創世島の地下に広がる、かつての対鏖魔機関、現在の異世界研究機関、「メタル・ガー ディアン」の司令室は、錯綜する情報の数々に混乱をきたしていた。 謎の人型兵器の襲来、輸送機の墜落、破壊されていく市街、それらを逐一報告しながら、 リアルタイムで観測する多くの人々からの通信への対応に追われるオペレーターは自らの 処理能力の限界を超えた仕事量に嘆きながら、悲壮な面持ちで眼前の事態に対峙している。 メタル・ガーディアンのトップであり、誰よりもこの事態を収拾できる力を有している 存在、月守凌牙は鳴りやまないコール音に満たされた司令室内で携帯電話を耳に当て、日 本の政治を司る、内閣総理大臣と言葉を交わし続けていた。 鏖魔の襲来以来となる異世界からの外敵と思しき人型兵器に対し、誰がどう対処するか、 責任の所在はどこにあるのか、世界各国に向けてどういう説明を果たすのか。 言葉の端々に「私に責任は無い」というニュアンスを織り交ぜながら、延々と話を続け る総理に強い苛立ちを覚えながら、凌牙は正面のモニターを睨みつける。 自らの保身しか頭に無い総理の相手をしている間、組織全体の指揮は妻の静流が行って いるが、この異常事態に関係各所との連絡が上手くいかず、事態が好転する気配は無い。 本来なら組織の独断で鋼騎を向かわせるべき事態だが、鏖魔を滅ぼした後、組織として の権限は残されたものの、異常なまでの武力を有すると判断され、縮小を余儀なくされた 今のメタル・ガーディアンに、実戦で使える鋼騎は一機たりとて残されてはいない。 静流が設計した鋼騎であり、凌牙の愛機であった咬牙王は、平和な日本に相応しくない、 行き過ぎた武力の象徴として封印され、現在は米国の鋼騎研究所に保管されている。 そんな中、鏖魔のような破壊者の再来を危惧する一部の政治家や研究者、鋼騎技術を利 益に結びつけようとする企業の思惑が合わさり、これまでの鋼騎とは全く異なる、次世代 の機体を生み出そうという動きが起こった。 それが、かつて鏖魔の駆っていた兵器の名を使った「鎧王機計画」であり、その試作機 が、まさに今日、この島に運び込まれる予定であった。 だが、その輸送機が島に到着する事は、もう無い。 銀の破壊者によって撃ち抜かれ、街に衝突するという結末を迎えてしまったために。 破壊者に対する戦力として期待できる鋼騎を持つ自衛隊の出動は、総理の重い腰の影響 でまだ果たされていない。 そのため、あの輸送機の中に眠る機体こそが、事態を打破できる唯一の希望だったのだ。 『おい、こちらの話を聞いているのか!?』 「少し黙っていろ屑が!」 目の前で失われる人命よりも己の保身と面子にこだわり続ける総理に対し、感情の沸点 を超えた凌牙は、怒りを直接声にして叩きつける。 その際、思わず力を込めてしまった事で、右手に握る携帯が一瞬にして氷のオブジェに 変化してしまい、凌牙は電話としての用を成さなくなった氷の塊を荒々しく放り投げる。 普段は冷静な司令の怒声と氷の砕け散る高音に、司令室の空気が一瞬で固まり、皆の間 から言葉が消え失せる。 「……すまない」 感情のままに取り乱してしまった自分を落ち着けるため、呼吸を整える凌牙に、静流の 声が重ねられる。 「詩音が心配なのは分かるわ。でも」 「すまない。さっきとは逆になってしまったな」 呼吸を落ち着け、何とか焦燥を押し込める事に成功した凌牙は、答えが見えないまま、 視線をモニターへと戻す。 「頼む。詩音、無事でいてくれ」 鏖魔が襲来してきた時には感じる事の無かった絶望的な無力感に全身を蝕まれながら、 凌牙はただひたすらに娘の身を案じ続けた。 巨大な紅の月の下、理不尽な破壊に晒され、死に行く街の中を、詩音は夢遊病に侵され たような不確かな足取りで進んでいく。 