな」 「僕達は真面目な技術屋。今日も世のため人のために頑張るぞ」 「ああ、労働の尊さが目に染みるなぁ」 烈の放送が終わった直後、何事も無かったように、それぞれ持ち場に戻る技術 屋達。 「それじゃ、行ってきますね」 一礼し、格納庫を去る悠羽を見送り、早希は再び宙を見上げる。 今の放送で、この島の面々による余計な横槍の心配は無くなったが、それでも 悠羽の事が心配なのは変わりない。 どうしようかと頭を回転させる早希の耳に、単調な電子音が届く。 それが自分の携帯の着信音だと気付くのに一瞬の時間を要した早希は、カーゴ パンツのポケットから携帯を取り出し、耳に当てる。 「もしもし」 『早希、今大丈夫?』 スピーカー越しに聞こえるのは、ソフィアの声であった。 「ん? どないしたんやソフィアさん」 『ちょっとお願いがあって、ね』 日本人ではないにも関わらず、完璧な発音で早希に言葉を届ける白人の美女は、 普段よりも若干トーンを抑えた声で続ける。 『悠羽の様子を、見てあげてくれないかしら?』 その言葉に、早希は言葉を返すよりも早く、母として悠羽の身を案じるソフィ アの言葉がスピーカーから響く。 『やっぱり、あの子の事が不安だから。でも、私や烈じゃ、ちょっと目立ちすぎ るでしょう? だから』 「オッケーや。ウチで良かったら、なんぼでも見てきたるよ」 ソフィアの言葉が終わらない内に、早希は意図せずして巡ってきたチャンスを 逃さぬよう、力強く告げる。 『それじゃ、お願いね』 恐らく、自分も悠羽の様子を見に行きたいと思っている事を見越した上での頼 みだったのであろうソフィアと簡単な確認を済ませた早希は、携帯をカーゴパン ツに仕舞い、口元に力強い笑みを浮かべる。 「よっしゃ。これで堂々と悠羽の様子を見に行けるで。……と、まずは変装から やな。バレんようにせんとアカンのやし」 白川グループが運営する巨大遊園地、「エル・ドラド」の正面ゲート。 敷地内のどの施設を利用するにも、まずはこの正面ゲートを通らなければなら ないため、門の周囲には、老若男女を問わず、平日とは思えないほどの人が溢れ ている。 「ごめんね、待たせたかな」 「いえ、気にしないで下さい」 黄金郷を意味する遊園地の名に合わせ、金の装飾が施された門の前で独創性の 無い言葉を交わすカイトと悠羽。 普段の白衣の代わりに黒いジャケットを羽織ったカイトと、白いワンピースに 日傘と、少し大きめの藤のバッグを肩から下げた悠羽は、入場チケットを買うべ く、並んで歩き始める。 「よし、まずは順調やな」 互いに笑みを浮かべながら会話を交わし、チケット売り場に向かう二人の様子 を少し離れた場所から観察するのは、ソフィアから今回のデートを見守るように 頼まれた早希。 「悠羽達が中に入ったらウチもチケットを……ん?」 チケット売り場の窓口に並ぶ二人を見ていた視界に違和感を覚えた早希は、そ の原因を突き止めるべく、その周囲を観察する。 「あれは……」 間も無く違和感の正体を見つけた早希は、そこに向かい、足を動かす。 「自分、アイやろ?」 「ぅわぁ!」 カイトと悠羽に意識を集中しすぎていたため、完全に無防備になった背中を叩 かれたアイは、周囲の人が振り向くほどの声を発し、冷や汗を浮かべた顔を後ろ に向ける。 「な、何するのよ! ……って、あれ?」 デニムの短パンと赤いスニーカーは普段と同じだが、上半身に赤と黒の縞模様 で彩られたサッカーのユニフォームを身に着け、変装のつもりか、青い野球帽と 太い黒のフレームの伊達眼鏡を身に着けたアイは、不意に驚かされた事に対する 抗議をする前に、その意志を削がれてしまう。 「サッカーファンなんか野球ファンなんかハッキリせぇへん格好やな、それ。自 分も二人のデートを見に来たんか?」 「それはそうなんだけど……早希ちゃん、だよね?」 眼鏡をずらし、改めて目の前の女性が早希である事を確認したアイだが、それ でもまだ理解が及ばないのか、不思議そうな視線を遠慮なく浴びせ続ける。 「……この格好の事は、触れたらアカン」 アイの視線の意味を十分以上に理解している早希は力無く呟き、俯く。 しかし、アイのみならず、早希を知る者が今の彼女を見たのなら、誰であろう と同じ反応をするに違いない。 今の早希の姿は、それほどまでに普段と異なっているのだ。 彼女のトレードマークであるポニーテールは、悠羽と同程度の長さを持つ癖の 無いストレートに。 眼鏡はフレームの無い上品なデザインのものになっており、、油汚れの絶えな い肌は丁寧に整えられ、顔には普段は全く縁の無い化粧が、薄く施されている。 身に着けているのは普段の作業着では無く、悠羽とは対照的な黒のワンピース だが、膝までの長さがあった悠羽のそれとは違い、こちらは脚の半ばまでが露出 している。 手には服と同じ黒のバッグ、首には鳥の姿を模したネックレスを着けた早希の 姿に、機械油に塗れて作業をしている時の雰囲気は、微塵も残っていない。 「こないな格好、ウチには全然似合ってないやけど、ソフィアさんが『たまには オシャレしなさい』って無理矢理着せるもんやから」 「大丈夫、似合ってる似合ってる!」 知人にじっくりと見つめられ、急に恥ずかしさがこみ上げてきた早希の肩を何 度も強く叩いたアイは、「ソフィアさんグッジョブだね!」と、ウインクと共に 右手でサムズアップのジャスチャー。 「う、ウチの事はもうええやろ。それよりも、二人を追いかけんと」 「あ、そうだった」 話題を戻し、自分に注がれる視線を強引に逸らした早希が指差すのは、間も無 くチケットを購入するカイトと悠羽の姿。 「アイ、これ耳に着けとき」 そう言って早希がバッグから取り出したのは、耳栓に似た、小さな丸型の機械。 「悠羽の服につけた超小型マイクからこいつで音声が拾えるから、これがあれば 離れてても様子は分かる、っちゅうワケや」 「おぉ! それはすごいね!」 早希の動きを真似て、アイが左耳に機械を取り付けたと同時、 『月守さん、普段からそういう服を?』 