「間に合うかな〜? 遅れるかな〜?」 桜に彩られた春の街を見下ろす丘の上に立つ大きな家の中、軽やかに響くのは、澄んだ 声。 「だいじょうぶ。大丈夫ったらだいじょうぶ〜」 歌に似た、楽しげなリズムに乗せた言葉を繋げていく声の主は、リズムに合わせたステッ プで家の大きさに見合った広さと内装の洗面台の前に立ち、正面に映る自身の顔に、屈託 の無い笑みを送る。 鏡に映るのは、まだ幼さを十分に残した愛らしい顔立ちに、背の中ほどまで伸びた、照 明の光に透けそうなプラチナブロンドの髪、北方の白人のような白く透き通った肌、浅い 海面を思わせる薄い青の瞳を持つ、一人の少女。 「ふんふふ〜ん」 鏡に映った自分もまた笑みを返してくれた事に満足したのか、小さく数度頷いた少女は、 慣れた手つきで手に持っていた淡い水色のリボンを器用に操り、長く伸びた髪の一部を頭 の左右にまとめる。 「これでよし、っと」 極上の絹のような光沢を持つプラチナブロンドを、いわゆる「ツインテール」に仕上げ た少女は、次いで自身が身に着けている黒のブレザーと、胸元で結ばれた同じく黒のリボ ン――私立聖城中学の制服である――が整えられている事を確認すると、革の通学鞄を手 に、再び軽やかなステップを刻み出す。 「それじゃ、いってきま〜っす」 玄関で靴を履き、踊るような足取りをそのままに家を出る少女の声に、家の中からの返 事は無い。 共働きをしている両親が仕事のために明日まで家を空けているのがその理由だが、これ が初めてではない少女にとっては、これも日常の一部であった。 「遅えよ詩音(しおん)」 その代わりと言わんばかりに、少女、詩音にかけられた声は、まだ声変わりをする前の 少年のものであった。 春先にも関わらず、全身くまなく日焼けした、まだ本格的な成長期を迎える前であろう 小柄な身体に不釣り合いな大きさのスポーツバッグから覗く二本の金属バットと、力強い 目を輝かせる坊主頭といった出で立ちは、誰の目にも彼が野球部員である事を連想させる。 「あや? 遅かった?」 「何が『あや?』だよ。お前は昔っからトロいというか、のんびりしてるというか」 「ごめんごめん。次からは、もちょっと頑張るからね」 「もういいよ。お前に期待しても仕方ねえから」 無邪気な笑みを浮かべたまま謝る詩音を見て、これ以上言及する気を無くしたのか、そ れともこれまでの経験から来る諦めか、少年は大袈裟な動作でため息をつくと、スポーツ バッグを背負って歩き始める。 「あ、待ってよ衛人(えいと)くん」 二本の金属バットを鳴らしながら歩き始める衛人の後を追おうとした詩音だが、家の鍵 をかけてない事を思い出し、慌てて一歩を踏みとどまり、確実に施錠を完了させてから小 走りで衛人の背中を追いかける。 「やった、追いついた〜」 「おい、隣に立つなっていつも言ってるだろ」 間も無く追いつき、横に並んだ詩音に対し、衛人はわずかに語気を荒げる。 「ぶぅ、衛人くんのケチんぼさん」 「ケチで結構」 頬を膨らませながらも、素直に衛人の言う事を聞いて一歩下がる詩音。 「身長の事なんて、気にしなくていいのに。私の方がお姉さんなんだから」 「うるせ、それを口にするな。それに、お前は誕生日が二日早いだけだろ」 詩音に背を見せたまま、前を歩き続ける衛人は彼女の言葉を即時に遮る。 詩音と同じく、この春で中学二年になった衛人だが、彼の身長は同級生と比べても低い 方から数えた方が圧倒的に早く、一方で詩音は女子の中では比較的身長が高い。 結果、二人が並んだ場合、詩音の方が身長が高くなってしまい、衛人はそれを受け入れ る事ができないでいるのだ。 そのため、通学路を歩く二人は、常にわずかな距離を置いた前後の並びになる。 「ねえ、衛人くん――」 「昨日テレビでね――」 「この前、可憐ちゃんが――」 学校までの道のりを歩く間の空白を全て埋めるかのような勢いで、詩音は衛人の背中に 向かって笑顔を絶やさぬまま話を続ける。 内容のほとんどは他愛の無い日常の一コマにしかすぎないが、それを心底楽しそうに語 る詩音に対し、衛人は時折振り向いて相槌を打つだけで、話を広げようとはしない。 それを気にせず、詩音は次から次へと話題を取り出しては衛人に投げかけていく。 