銀の破壊者、弾圧球人の破壊に規則性は無く、まるで気まぐれな子供のように、周囲に 身体の一部である銀の玉を放出している。 桜がなぎ倒された通学路を通り、崩壊したビルが並ぶ駅前を過ぎ、普段足を運ばない道 を進む詩音は、単純作業を繰り返す機械のように、ただただ左右の足を交互に動かし、創 世島への道を歩き続ける。 「衛人くん」 意志の宿らない瞳を虚空に向けた詩音は、時折思い出したように衛人の名を呟く。 自分を庇い、瓦礫の下敷きになった少年の名を口にするたび、詩音の瞳に新たな涙が生 み出される。 膝から流れる血が完全に固まり、赤い汚れになるまで歩いた頃、詩音は、自分の前に巨 大な壁が迫っている事に気付き、虚ろな瞳を上へと向ける。 これほどまでに接近するまで気付く事が出来なかった自分に辟易した詩音は、目の前の 壁が、墜落した輸送機の胴体部分であると認識するのに、そう長い時間はかからなかった。 墜落時の衝撃で機体が砕けたため、もはや原形を留めているとは言い難い輸送機の残骸 を茫然と見上げる詩音の耳に、一つの声が響く。 それは、建物が崩れ落ちる音や、逃げ惑う人々の悲鳴とは違う、もっと弱く儚い、幼子 の嗚咽。 「この中から、聞こえてくる……?」 衛人の前から去って以来、初めて自我を取り戻した詩音は、耳に残る声の元を辿ろうと、 輸送機の残骸に手を添えながら、鋼の鳥の成れの果てをゆっくりと回る。 詩音が立っていた場所のちょうど裏側、元はハッチがあったであろう部分が吹き飛ばさ れ、扉が開け放たれた部屋のようになっている事に気付いた詩音は、声の主がいるであろ う、その中に足を踏み入れる。 大破したとはいえ、体育館ほどのスペースを有する輸送機の中にいたのは、詩音の予想 通り、自分よりも遥かに幼い少女であった。 まだ幼稚園児程度の年齢であろう少女が一人で埋めるには広大すぎる空間の真ん中でう ずくまり、小さな背を震わせて泣き声を必死に抑える少女は、詩音の足音に気付き、顔を 上げる。 「だ、だれ!?」 「大丈夫。お姉ちゃん、悪い人じゃないよ」 恐怖と不安のためか、立ち上がろうとしない少女の元に近付いた詩音は膝を曲げ、少女 と目線の高さを合わせる。 「私の名前は月守詩音。ここで、何をしてたの?」 少女をみだりに刺激しないよう、無理矢理笑顔を作った詩音は、出来る限り余裕を持た せようと心がけた声を投げかける。 「ママがね、とおくにいっちゃったの」 少女が涙を交えて告げた事実に、詩音は言葉を返せない。 「このひこうきのしたに、ママがいるの」 年齢の割にしっかりとした口調で紡がれた少女の言葉は、状況を伝えるのに十分なもの であった。 「そう、なんだ」 母親を失った少女に対し、詩音はやはり言葉を返せない。 このような異常事態の中、理不尽な別れを迎えた少女に、自分のどんな言葉が響くのか、 詩音の中に答えは無い。 そんな詩音の心を知らぬ少女は、母を失った自身の心の行き場を、今巡り合ったばかり の年長者へと向ける。 「まき、いいこじゃなかったの?」 言葉と共に溢れてくる母への想いが、震える声と涙へ変わる。 「まきがわるいこだから、ママはとおくにいっちゃったの?」 「そんな事、無いよ」 自らを「まき」と呼ぶ少女を慰めようと、何とか言葉を生み出す詩音だが、今の彼女の 言葉に、少女の心を動かすだけの力は無い。 「まきがもっといいこにしてたら、ママはかえってくるかな」 「まきちゃん、っていうのかな? あのね」 届かないと分かりつつも、出来る限りの言葉を少女に贈ろうと、詩音は、先ほどまで自 分も同様に心が壊れていた事さえも忘れ、懸命に思考する。 「ママがいってたよ。