『いえ、普段は全く。今日は慣れないものを履いているので、足下が不安です』 アイの耳に、二人の会話が流れてくる。 「な? バッチリやろ?」 「さすが早希ちゃん! よっ、盗聴の女王! ザ・スパイクイーン!」 「なんやそれ。えらい人聞きの悪いあだ名やな」 「さ、私達も並ばないと見失っちゃうよ」 早希の小さな抗議を無視し、彼女の手を引っ張るアイは、カイト達とは違う列 に並ぶ。 『カイトさんは、ここに来た事ありますか?』 「あ、そうや。一つ先に言っとくで」 『いや、初めてだよ。そういえば、アイもここに来たそうにしてたな』 「ん? どしたの?」 『じゃあ、今度はアイさんや他の人も誘って、みんなで遊びましょうか』 「これが音声を拾える範囲は、大体五百メートルくらいやから」 『そうだね。たまには研究所の外でゆっくりするのも悪くない。と、月守さん。 次は俺達の番だよ』 「オッケー。それだけ広ければ安心だね」 左耳でカイト達の会話を聞き、右耳で早希の言葉を聞くアイは、両方にしっか り対応しつつ、チケットの料金を確認すべく、前方の看板に視線を移す。 『いらっしゃいませ。お二人ですか?』 『はい』 『今月はカップル専用の特別チケットの販売を行っておりますが、そちらになさ いますか?』 「な、何よそれ!?」 左耳から聞こえてくる会話の中に出てきた言葉の一部に反応したアイは、思わ ず大声をあげてしまい、周囲の不審な視線を一身に受けてしまう。 「そない大きな声出したら、ウチらの事がバレてまうやろ」 「ご、ごめん……」 今の声が二人に気付かれていない事を確認したアイは、改めてチケットの料金 が書かれた看板に目を通す。 子供、大人、シニア、団体、といったカテゴリー別に異なる料金案内の横に貼 り付けられたポスターには、 『夏のカップル応援キャンペーン!』 と海をバックに大きく書かれた文字と、カップルには割引と特別チケットの販 売を行う、という旨が記載されている。 『か、カップルだなんて、そんな、いきなり……』 左耳から聞こえるのは、マイク越しからでも分かる高揚を帯びた悠羽の声と、 『なるほど、こっちの方が安いのか』 あくまで普段通りのまま、冷静に料金だけを考えるカイトの声。 ――まさか アイの胸の中で、不安が高まる。 『それじゃ、こっちの特別チケットで』 『はい、かしこまりました』 「やっぱりカップル買っちゃった!」 「ちょっとアイ、うるさい言うてるやろ!」 またも発せられたアイの大声に、周囲の者は先ほどよりも強い不審の視線を容 赦無く浴びせる。 二度にわたる周囲の視線を浴びた早希は尾行云々よりも、普段と違う服の事も あり、視線そのものに耐えきれず、アイの耳を強く引っ張り、耳元で小さな怒声 をぶつける。 「次に大声出したら、これ、取り上げるからな」 「も、もう大声出さないから許して!」 耳を引っ張られ、涙目になりながら哀願するアイに気付かない前方の二人は、 無事にカップル用のチケットを購入し、ゲートの奥へと消えていく。 「それにしても」 早希に引っ張られ、赤くなった耳を擦りながら、アイはゲートの奥に消えてい く二人の背中を見ながら問いかける。 「二人は、どこに行くんだろうね?」 「ああ、アイは知らんのやな」 「あ、早希ちゃんは知ってるんだ」 「まあ、悠羽から聞いてるし」 順調に列が短くなり、チケット売り場の窓口が近付いていく中で交わされる二 人の会話の中に、 『ところで、今日はこの中のどこに行くのかな』 アイの疑問と全く同じ言葉が、マイクを通して二人の耳に流れる。 「お、ちょうどええわ。アイの疑問も、これで解消や」 間近に迫った窓口を前に、アイは早希の言葉に耳を傾けず、左耳に流れる次の 言葉を待つ。 『あ、ごめんなさい。言ってなかったですね。今日は』 わずかな間。 『ここに行こうと思いますが、いいですか?』 『いいよ。それじゃ行こうか』 『はい!』 「ここってどこ!?」 三度目になるアイの叫びに、周囲は遂に、憐れみの視線を織り交ぜるようになっ てしまった。 「アイ、ウチの言うた事、覚えてるか」 「あ、ご、ごめん! もう変な声出さないから! ね、お願い!」 周囲から「痛い子」として認識されかかっているアイの隣に立つ早希は、自分 も同類と思われるのを避けるため、これ以上アイに関わろうとはせず、せめても の抵抗として、少しだけ距離を空ける。 「いらっしゃいませ、お二人ですか?」 「……できれば、一人が良かったんやけど」 アイに不安げな視線を飛ばしつつ、それでも業務を全うすべく、普段と変わら ぬ口調でチケットの販売を行う窓口のスタッフを前に、早希は大きなため息を、 アイに聞こえるように漏らす。 「これ、バレへんように追跡できるか、めっちゃ不安やわ」 「ここに行こうと思いますが、いいですか?」 正面ゲートの奥に広がるのは、噴水を中心とした、緑に溢れる小さな広場。 各施設に繋がる道を持つ、この巨大遊園地の中心部とも言うべき広場に設置さ れた案内板の一点を指差した悠羽は、右に立つカイトの様子を伺う。 「いいよ。それじゃ行こうか」 「はい!」 カイトの了承を受けた悠羽は、軽く跳ねるような足取りで、目的地へ続く石畳 の道を進む。 陽光を浴び、悠羽の動きに合わせて上下する日傘を見ながら、カイトは年齢よ りも、アイよりも幼く見えるその姿に、ここに来る前、大空研究所に挨拶に来た 烈の言葉を思い出す。 『悠羽は、もしかしたら無意識の内にどこかで兄貴を求めてるのかもしれん。だ から、今日は兄貴の代わりをしろ、とは言わんが、出来る範囲で頼む』 月守悠羽という人間が聖炎凰のフェンサーとして鏖魔と戦う事になった背景に ついて、その概要は既に聞いている。 それによると、彼女が兄と別れたのは十五歳の頃である。 まだ子供であった当時の彼女にとって、それが非常に強い衝撃を与えたであろ う事は、想像に難くない。 彼女の兄の代わりを務めなくてもいい、と、烈はそう言った。 無論、自分にはそのつもりもないし、出来るはずもない。 