いいこにしてたら『ゆうしゃ』がたすけてくれるって。『ゆうしゃ』 がきてくれたら、ママもかえってくるかな」 「勇者……」 少女、まきの言葉が詩音の胸を抉る。 彼女の母が言っていた「勇者」とは、鏖魔を滅ぼした父、月守凌牙の事に他ならない。 異世界から来た生体兵器から人類を守った父は、その偉業から、人類の誇り、「勇者」 という称号を与えられた。 それに対し、勇者の娘である自分は、人類どころか、目の前の少女の心一つ救う事が出 来ない。 それどころか、考える事、生きる事さえも放棄して、ここまで彷徨っていたのだ。 ――情けないよ、こんなの 誇るべき父と母を想い、その娘である自分の不甲斐なさを恥じた詩音は、己の弱さを乗 り越えるべく、折れた心を奮い立たせる。 あの時、衛人に守られた命は、屍のように彷徨うためにあるのではない。 ――うん、そうだよね 心を侵す黒い霧が、徐々に晴れていく。 「まきちゃん、安心して」 心が晴れていくにつれ、徐々に色を取り戻していく世界を感じながら、詩音は強い意志 をこめた言葉を紡ぐ。 「お姉ちゃんが、まきちゃんの『勇者』になってあげる。だから、もう泣かないで」 「おねえちゃんが……『ゆうしゃ』?」 詩音の言葉を上手く飲み込めないまきは、泣き腫らした目を詩音に向ける。 「うん。お姉ちゃん、頑張っちゃうから」 活力を取り戻しつつある詩音は、先ほどとは違う自然な笑みを見せると、自分と少女の 安全を確保するための手段を探すべく、立ち上がって周囲を見渡す。 しかし、動力を失い、夜の闇に抗う照明を使えない輸送機の中は暗く、手探りで進む詩 音は、何も見つける事が出来ない。 そして、順応してきた視界が、わずかに闇の輪郭を映し出し始めた頃、 「あたっ!」 額に硬質な何かをぶつけた詩音は、額をさすって痛みに堪えながら、自分がぶつかった モノを見極めようと、懸命に目を凝らす。 「……なんだろ、これ?」 朧ろげに自分の眼前にあるモノの輪郭を捉えていく詩音は、徐々にその正体に気付いて いく。 「もしかして、鋼騎?」 それが巨大な金属の塊という事を確信した詩音の脳裏に浮かぶのは、人類が鏖魔との戦 いの中で生み出した、人型の機動兵器。 両親の職場である創世島に幾度か足を運んだ時に見た鋼の巨体とは少し形状が異なるシ ルエットだが、詩音は目の前の塊に対し、半ば確信に近い思いを得ていた。 「動くの、かな」 父はフェンサー、母は鋼騎の設計者であるが、詩音自身、これまでの人生で鋼騎と関わ りを持った事は無く、無論、鋼騎の操縦経験など無い。 ――でも、これが動けば、まきちゃんを遠くに逃がす事が出来る 結論と行動は同時だった。 順応してきたとはいえ、昼間とは比べ物にはならないほどに限定された視界を閉じ、詩 音は静かに呼吸を意識する。 ――吸う時は、身体の隅々に気を届かせるように どこか遠くで響く破壊の音を聞きながら、詩音は父に教わった呼吸を練る。 ――吐く時は、身体の中の古い空気を押し出すように 呼吸が繰り返されるにつれ、詩音の五感が研ぎ澄まされていく。 父、月守凌牙が学び、鏖魔との戦いでその威力を十二分に発揮した格闘術、真島流破鋼 拳の基礎にして最大の奥義である特殊な呼吸、練呼法。 格闘術とは無縁の人生を送って来た詩音だが、呼吸を整える事は普段の生活においても 重要であると、幼い頃に教わった唯一の技が、この練呼法である。 この呼吸を真に会得すれば、普段の呼吸から通常とは異なり、常に超人のような身体能 力を得る事が出来るが、詩音はその領域に到達する事は無く、必要な時に限り意識して呼 吸を変える事で、一時的に身体能力を向上させるだけに留まっている。 が、技術的に不完全なものであっても、その効果は絶大であり、呼吸を整え終わった頃、 詩音の視界は、闇の中での行動に不自由が無いほどにまで開けたものに変わっていた。 最初からこうしておけば良かった、と軽い後悔を抱く詩音だが、長時間この呼吸を維持 する事が困難な事を考えれば、そうも言っていられない、と思い直す。 昼間のようにはいかないものの、周囲の物の判別くらいはつけられるようになった視界 を確保した詩音は、改めて眼前の塊を見上げる。 「これ、鋼騎……なのかな?」 全体の造形を理解出来るレベルで確認した詩音は、先ほどまで自分が抱いていた確信が 裏切られたような感覚を得る。 鋼騎という兵器が生み出されて以来、様々な外見や性能の機体が開発されてきたが、そ れらの間には、開発した者など関係無い、一つの法則のような共通点があった。 それは、人型である事。 搭乗者であるフェンサーの意識と機体を繋げるHMLSを操縦システムに組み込んでい る以上、人型以外の機体を操作する事が困難であると判断されている事を最大の理由とし、 その他にいくつかの理由が重なりあった結果、鋼騎という兵器は人型である事から逃れら れない運命にあったのだ。 だが、詩音の眼前にある、この鋼の巨体は違う。 よほど厳重に固定されているのであろう、墜落の衝撃にも動じた形跡の無い機体の印象 は一言で表すのなら、 「まるで、竜みたい」 その言葉通り、二本の足で床を踏みしめ、鋭い爪を有する腕を備えた機体は、一対の大 きな翼を持ち、蜥蜴を巨大化したような姿を有すると伝えられている西洋の神獣、竜を模 したものであった。 「でも、ロボットには違いないし、もしかしたら動いてくれるかも」 自分の思い描いていた鋼の巨人とは違うその姿に戸惑いながらも、詩音は自身と少女の 運命を託す相手として、この竜を選んだ。 しかし、鋼騎はもとより、機械に関する知識を持ち合わせていない詩音にとって、この 竜に命を吹き込む方法など分かるはずもない。 何か手掛かりは無いかと、機械仕掛けの竜の周辺を歩いて見回してみるが、無機質な装 甲に包まれた機体の表面には、手がかりどころか、傷一つついていない。 「絶対、見つけるんだから」 半ば意地になってしまった詩音は、向上した身体能力を活かして竜の背中に飛び乗り、 そのまま鋼の装甲をよじ登っていく。 「まきちゃんを、助けるんだから」 機体にしがみつくようにして背面を登る詩音は、この惨劇に巻き込まれ、母を失った少 女、まきを想う。 全ての人類を救った勇者である父や母に比べれば、自分は何も出来ない無力な人間だが、 それでも、目の前に流れる少女の涙くらいは止める事が出来るのだと、信じたい。 機体を登る最中に坂道で生まれた傷が再び痛み出し、血が流れ始めるが、詩音はそれに 気を取られる事無く、竜の身体を進んでいく。 竜の背を登り切ろうとしている詩音には、膝の傷よりも遥かに重要なモノが見えている。 それは、竜の背の向こう側に見える、頭部にあった。 鋭角なラインを描く竜の頭部の上側が、戦闘機のキャノピーのような造りになっており、 それが開かれた形になっているのだ。 鋼騎に詳しくない詩音にとっても、そこがコクピットなのだという事は明白であり、一 気に膨らんだ希望が、装甲をよじ登って疲労した身体を鼓舞する。 そして、ついに竜の背を登り切った詩音は、その上に二本の足で直立すると、開かれた 希望の入り口に向かって竜の首を疾走し、転がるようにコクピットへと飛び込む。 外から見るよりも深く広い竜の頭部の中は、その外見と同様に、一般の鋼騎と全く異な るものであった。 