世界が繋がり、彼女と出会ってから今に至るまでの時間は、月守悠羽という人 間の肉親を演じるには、あまりにも短すぎる。 それを理解しているからこそ、烈は「出来る範囲で」という言葉をつけたのだ。 ――まあ、気負っても仕方ないか 事実、自分にとって悠羽は年下であり、彼女のどこか幼い仕草は、アイに通じ るものがある。 余計な事を考えず、普通に接すれば、何も問題はない。 「カイトさん、こっちですよ」 「ああ」 結論を出したカイトは、スキップに近い足取りで先行する悠羽に並ぶ。 近くの木々に止まるセミと、周囲を歩く人の声をBGMに、二人の勇者は戦闘 の事を忘れ、穏やかな表情で石畳の道を歩く。 「カイトさん」 しばらく無言で歩いていた二人の間に、悠羽の声が溶ける。 「どうした?」 「今日は一緒の高さ、ですね」 そう言って満足そうに笑う悠羽は、足下を指で示す。 「いつもはカイトさんの方が少し高いですけど、今日はヒールのある靴を履いて ますから」 「そう言えばそうか」 言われて初めて気付いた事実だが、カイトはそこに悠羽のような感情の動きを 見せない。 ヒールのある靴を履けば、それだけ見た目の高さは高くなる。 それは当然の事であり、それに対して思う所は何も無い。 だが、悠羽は違う。 「高さが同じという事は、目線が同じ、という事ですよね。私、今日はカイトさ んと同じ目線で、同じものを見られるのが嬉しいです」 手の中で日傘の柄を回しながら、悠羽は同じ高さにあるカイトの目を見据え、 もう一度笑う。 「じゃ、今日は一緒の高さから、色々なものを見ようか」 「はい!」 ――それにしても 満面の笑みで元気良く返事する悠羽の姿に、カイトは彼女の中にある普段とは 異なる一面を見出す。 年上の人間に高さを合わせる事で無邪気に喜ぶ姿は、 ――兄に頑張って追いつこうとする妹そのものだな その身に兵器に勝る超人的な破壊能力を宿しながら、それを全く感じさせない 悠羽を見るカイトは、こちらの姿こそが本来の彼女なのだと理解する。 「あ、見えてきましたよ」 普段とは違う、「妹としての月守悠羽」を隣に歩くカイトの視線の先には、今 回のデートにおける第一の目的地、水族館に掲げられた、大きなイルカの看板が あった。 「お、なかなかええ感じやないか」 事情を知らない者が見れば、ごく普通のカップルに見える雰囲気と距離で水族 館へと歩くカイトと悠羽の会話を拾う早希は、予想以上に順調な展開に、口元を 綻ばせる。 「エル・ドラド」を訪れる人の多数がメインである遊園地へ流れるとはいえ、 それでも水族館の周辺は多くの人で賑わっており、そのおかげで、早希は身を隠 す事無く堂々とカイトらの追跡を行えている。 「どうせ私はカイトより全然小さいですよ〜だ」 デートが順調に進んでいる事を喜ばしく思う早希の隣で、同じく前方の会話を 拾いながら尾行するアイは、小さな子供が拗ねるように頬を膨らませている。 「なんや? アイも悠羽みたいに『同じ目線』っちゅうのがええんか?」 その可愛らしい感情表現に、先ほどとは違う意味で口元に笑みを作った早希の 問いに対し、アイは別に、と、そっぽを向いて応える。 「同じ目線でモノを見る、っちゅうのも悪くないと思うけど、ウチはそれぞれが 違う高さでモノを見る方が好きやな」 互いに目線を合わせないまま、カイトらとの距離を一定に保ちつつ歩いていく 中、早希はイルカの看板を見ながら言葉を続ける。 「二人で同じモノを見る、ってのは、言い換えたら、せっかく二人おるのに、同 じモノしか見れへん、って事やからね。どうせやったら、こっちの高さから見え るモノはこうやけど、そっちの高さから見えるモノはどうなん? って方が面白 いと思うで」 次第に大きくなっていく水族館の建物を前に、早希の言葉を聞くアイの表情が 和らいでいく。 「せやから、アイはそのままでええんちゃうか、って話や。ウチみたいなのが言 うても説得力ないやろうけど」 「うん、そうだよね」 表情に普段の活発さを取り戻し、よし、と胸の前で握り拳を作ったアイは、足 の動きを速めて早希の前に進み、身体を反転。 「一つ聞きたいんだけど」 早希と向き合い、後ろ歩きで進む形になったアイの顔には、悪戯を企てる少女 の笑み。 「早希ちゃんの好きな人って、背が高いの?」 「な! 何やねん急に!?」 短時間で驚くほどに表情を変えるアイの発した言葉に、早希はその意味を半分 呑み込めないまま、反射的に応える。 そんな早希を見るアイの瞳は、三度の飯より恋愛沙汰を好む、女性特有の俗な 考えに満ちた輝きに溢れている。 「今の話聞いてるとさ、『背の高い彼氏と付き合うワタシ』を想像して言っちゃっ た、みたいな感じじゃない?」 『月守さんの好きな料理は?』 『う〜ん、やっぱり一番は、お母さんが作ってくれるブッフ・ブルギニョン(牛 肉の赤ワイン煮込み。フランスのブルゴーニュ地方の郷土料理)ですね』 『ブッフ……? それは食べた事が無いな』 『じゃあ、今度食べに来て下さい。一度にたくさん作りますから、カイトさんが いっぱい食べても大丈夫ですよ』 左耳にカイトらの会話が流れてくるが、特に問題の無い内容として意識を傾け ず、眼前の技術屋の恋愛事情を掘り下げる事に専念しようとする。 ――あれ? だが、自らが下した判断に疑問を感じたアイは、悠羽の言葉をもう一度思い出 す。 『じゃあ、今度食べに来て下さい。一度にたくさん作りますから、カイトさんが いっぱい食べても大丈夫ですよ』 ――あれあれ? 一字一句違わず脳内で再生した悠羽の言葉を呑み込んでいくアイの頬を、一筋 の汗が流れ落ちる。 ――コンド、タベニキテクダサイ? それは、カイトをプライベートな用事で創世島に招待しているという事に他な らない。 加えて、その料理を作るのは「お母さん」であるソフィアという事は、食事に 彼女や夫の烈が同席する可能性は高い。 若い女性が、同年代の男性を自宅――そう呼ぶにはあまりにも広大だが――に 招待し、女性の両親と共に食事を楽しむ。 ――それって要するに 『お父さん、お母さん。