通常、鋼騎のコクピットは機体の胸部中央に配置され、その中はフェンサーの姿勢の制 御と生命の安全を確保するためのシートと、HMLSを起動していない状態でも簡単な操 作を行うためのコンソールが置かれているが、この機体には、そのどちらも存在していな かった。 夜の闇を受け止める空間の中にあるのは、半分に切り取った銃弾のような形をした、ベッ ドにも棺にも見える金属の箱だけあった。 竜の頭部と同じく、上半分がキャノピーのような造りになっており、これもまた、まる で詩音が来る事を予期していたかのように開かれている。 その詳細など、詩音には分からない。 だが、彼女に迷いは無かった。 開かれたキャノピーに手をかけ、仰向けで寝る姿勢を強制させる構造になっている箱の 中に足を踏み入れた詩音は、それに従って、竜の頭部の中で仰向けになる。 地上よりも遥かに高い位置にあるため、随分と近くに見える輸送機の天井を感じる詩音 の耳に、小さな電子音が届く。 それがこの機体から発せられたものであると気付くよりも早く、詩音を寝かせた箱の天 窓と、竜の頭部を覆う装甲が同時に閉まる。 『こちらICS(イクス)。フェンサーの搭乗を確認。これより起動準備に入ります』 目の前の天窓と竜の頭部が完全に閉じられ、密閉された空間と化した詩音の耳に聞こえ てくるのは、感情の色を感じる事の出来ない、ICSと名乗る静かな女性の声。 『DDD(Demolish Demon Drive)の起動を確認』 ICSの言葉に合わせ、命を吹き込まれた鋼の竜が、まるで産声を上げるかのように、 微かな振動を生み出す。 「う、動いた……動いた!」 竜の装甲しか映らない視界の中でも感じる事の出来た振動に、詩音は自分の行動がもた らした結果に歓喜の声をあげる。 『DDDの状態は良好。これより、フェンサーと機体のリンクを開始します』 詩音の歓喜を意に介さないICSは、やはり感情の見えない声で淡々とこれから行うべ き事を告げると、間を置かず、それを実行に移す。 「ひゃぁ!」 突如意識がブラックアウトした事に放たれた驚きの声は、詩音自身の口からではなく、 機体に備えられた外部スピーカーからのものであった。 自動で音量が調節されたとはいえ、輸送機の中を震わせるには十分な声が壁や天井にぶ つかって反響していくのを、センサーと化した聴覚で受け止めた詩音は、いつの間にか視 界が大きく変わっていた事に気付き、再び驚愕の声をあげる。 『リンク完了。ロックの解除を確認。通常起動モードに移行します』」 ICSの言葉通り、墜落の衝撃にも揺るがなかった固定具が解除された事により、鋼の 竜はその身に自由を取り戻す。 その中に、詩音の魂を宿した状態で。 「とにかく、これを動かす事が出来れば、まきちゃんを助けられる」 息つく間もなく起動し、己の意識を鋼の竜と合一させた詩音は、急速に動きだした事態 に対応し、当初の目的を果たすべく、恐る恐る一歩を踏み出す。 「……あれ?」 詩音の疑問に満ちた声は、歩行が上手くいかなかったからではない。 むしろ、余りにもスムーズに鋼の巨体を動かせた事に対するものであった。 素人が鋼騎に搭乗した場合、本来の自分が持つ距離感と、自分の魂を宿した鋼の身体が 持つ距離感の差を認識できず、歩行すらまともに行えないのが常識である。 だが、詩音は初めての鋼騎にも関わらず、その一歩を危なげなく成功させたのだ。 ――なんだろう、この感覚 次に左足を、今度はもう少し素早く踏み出してみるが、二歩目も問題無く大地を踏みし める。 ――この機体の事が、全部分かる もう躊躇する必要の無くなった歩行は熟練のフェンサーを思わせる滑らかさで行われ、 鋼の竜となった詩音は、黄金の輝きを放つ目をライト代わりに、先ほどと同じ場所で待っ ている、まきを照らし出す。 「まきちゃん、もう大丈夫だよ」 「おねえちゃん、なの?」 