この人が、いつも話してる大空カイトさん』 『大空カイトです。娘さん、悠羽さんとは、結婚を前提としたお付き合いを』 「だ、ダメダメ! そういうのはナシなんだから!」 脳内で再生していく安っぽいドラマのような展開を追い払うかのように、頭と 両手を左右に振り乱すアイ。 「また騒ぎよって……ほんまにしゃあない子やな」 正面ゲートから今に至るまでの間で、周囲が向けてくる視線に慣れてしまった 早希は、泣きやまない子供をあやすように、アイの頭を軽く撫でる。 「何度も言うけど、あんまり騒いでるとバレてまうやろ?」 「ご、ごめん……。ちょっと色々考えすぎちゃって」 「これ以上は勘弁な。ほな、気を取り直して水族館に行くで」 アイの頭に置いていた手を肩に回し、彼女の身体を反転させた早希は、そのま ま、寄り添うような距離で歩き出す。 ――まあ、取り乱した原因は大体想像がつくけどな アイと同じく、カイトらの会話を拾っている早希にとって、彼女の変化の原因 を特定するのは難しい事ではない。 ――けど、助かったわ 表情の変化を悟られないように気遣いながら、早希は小さく安堵の息を漏らす。 ――それにしても、背の高い彼氏、やなんて アイと共に入口の自動ドアをくぐり、水の世界へと足を踏み入れた早希の脳裏 に浮かぶのは、一人の男。 ――ほんまに、聞かれなくて助かったわ かつて創世島で時間を共にした男の姿を頭の隅に追いやり、早希は周囲の水槽 の中を泳ぐ様々な生物に目を向ける。 「……美味そうやな」 「早希ちゃん、いくら関西人でも、そのボケはどうかと思うよ?」 「エル・ドラド」の敷地内にある水族館、「パライソ・デル・アグア(水の楽園)」 は、数ある施設の中の一つであるにも関わらず、その規模と設備は日本でも最大 級を誇っている。 本物の自然の映像を投影させ、世界中の海洋生物が悠々と泳ぐ姿に臨場感を持 たせた水槽に、立体映像を用いた解説など、他の水族館とは一線を画した演出が 随所に盛り込まれた水の世界は、自然と科学が調和した、まさに水の楽園である。 また、館内には海洋汚染などの水に関する環境問題を取り扱うコーナーや、小 さな図書館のような資料室もあり、この一角は、課題や研究のため、ノートを片 手に資料を書き写す学生の姿が目立つ。 「うわぁ……綺麗ですねぇ」 その楽園の中で、恍惚とした表情の悠羽が、ため息と共に言葉を吐き出す。 他の場所と違い、天井の照明をブラックライトにして夜の海や深海を表現した この区画は、全体的に小さめの各水槽の底部に多種多様な色の照明が設置され、 下からの光が、中を泳ぐ生物に幻想的な彩りを加えている。 「月守さん、水槽に顔や手を付けちゃ駄目だよ」 短いサイクルで様々な色に変化する照明に照らされ、透明な身体を次々と変化 させていくクラゲの群れを至近距離で見つめる悠羽を苦笑しながらたしなめるカ イトは、オレンジからピンクへと変わっていくクラゲを指差す。 「これはミズクラゲ。日本では一番メジャーな種類だな。ペットとして飼育もで きるけど、実はデリケートだから意外と難しいよ」 「カイトさん、詳しいんですね」 「アイの影響だな。あいつ、あれでも生物学者だし」 「じゃあ、今度アイさんに色々聞いてみますね。……あ、こっちも面白そうです よ」 クラゲから深海魚の水槽へと移動した悠羽は、身を屈めてそこの住人である深 海魚と目を合わせ、むぅ、と唸り、視線でカイトに助けを乞う。 「どうした?」 「これは、どうなっているんです?」 「こいつは……何だったかな?」 答えを探し、視線を這わせるカイトだが、水槽の周辺からは、「デメニギス」 という魚の名前以外の情報を得る事が出来ない。 素直に分からない、と言おうとしたカイトだが、絶対に自分の求めている答え を出してくれる、という期待に満ち溢れている悠羽の下からの視線に負け、なか なか言い出す事が出来ない。 頭部が透明という、非常に奇怪な容姿を有する深海魚、デメニギスは、カイト の葛藤など知る由も無く、のんびりと水槽の中を回遊している。 「えっとね……月守さん?」 「はい?」 分からないものは分からない、当たり前の結論をカイトが口にしようとした時、 『ご来場の皆様に、ご案内致します』 単調なメロディの後に、平坦な女性の声の館内放送が続く。 『本日午後十二時三十分より、二階イルカホールにて、イルカショーを開催致し ます。皆様、ぜひご観覧下さい』 「あ! イルカさんを忘れてました!」 館内放送を聞いて慌てて立ち上がり、小走りで深海コーナーの出口へと向かう 悠羽。 「カイトさんも行きましょう! 早く行って良い席を取らないと!」 「分かった分かった。すぐに行くよ」 先ほどの質問の答えよりも、三十分後に行われるイルカショーに心を奪われて いる悠羽を追いかける前に、カイトは相変わらずマイペースで泳ぐデメニギスを 見る。 「今度、アイにお前の事を聞いておくよ」 直後、人工の海を泳ぐ深海魚は一瞬だけ泳ぎを止めるが、それがカイトの言葉 を聞いてのものかどうかは分からない。 「それじゃあな」 透明の頭部を翻し、再び泳ぎ始めるデメニギスに、カイトは小さな声で別れを 告げた。 「はい、早希ちゃん」 「おおきに。釣りはとっといてええよ」 「ありがと……って、ピッタリのお金しかもらってないんだけど」 「いわゆるお約束、ってやつや」 そう言ってアイからウーロン茶の缶を受け取った早希は、プラスチック製の椅 子に腰掛け、斜め前に座る二人の様子を伺う。 水族館の二階にある野外ホール「イルカホール」は、その名の通りイルカショー 専用の円形ホールである。 ショーの開始直前という事で、五頭のイルカが同時にパフォーマンスを行う、 約五十メートルのプールを取り囲む二千以上の客席は八割程度埋まっており、特 にジャンプなどの大きなアクションの際に水がかかる前方の席は空きが無い状況 となっている。 水がかかっても大丈夫なよう、スタッフが希望者にレインコートを配っている が、カイトらはそれを身に着けていない。 