「うん。これで、まきちゃんを安全な所に連れていってあげられるからね」 決して穏やかな容貌をしていない竜から聞こえる優しい声に、まきは警戒を解いて歩 み寄り、差し出された竜の手に乗ろうとする。 その瞬間、二人の間を引き裂く轟音と共に、輸送機の天井が跡形も無く吹き飛ばされ る。 「何か物音がすると思えば、意外な獲物がいたのであーる」 天井が吹き飛ばされ、詩音達の前に再び姿を見せた紅の月を背に、銀の球体を繋げた 異形、弾圧球人が姿を現す。 「白き月の民の機械人形など、この弾圧球人の敵ではないのであーる」 「やらせない!」 標的を前に腕を伸ばし、球体を発射しようとする弾圧球人よりも速く、鋼の竜が背の 翼を利用し、その体を銀の巨体へとぶつける。 「ぬぉ!」 下からの不意打ちに、弾圧球人は大きく一歩後退するが、そこで踏みとどまり、即座 に右腕から球体を発射して反撃に移るが、それよりも早く翼を広げて宙を舞う竜には命 中しない。 「こうなったら」 宙を高速で舞う鋼の竜が、偽りの夜に舞い降りる。 「私が、この化物をやっつける!」 紅の月と燃え盛る炎に照らし出されたのは、黒に近い、深い赤の装甲。 その中で輝く黄金の目が、弾圧球人を見据える。 「このラ・ネリームと弾圧球人を倒そうとは、つまらん冗談なのであーる」 目的を果たせなかった球体を右腕に戻した弾圧球人は、赤竜の倍近いある巨体を揺る がしながら、ゆっくりと距離を詰める。 ――とりあえず、ここから離れないと 既に街としての機能の大半を失った瓦礫の海をこれ以上壊さぬため、この近くで事の 成り行きを見守っている、まきを巻き込まないため、詩音は竜の翼を広げ、人気の無い 海沿いへと向かう。 「逃がさないのであーる」 背を向け、高速で飛び立つ竜を追いかけ、弾圧球人も加速を始める。 「イクスさん、だっけ? 聞こえてるかな?」 『何かご用でしょうか』 自分の思惑通りに弾圧球人が追ってきた事を確認した詩音の言葉に、ICSは即答。 「イクスさんは、このロボットの事、知ってるんだよね?」 『はい。私はICS。Intelligence Control Systemですので。それと、私に『さん』 は必要ありません』 「イクスさん、インテリなんだ。すごいんだねぇ。あ、私は詩音。月守詩音だよ」 『多少の誤解があるようですが、大きな問題では無いと判断します。ともあれ、これか らは詩音様のサポートとシステムの管理をさせていただく事になります。重ねて申し上 げますが、私に『さん』は必要ありません』 移動中は手を出す気が無いのか、嘘のように静かな弾圧球人を後ろに従えたまま、赤 の竜は破壊の夜を飛び続ける。 「ねえイクスさ……イクス。このロボットで、あの化け物をやっつけるには、どうした らいいの?」 『詩音様。この機体を『ロボット』という大雑把な名称で呼ばれるのは、少し不愉快だ と言わざるを得ません。この機体を呼ぶ時は、私達の総称である『鎧王機』か、この機 体固有の名である『焔竜機(えんりゅうき)』とお呼び下さい』 時は少し遡り、詩音が輸送機の残骸の中で、まきと出会っていた頃。 「詩音!」 何度も何度も無意識下で叫び続けてきた名前が言葉となって表れた事に気付き、次 いで、言葉を聞いている自分が、意識を取り戻したのだと気付く。 「……俺、生きてるのか?」 意識を取り戻した衛人は、瓦礫の下から這い出そうと、全身に力を込めて前へと進 む。 その動きに合わせ、小さな破片が衛人の身体から剥がれるように落ちていく。 「こ……っの!」 うつ伏せになった体勢で、右手が自由に使える事に気付いた衛人は、右手を前に出 し、眼前の瓦礫を押し出す。 幸運な事に小さな破片が大半を占めていた瓦礫の山は、衛人の力で簡単に押し出さ れ、間も無く、衛人は己の身体を全て外に出す事に成功した。 破壊が進み、平坦では無くなった道路に立ち、自分の身体の状態を確かめる衛人は、 細かな傷は多いものの、動くのに問題が無い程度であると判断し、人生で初めて心の 底から神に感謝した。 「詩音、やっぱり行っちまったのか」 周囲に詩音の姿が無い事を確かめた衛人は、破壊が進む街の奥にある創世島を見る。 自分がどれほどの間気を失っていたのかは知らないが、詩音が向かう先だけは分かっ ている。 ならば、自分の行く先もまた、決まっている。 「あいつ、トロいのに無茶しやがって」 何箇所も破れ、無残な姿になった制服を身に着けたまま歩き始めようとした衛人は、 すぐ傍に放り出された赤い自転車に目を留める。 持ち主に見捨てられたのであろう、鍵やスタンドをされぬまま、道路の中央に放置 された赤い自転車に近付いた衛人の心に、この事態の中でさえ芽生える罪悪感がよぎ るが、それよりも強い気持ちが、衛人の手を自転車のハンドルに向かわせる。 「詩音、待ってろよ」 赤い自転車に全力を込めながら、衛人は崩壊した街を疾走する。 自分にとって、最も大切な少女を守るために。 「焔竜機の起動を確認したのか」 「はい、間違いありません」 未だに溢れかえる情報に振り回されるメタル・ガーディアンの司令室に新たに舞い込 んだ一つの情報は、凌牙の興味を惹くのに十分すぎるものであった。 「誰が操縦している」 「現在、通信が繋がらず、確認できません」 「引き続き呼びかけてくれ」 娘の安否を気遣う暇さえ与えてくれない、膨大な情報の処理と関係各所との連携をこ なし続ける凌牙は、機体を乗せた輸送機の末路を思い返す。 操縦席を銀の弾丸で貫かれ、そのまま地面に激突した輸送機に乗っていた、焔竜機の フェンサーが生きているとは到底思えない。 「誰が、あの機体を動かしている」 その疑問に対する答えを見つける事が出来ないまま、凌牙は次々に押し寄せる情報の 海に呑みこまれていく。 「焔竜機、っていうんだ、このロボ……鎧王機? は」 『はい。鋼騎を超える鋼騎、それが鎧王機です』 目的地が近付いて来る中、夜空を切り裂く赤き竜、焔竜機のシステムを司るICSの 感情の無い声が淡々と響く。 『以前、人類と敵対した異世界の生体兵器、鏖魔の所有していた機動兵器である鎧鏖鬼 を完全に模倣し、そこに人類が培ってきた技術を融合させて生み出されたのが、私達鎧 王機であり、開発のきっかけとなったのは』 「そういう事じゃなくて! どうやったらあの化け物をやっつける事が出来るか教えて よ! 何か武器とか無いの?」 『失礼しました。では、DDDの起動レベルを引き上げ、戦闘モードへと移行します』 直後、焔竜機の、詩音の中に刻まれていた鼓動が変わる。 今までとは比べ物にならないほどに重く、力強い鼓動を刻む焔竜機に魂を宿す詩音は、 沸き上がる力の奔流を確かに感じ取っていく。 「すごい。どんどん力が沸いてくる」 『戦闘モードへの移行を完了。詩音様、ここは変形しての戦闘を提案します』 「え? 変形って、これ、人みたいな姿に変わるの?」 『可能です。可変システムの実用化も、この焔竜機が造られた目的の一つですので』 「どうやって変形するの?」 『本機に搭載されているのは音声入力による変形システムですが、変形時のキーワード の登録が未完了になっています。従って、キーワードの決定権は詩音様にあります』 もう間もなく目的地に到着するという状況下で、詩音はICSが告げた言葉を脳内で 整理する。 「えっと、つまり、私が決めた言葉を言えば変形できる、って事かな?」 