『月守さんがコーラを好きなんて、意外だな』 『そうですか?』 「そういえば、さ」 「ん?」 水のかかる心配の無い後方の席に座り、アイの買ってきたピーナッツを食べる 早希は、口を動かしながら、目で続きを促す。 「なんで遊園地じゃなくて水族館なの?」 『スポーツ選手とか見てると、炭酸の飲み物を飲むイメージが無いから、ちょっ と意外で』 『口と喉がシュワシュワして気持ち良いから好きなんですよ。疲れた時に飲むと、 ちょっと幸せな気持ちになります』 「そら、悠羽が魚やら、このイルカのショーが見たかったってのが一番なんやろ うけど」 『カイトさんは、コーヒーが好きなんですか?』 「聖炎凰やらフライトナーに乗って戦ってる身からしたら、遊園地のアトラクショ ンに魅力を感じへんのとちゃうか?」 『嫌いじゃないけど、好き、と言うのも違うな。研究の時とかにずっと飲んでいる から、どちらかというと水みたいな存在に近いと思う』 「なるほど、そう言われてみればそうだね。フライトナーに比べたら、ジェットコー スターじゃ満足できないよね……って、早希ちゃん、私のピーナッツ食べ過ぎじゃ ない!?」 「ケチくさい事言うたらアカン。ウチ、今日は朝から何も食べてへんし、な? そ の耳にくっついてるヤツのレンタル料や思えばええやろ?」 「……ったく、もう」 前方の声と隣の声を器用に聞き分け、早希とアイはピーナッツを挟んで会話を続 ける。 そして、 「お、始まったで」 プール再度に現れたトレーナー兼司会の女性スタッフがショーの始まりを宣言し、 プールサイドでイルカと各トレーナーの紹介から始めていく。 「イルカのショーを見るのなんて久しぶり……って、早希ちゃん、私が見てない間 にピーナッツどれだけ食べてるのよ!」 「いやあ、少し食べたら余計に腹減ってもうて。これ見終わったらメシ行こうか。 御馳走したるよ」 「ほんと? 好きなの食べていい?」 「ただし、予算は五十円な」 「それ、このピーナッツより安いんだけど!」 「お、イルカがえらい高さを跳んでるで」 「おぉ、やっぱりすごいねイルカは。……って、またピーナッツいっぱい食べてる!」 「アイはピーナッツ系愛されキャラやな」 「勝手に変なキャラ設定しないでよ!」 ピーナッツをめぐって争う二人とは無関係にショーは進んでいき、訓練された五 頭のイルカは、障害物を飛び越え、トレーナーの投げたボールを尾や頭で打ち返し、 トレーナーを背中に乗せて泳ぐなど、様々な芸を披露し、カイトや悠羽をはじめと した多くの観客を楽しませている。 特に、二メートルを軽く超える身体が大きく跳ね、宙を舞う時にはひと際大きな 歓声があがり、前方の席に座る者は、着水の際に飛び跳ねる水を被る時にも歓声を あげる。 「それでは、本日はイルカショーをご覧いただき、誠にありがとうございました!」 そして、締めの言葉と盛大な拍手と共に、イルカショーは終わりを告げる。 「お、終わったみたいやな」 「早希ちゃん、結局一人でピーナッツほとんど食べるんだから……」 「ごめんごめん。おかげで少し腹が膨れたわ。さて、と」 頬を膨らませるアイに軽く謝罪をした早希は、空になったピーナッツの袋を丸め る。 「二人はこの後どうするんかいな?」 午後一時を少し過ぎた頃なので、時間を考えれば昼食を摂るのが順当な選択肢の はず、と、早希はまだ席に座ったままの二人に視線を移す。 『随分と濡れてしまったけど、月守さんは大丈……』 視線の動きに合わせて聞こえてきたのはカイトの言葉だが、彼はその言葉を最後 まで言いきる事無く、急に顔を背けてしまう。 「カイトは急にどないしたんや……って、あらら」 「ん? カイトは何してるの……って、ああ!」 同じくカイトの言葉を聞いていたアイと身を乗り出し、カイトらの様子を確認し た直後、二人の尾行者は同時に気付き、それぞれの反応を口から漏らす。 『え? カイトさん、どうしました?』 唯一気付いていない当事者の悠羽は、カイトが顔を背けた理由が分からないまま、 濡れて顔に貼りついた髪を整えている。 『その、非常に言いにくいんだけど……服が……』 顔を背けたまま事情を伝えようとするカイトだが、その意図が掴めない悠羽は、 頭上に疑問符を浮かべ、首を傾げてしまう。 『あの……とりあえず、下を向いてくれれば、分かるから……』 『下、ですか? ……きゃぁぁっ!!』 カイトの指示に従い下を見た悠羽の口から、あられもない叫びが放たれる。 『い、イルカさんの意地悪……』 ワンピースが濡れて肌に貼り付き、下着が完全に透けてしまっている事にようや く気付いた悠羽は、まるで見当違いの文句を言い終わるよりも早く、常人では目視 できない超高速で両腕を動かして胸を隠す。 『み、見えました、よね……?』 腕を胸の前で交差させたまま身を屈め、涙を湛えた瞳で見上げて問う悠羽に、 『少しだけ』 顔を背けたまま、感情を押し殺して答えるカイト。 「これは嬉し恥ずかしのハプニングやな」 「カイトのえっち! 絶対に喜んでるよ、あれ!」 気まずい空気の流れる二人の様子を見る早希とアイは、それぞれに異なる感想を 口にするが、 「せやけど……」 「それはそうと……」 二人の傍観者は顔を見合わせ、声を揃える。 「ピンクやったな」 「ピンクだったね」 イルカのショーの後、残りの部分を一通り見て回ったカイトと悠羽は、昼食を摂 るため、敷地の中央付近にある芝生へと向かった。 午後二時近くと、昼食の時間を少し過ぎてはいたが、広大な芝生には数多くのシー トが敷かれ、その上では昼食や昼寝など、それぞれが思い思いの時間を過ごしてい る。 「この辺りにしようか」 「そうですね」 夏の日差しが直接降り注がないよう木陰に陣取った二人は、悠羽のバッグから取 り出したシートの上に座り、水族館を歩き通した疲労を追い出すように息を吐き出 す。 「それじゃ、お昼ご飯にしましょう」 ミュールを脱ぎ、シートの上に正座をした悠羽が籐のバッグから取り出したのは、 色も形も様々なランチボックスと、三本の魔法瓶。 「お母さんの料理、すごく美味しいんですよ」 と、無駄の無い動作でランチボックスの蓋を次々と開けていく悠羽。 日本で一般的な食パンではなく、フランスで食される、バゲットを使ったサンド イッチ――ハムとチーズ、ローストビーフとオニオンの二種類――に、ヴィネグレッ トソース(フレンチドレッシング)が別に添えられたサラダ、フランスが誇る世界 遺産、モン・サン=ミシェルの名物として有名なオムレツにレモンのタルトと、フ ランスで生まれ育った――あくまで書類上の話ではあるが――ソフィアらしい料理 がシートの上に広げられる。 「最後に、これを」 と、バッグからマグカップ二つと小さなタッパーを取り出した悠羽は、マグカッ プに小さく切ったフランスパンを入れ、魔法瓶の一本の中身を注ぐ。 魔法瓶の中に入っていたのは、スーパ・ロワニョン(フランスのオニオンスープ) であり、湯気の立ち上るカップに、タッパーの中身、すりおろしたチーズをふりか けて完成となる。 「どうぞ。こちらの魔法瓶には紅茶が入っていますよ。お砂糖やミルクが欲しけれ ば言って下さい」 玉ネギとチーズの香りに彩られたマグカップと魔法瓶におしぼりをカイトに渡し た悠羽は、自身もおしぼりで手を拭き、紅茶を注ぐ。 「こんなに作ってくれるなんて、何だか悪いな」 「お母さんは料理するのが好きですから大丈夫ですよ。では、スープが冷めない内 に頂きましょう」 「ああ。それじゃ、頂くとしようか」 「いいなぁ、カイト。あんな美味しそうな料理食べられるなんて」 水族館を出た後も変わらず尾行を続けるアイは、カイトらから少し離れた木に隠 れるように陣取り、近くの売店で買ったツナのサンドイッチ――当然、こちらは食 パンのサンドイッチである――を頬張りながら、彼らの様子を伺う。 「ソフィアさんの料理はホンマに絶品やからね。あの人、何やらせても一流やから、 そこらの高級店じゃ話にならんレベルのモン作るよ」 「美人でスタイル良くて何でも出来て……完璧超人っているんだね、実際。ナイト ベースの岩崎さんもそうだけど、カッコイイ大人のオンナって、憧れだよね」 「ええ歳して機械いじりしか出来へん大人で悪かったね」 「もう、別に早希ちゃんの事は何も言ってないじゃない」 木に背を預け、同じく売店で買ったミルクティーのペットボトルに口を付けたア イは、頭上に止まっているセミの仕草を観察しながら、早希に問いかける。 「ところでさ、早希ちゃん」 「ん? 金なら貸さへんで」 「そうじゃなくて! ……ソフィアさんの事なんだけど」 続けて放たれたアイの言葉と、頭上のセミが飛び去ったのは同時。 「あの人が何者なのか知りたいなぁ〜、なんて思ってみたり」 「……ウチらの世界で、一番知ったらアカン秘密はな」 アイと同じ売店で買ったおにぎりをシートの上に置いた早希は、真っ直ぐに立て た人差し指を唇の前に添える。 「あの人の過去やで」 ペットボトルの緑茶で喉を潤した早希は、苦笑い。 「正直言うて、ウチは島に来る前のあの人の事は何も知らんよ。烈さんでさえ、本 名も知らんって言うてるくらいやし」 「あれ? 『ソフィア』っていうのは?」 「あれは、烈さんと初めて会った時に読んでた雑誌に載ってたモデルの名前らしい で。せやから、本名は謎のまま。出身地はフランス、って事になってるけど、それ もホンマかどうか分からんし」 「そう、なんだ」 期待していた答えが何一つ返ってこない事に不満を覚えるよりも、アイは早希に 対し、一つの疑問を抱く。 「でもさ」 問うアイの視界の隅に、ソフィアの娘、悠羽の笑顔が映る。 「知りたい、って思わないの?」 それは、誰もが抱くであろう当然の疑問。 自分が所属する組織の要職に身元不明の外国人が就いているというのは、誰が見 ても普通ではない。 過剰なプライバシーへの干渉は好ましくないが、それでも、最低限の個人情報は 組織に属する者として把握しておきたい、そう思うのが当然といえる。 だが、早希の言葉を聞く限り、創世島の者達のみならず、夫の烈でさえ、正体不 明の異邦人を正体不明のままに受け入れている。 「そら、最初は知りたい、って思ったよ」 その問いを予測していたのか、早希は淀み無く答える。 「けどな、烈さんが言ったんよ」 当時を思い出したのか、青空を見上げて笑みをこぼす早希は、シートに置いてい た赤い缶ジュースを手に取る。 「人には知られたくない秘密の一つや二つあって当然で、ソフィアはそれが他の人 よりちょっと多いだけだから気にすんな、って」 缶ジュースの中身を少しだけ喉に流した早希は、アイに視線を戻す。 「島に住んでないアイには分かりにくいかもしれんけど、烈さんがそう言うだけで 不思議と納得してまって、それからは誰もあの人の過去には触れてへんよ」 「そうなんだ。でも、何となく分かるかも」 今この場にいない、創世島の主を宙に思い描いたアイは、人差し指を早希に突き 出す。 「ガキ大将でいじめっ子だよね、あの人。ブレイバーズのシンヤさんは苗字のせい で大変な事になってるし」 「あれは災難やね。よりによって『相馬』なんて苗字がかぶってしまうんやから」 顔を合わせるたびに何かと烈に振り回されているブレイバーズの勇者、相馬シン ヤを思い浮かべた二人は共に笑い合う。 「ところで早希ちゃん」 「なんや? ウチの顔に金でも貼り付いてるんか?」 「それ、美味しいの?」 笑いが収まった所で、アイが指を向けた先にあるのは、早希が手に持つ赤い缶ジュ ース。 そこには力強い筆文字で書かれているのは、「破滅的炭酸飲料 ゲロリシャス」 という商品名。 「ん? これか?」 手の中に収まるジュースに注がれる視線に気付いた早希は缶を半回転させ、反対 側の柄をアイに向ける。 そこに書かれていたのは、は、アニメ調にデフォルメされた男が「ゲロ吐くくら いデリシャスだぜ!」と満面の笑みで高らかに宣言している絵と、「ゲロ&デリシャ ス=ゲロリシャス!」、「世界初! 飲む産業廃棄物!」