『その通りです』 自分の考えが間違っていなかった事は嬉しいが、この状況でキーワードを考えろ、と いう無理難題を突き付けられた詩音は、すぐに考えがまとまるはずもなく、変形に必要 なキーワードを出せないまま飛び続ける。 そして、そのまま焔竜機は当初の目的地である海沿いへと到着する。 ショッピングセンターを中心とした様々な商業施設を作り、人を呼び込もうという計 画が始まり、本格的な着手にとりかかる直前のこの周辺は、建物を作るための更地が広 がった状態になっており、付近に人や建物はない。 『詩音様、変形のキーワードを』 「もう、なんでもいいや! 『エクスチェンジ』!」 ICSに急かされ、咄嗟に思いついた単語を口走った詩音は、直後、脳内に確かなイ メージを得る。 それは、竜の身体が鋼の巨人へと変わっていく光景であり、現実もまた、そのイメー ジ通りの動きを見せる。 『変形完了です』 数秒にも満たない時間の後、ICSは短い言葉で事実を告げる。 それと同時に、変形を終え、ヒトの姿となった焔竜機は、更地となった地面に両足を 着ける。 黒に近い、深い赤の装甲はそのままに、大きな翼を背に、竜の頭部を胸の中心に据え た鋼の巨人は、新たに内側からせり上がった、兜を装着した凛々しい女騎士を思わせる 頭部を、一歩遅れて大地に降り立つ銀の異形に向ける。 「すごい……本当に、人の姿になっちゃった」 『変形時のキーワードの登録は完了しました。しかし、『両替』がキーワードとは、何 か意図があるのでしょうか』 「え? そ、そうだっけ?」 ICSに指摘され、咄嗟に出た自分の言葉の意味さえも理解できていない詩音は、渇 いた笑いで場を凌ぐ。 「変形をするとは、なかなか面白い奴なのであーる」 人型どうしで向かい合う事で、より強調される巨体を前進させながら、ネリームは聞 く者に不快感を与える下品な笑いを放つ。 「イクスの言う通り変形したけど、ここからどうすればいいの?」 『戦闘モードに移行した事により、DDDと両腕に搭載された改良型機結陣が連結され ました。これで戦闘行動が行えます』 「全然分からないよ! 私、鋼騎に乗ったの、これが初めてなんだから!」 『鋼騎ではありません、鎧王機です。では、率直に申し上げます。今、詩音様は両手で 炎を自在に操る事が出来る、そういう状態にあるとお考え下さい」 「炎を、自在に……?」 言葉に、詩音は思わず鋼の左手を見る。 月守の家系が宿す異能の力が宿るその手を。 「こちらから仕掛けるのであーる」 ICSとの会話に集中し、眼前の敵に対する警戒が薄くなっている焔竜機に対し、弾 圧球人は両腕の先端部を撃ち出す。 銀の双弾が狙う先は、焔竜機の胴体部。 迫り来る銀の弾丸を前に、焔竜機は五指を広げた左手を前に突き出し、意識を集中さ せる。 「これで!」 詩音の力強い声と共に現れたのは、焔竜機の前方を覆う、炎の壁。 魔性の夜を焦がす、鮮やかな紅の壁に阻まれた銀の弾丸は一瞬で灰になり、宙にその 残滓を飛散させる。 「なんと! そのような力があったとは、驚きであーる」 先端部を失い、その分短くなった両腕を大袈裟に振り、弾圧球人は大きく一歩後退す る。 「すごい」 弾圧球人の攻撃を完全に防ぎきった焔竜機の力に、詩音は驚嘆の声を漏らす。 月守の家に生まれた女性は、その手に炎の力を宿す。 無論、詩音も例外では無く、彼女の左手には炎の力が宿っている。 だが、彼女が持つ力は弱く、このような芸当が出来るなど夢にも思わなかったのだ。 「これなら、あの化け物をやっつけられる!」 「調子に乗ると、痛い目を見る事になるのであーる」 焔竜機に秘められた力の一端を垣間見た詩音と、弾圧球人を駆るネリームの戦いが、 加速していく。 番外編(その2)