など、決して飲料には使 わないであろう売り文句の数々。 「これは、創世島名物を作ろう、っちゅう計画の中で完成して商品化したモンの一 つでな。この缶のデザインはウチが担当したんやで。この烈さんの絵は、特に自信 あるんよ」 そう言って、自身が担当したという缶のデザインを誇らしげに見せる早希。 「創世島名物、って?」 「烈さんが『島の名物を作ろう』って言い出してな。最初は煎餅とか饅頭とかベタ なモンばっかりやったけど、今は鋼騎のプラモデルやら健康器具やら、色々作って るんやで」 「そ、そうなんだ……」 鏖魔と戦うための軍事基地とも呼べる場所であり、その性格上、観光客など来る はずもない創世島のどこで作っているのか、誰向けに作っているのか、なぜここで 売っているのか。 ゲロリシャスと名付けられた缶ジュースの存在と合わせ、突っ込むべき要素は多々 あるが、結局の所、アイの疑問は一つ。 「それ、美味しいの?」 「せやなぁ」 繰り返された問いに早希は即答せず、代わりに首を傾げ、改めて缶を手の中で一 回転させた後、アイに差し出す。 「ちょっと飲んでみる?」 「えぇ!?」 半ば予想できた展開とはいえ、アイは思わず小さな叫び声をあげ、早希の手に収 まる缶ジュースから逃げるように上体を大きく反らす。 「別に飲んだかて死にはせんよ。ウチが飲んでるくらいなんやし」 アイの反応が面白かったのか、からかうような笑みを浮かべた早希は、まるで毒 見をするようにゲロリシャスを喉に流す。 「それはそうなんだけど……」 早希が飲んでいる以上、どんなに見た目が悪くとも、ヒトの飲めるモノである事 は間違いない。 だが、ここまで飲む気が削がれるモノを飲む、という行為には、少なからず勇気 を必要とする。 にも関わらず、「飲んでみたい」、「味を知りたい」という欲求が際限なく広がっ ていくのは、人間の心理が持つ不可思議な所である。 ――カイト、私に勇気をちょうだい! 未知なるモノを回避する防衛本能と、未知なるモノを知ろうとする好奇心の天秤 が、わずかに好奇心へと傾いた時、アイの胸はすぐ近くにいる青年に祈りに似た願 いを捧げ、再度差し出された赤い缶を勢いよく掴む。 拳を握っていれば正拳突きにも見える動きで缶を手にしたアイは、その勢いを保っ たまま、たたみかけるように缶を口につけ、それを一気に傾ける。 煮詰めたカラメルソースのような、焦げと甘さが両立したような強い香りが鼻孔 を刺激するよりも早く、わずかだが粘りのある液体が、アイの口に流し込まれ、喉 へと進んでいく。 「あ! そない一気に飲んだら――」 驚きと焦りの表情を浮かべた早希が缶を失った手を伸ばすが、 「ぎゃふん!」 早希の手が届く前に、アイは短い断末魔を発した後、そのまま後方に倒れてしまっ た。 「ああ、ちゃんと言うとかなアカンかったな」 仰向けに倒れたアイの肩を揺すり、反応が無い事を確認した早希は、既に空になっ ているゲロリシャスを拾い、奇妙な売り文句に紛れた注意書きに目を通す。 「一気に飲むな、って書いてあったんやけどね、一応は」 もともとこのゲロリシャスは、徹夜仕事が続いた際、技術屋達の意識を強制的に 覚醒状態に保つための、いわば気付け薬であり、ジュースとして飲むものではない のだ。 創世島の技術屋達の長、大熊鉄男がレシピを考案したこの気付け薬、最初は技術 屋達の間で使われていたのだが、そのあまりの不味さゆえに――缶に書かれている 売り文句の数々は、これを飲んだ者の感想である――組織内で罰ゲーム用として広 まり、これを面白がった烈の意向により、創世島名物のラインナップとして加えら れたのだ。 「ごめんなアイ」 「うぅ……ん」 険しい顔で小さくうなされるアイに小声で謝罪した早希は木に背を預け、彼女の 頭をそっと持ち上げ、自身の腿の上に乗せる。 「良い歳して機械いじりしか出来へん女の膝枕で悪いけど、堪忍な」 アイの髪を優しく撫でる早希の表情は、悠羽に時折見せるものと同じ、妹を想う 姉のものであった。 小高い丘の上、小さな街を見下ろせる位置にある、少しばかり高級な住宅街。 「ただいま」 「おかえりなさい」 その一角の玄関で何の変哲も無い、どこにでもある短いやり取りを交わすのは、 一組の男女。 「また家まで白衣を着てくるなんて……ダメですよ?」 「ああ、ごめんごめん。大空研究所の時の癖が抜けなくてさ」 苦笑いを浮かべながら白衣を脱いだ男は、手に持っていた鞄と共にそれを渡す と、正面に続く廊下の奥、リビングから漂う匂いに頬を緩ませる。 「これは、ブッフ・ブルギニョンの匂いだね」 「はい。今日は大事な日ですから作ってみました」 母から教わり、今では一番のお気に入りとなっている料理の名を当ててもらえ た事に、エプロン姿の彼女は満面の笑みで答える。 だが、男の表情は彼女と同じ笑顔にはならない。 その原因は、 「大事な、日……?」 スリッパに履き替えた男は、こめかみに指を当て、彼女の発した言葉の意味す る所を探り当てようとする。 自分の誕生日ではない。 彼女の誕生日でもない。 では、それ以外の―― 「ぶぅ、時間切れです」 男の思考を見抜いたいたのか、白衣と鞄を抱き締めるような形で持っている彼 女は、小さな悪戯を咎めるような、少し意地の悪い笑み。 「もう、そういう所は抜けてるんですから」 「ごめんごめん。降参するから教えてくれないかな」 本日二度目の謝罪と共に両手を上げて降参の意を示した男に、彼女は右手の人 差し指で数字の「一」を形作る。 「今日でちょうど一年です」 白衣と鞄をそっと床に置いた彼女は、跳ねるような動作で男の胸に飛び込み、 腰に両腕を回す。 「私達が結婚してから」 「そうか。そうだったね」 飛び込んできた彼女を優しく抱きとめた男は、その答えを失念していた事に軽 い罪悪感を覚え、それを覚え、得意料理を用意して待ってくれていた彼女への想 いを伝えるべく、強く抱きしめる。 「これからも、ずっと一緒にいて下さいね、カイトさん」 「そろそろ『さん』付けはやめにしないか、悠羽」 「それもそうですね……カイト」 頬を紅潮させた悠羽は潤んだ瞳に瞼を下ろし、同じく紅潮しているであろうカ イトを視界から消し去る。 それに合わせ、カイトも瞼を閉じ、悠羽の存在を視覚以外の感覚で捉える。 重なる鼓動が、狂ったように高まる。 密着した身体から伝わる体温が、視覚を閉じた世界の中で、互いの存在を確か に伝えている。 そして、引き寄せられるように顔と顔、唇と唇を近付けた二人は―― 「ぶるぎにょん!」 「おわっ!」 奇妙な叫び声と共に、城壁を壊す破壊槌の勢いで上体を跳ね上げたアイは、寸 前の所で衝突を回避し、目を白黒させている早希の姿を確認すると同時に先ほど の映像が自分の見た夢であったと理解する事が出来た。 「よかった、夢か」 「うなされてたけど、悪い夢でも見てたんか?」 「う〜ん。あれは悪い、っていうのかな?」 問われ、冷静に今見た夢の内容を振り返ったアイは、そこに「悪い」という形 容詞を付ける事が出来ずにいた。 確かにカイトと悠羽が結婚するという未来は、自分の望む所では無い。 しかし、アイにとって悠羽は憎むべき相手ではない。 自分が好ましく思う二人が幸せになる。 いくら夢とはいえ、そこに「悪い」という言葉を使うのは、いかがなものか。 「変だったけど、悪い夢じゃなかった、かな」 「そうか。それやったらええけど」 一応の納得を示した早希が差し出したペットボトルの水を飲み、気持ちを落ち 着けたアイはカイトらの様子を伺うべく、木の陰から身を乗り出す。 まだ夢の残像が残っているアイの視界に映るのは―― 「ごちそうさま」 「はい、お粗末さまでした。……って、これは料理の作った人の言葉ですね」 シート一面に広げられたフランス料理の数々を残らず平らげた二人は、それぞ れ食後の余韻に浸るべく、紅茶を口に含み、その香りを口の中に広げる。 「ソフィアさんには今度お礼を言わないといけないな」 「それじゃ、今度ぜひ島に遊びに来て下さい。みんな喜びますよ」 「そうだね。邪魔じゃなければ行かせてもらうよ」 紅茶を飲み終え一息ついたカイトは、穏やかな表情で会話を続けていく中で、 時折悠羽が気恥ずかしそうに右の方に視線を移す事に気付き、自身もそちらへと 視線を向ける。 そこにいるのは、学生と思われる若い男女のカップル。 自分達と同じく自由な時間を満喫しているのであろうそのカップルは、それだ けを見れば、珍しいものでもない。 悠羽がそのカップルに注目する理由が分からないでいたのは一瞬。 すぐに事情を察したカイトは、次第に右に視線を流す回数が増えていく悠羽に 声をかける。 「月守さん」 「はい?」 「ああいう事がやってみたい?」 「…………っ!」 自分の心理を見抜かれていた事に、悠羽の顔が羞恥に染まる。 「ち、違うんですっ! そういう事じゃなくて! ああいうのはまだ早いと言い ますか、とにかく、あの、その」 思考に言葉が追いつかず、あの、や、その、を繰り返しながら超高速で両手を 振り回す悠羽を見るカイトは、その仕草に思わず笑みをこぼしながら、彼女の気 を落ち着かせるよう、意識して余裕を持たせた声で再び語りかける。 「月守さん」 「は、は、はいっ!」 「驚かせてごめんね。ただ、月守さんがああいう事をしたいのかな、と思って」 「それは、その……やってみたいとは、思いますけど」 未だに耳まで紅潮した顔でカイトを見れないため、俯きながら消え入りそうな 声で返事をする悠羽は、もう一度右のカップルへと視線を移す。 悠羽の視線の先にいるカップルは、やはりどこにでもいる普通のカップルに見 える。 胡坐をかいた男の両腿に女が乗っている、という点を除けば。 男の両腿に頭のみならず上半身を預け、猫のように背を丸めて寝転がる女性を 見る悠羽は、俯いたまま、上目遣いでカイトを伺う。 「駄目、ですよね。お付き合いもしていないのに、ああいう事は」 「俺は構わないよ」 「そうですよね。やっぱりこういう事は段階を……って、え?」 思いもよらなかったカイトの言葉に、朱に染められた悠羽の顔が勢いよく上が る。 「あれくらいなら別に大丈夫だよ」 年上の余裕が滲み出る柔らかな笑みを浮かべるカイト。 恋人というより、妹とじゃれ合う感覚で悠羽と接している彼にしてみれば、膝 枕をしてやるくらい、どうという事はない。 「ほら、月守さん」 揺れる悠羽の気持ちを後押しするように胡坐をかいたカイトは、まるで扱いに くい猫を手なずけるかのように手招きをする。 「そ、それでは、お言葉に甘えて」 こちらもやはり扱いにくい猫のように、恐る恐るカイトとの距離を縮めていく 悠羽。 もはや人外の領域に達している体技を駆使する姿を知っている者からすれば信 じられないほどの緩慢さで動いていく悠羽は、ついにカイトの至近に到達する。 「では、少しの間、失礼します」 意を決したように息を吐き、正座をして一礼した悠羽がその身を横にしようと した時、 「ダメダメダメダメダメ!! スト〜〜〜ップ!!」 周囲の人全てが驚く絶叫と、芝生を刈り取るような勢いで突進してくるのは、 サッカーのユニフォームに野球帽というミスマッチな服装の女性、アイであった。 「アイ!?」 「あ、アイさん!?」 思わぬ乱入者の登場に虚を突かれた二人は、高速で互いの距離を引き離す。 「もう! 誰も見てないと思ってそんな事しようとして、うらやま……じゃなかっ た。そういうのはダメなんだからね!」 「お前、留守番してろって言っただろう」 「言い訳はナシ! 悠羽ちゃんも、いくら何でもはしゃぎすぎ!」 「す、すいません。嬉しくなっちゃって、つい」 「私だってああいうの、まだなのに……」 「アイ、何か言ったか?」 「な、何でもない! とにかくっ!」 シートに座る二人を仁王立ちで見下ろすアイは、正座をしたままの悠羽に人差 し指を突き付ける。 「悠羽ちゃん、勝負だからねっ!」 「しょ、勝負、ですか? 私が? アイさんと?」 突然の宣戦布告に対し、顔中に疑問符を貼り付けた悠羽は、ただただカイトと アイの顔を交互に見るより他はなかった。