詩音の家がある丘を降り、道が平坦になって来た辺りから、周囲に同じ制服を着た男女 が増え始める。 多くは詩音らと同じく徒歩であるが、聖城中学では自転車通学も認められているため、 自転車に乗って通学する生徒も、そこそこ見受けられる。 まだ散らずに咲き乱れる桜に囲まれた通学路を衛人と歩く詩音は、まだ尽きる事の無い 数々の話題を提供し続けていく。 「そしたら、ぽ〜んってなったんだよぉ。あ、ぽ〜んじゃなくて、ぴょ〜ん? ん〜、も しかしたら、ぴゅ〜ん、だったかも?」 音って難しいねえ、と笑う詩音に、衛人は振り向いて何か言葉をかけようとしたが、そ れよりも早く、彼の視界にあるものが飛び込んで来たために、衛人は詩音にかけるべき言 葉を中断し、別の言葉を吐き出した。 「ったく、馬鹿が来やがった」 「え?」 悪態をつく衛人につられて後ろを剥いた詩音の視界に飛び込んできたのは、脅威的なス ピードで通学路を一直線に突き進む一台の自転車。 「行くぞ! 宇宙の彼方まで! 吾輩のビートはマキシマム!」 その自転車に乗っているのは、町中に響きそうなほどの声で叫ぶ男子生徒と、 「世界に届け! 私の、この鼓動!」 それに負けじと大声を張り上げる、自転車の後輪に取り付けられたハブステップに足を かける女子生徒であった。 学校付近の通学路で堂々二人乗りをしている上に、異常なまでの奇声を発する男女だが、 周囲は彼らに興味を示す素振りさえ見せず、一瞬だけ視線を向け、すぐに各々の世界へと 戻っていく。 この男女の存在に驚くのは、この春入学した新入生の中でも、比較的遠方から通う者だ けであり、そんな彼らも、初めての定期考査を終える頃には既に驚く事は無くなっている。 「おお! 見たまえ美雪! 前方に見えるは、愛しの詩音ちゃんではないか!」 「わお! これって運命かしら恭一郎!?」 舞台の台詞のように大袈裟な口調で言葉を交わす男女を乗せて爆走する自転車は、前を 歩く詩音達を追い越した所で急ブレーキをかけ、タイヤを横滑りさせながら急停止。 「やあ、今日も朝から素晴らしい出会いだね」 「ハ〜イ。グッモーニン詩音ちゃん」 自転車から降りた男女は、前に立つ衛人を無視して、それぞれ詩音に挨拶の言葉を送る と共に右手を差し出す。 「おはようございます。天野先輩、美雪先輩」 差し出された手を握りながら、詩音は変わらぬ笑みで挨拶を返す。 「詩音ちゃん、僕には『天野先輩』で、美雪は『美雪先輩』とは、少し贔屓をしている んじゃないのかい?」 声と同じく、舞台上の動きに似た大袈裟な動作で肩をすくめる男の名は、天野恭一郎。 中学生とは思えない見事な長身と完璧なスタイルに、明るい茶に染めた長髪が似合う端 正な顔立ちを持つ恭一郎は、ここでようやく気付いたかのように、詩音の傍らに立つ衛人 へと視線を向ける。 「やあ、そこのイガグリ君も元気かな」 「三島衛人です、天野先輩」 詩音に比べ、明らかに適当に扱われた事に気分を害しながらも、先輩を相手にそれを表 に出すまいと、衛人は出来る限り平静を装った声で己の名を告げる。 「そうだったね。しっかりと覚えておくよ」 「もう、恭一郎ったらお茶目さんなんだから。でも、そこが……たまらない!」 爽やかな笑みを浮かべる恭一郎の横で身をよじらせているのは、こちらも中学生離れし た長身と、肩の辺りで揃えられた黄金の髪を持つ女子生徒、美雪・クリスタルハート。 アメリカ人とのハーフである彼女は、制服の上からでも分かる、日本人離れした豊満な 肢体を惜しげも無く揺らし、詩音に抱きつく。 「わぁ」 「相変わらずお人形さんみたいに可愛い子。このプラチナブロンドの髪、とても素敵だわ。 詩音ちゃんも、ハーフだったかしら?」 「違うよ美雪。僕らの詩音ちゃんは、オーストリア人とのクォーターさ」 「そうそう。そうだったわ。でも、クォーターなのに、見た目は完全に白人みたいなんて…… それも素敵! ああ、このまま持ち帰りたい!」 「み、美雪先輩。く、苦しいです……」 美雪の豊満なバストに顔を埋める形となった詩音は、脱出しようともがいてみるが、美 雪は詩音の背に回した腕に込める力をさらに強くし、それを許そうとしない。 「詩音ちゃんを持って帰ったら、ああしてこうして……ふふふ、私の鼻血が何リットル出 るか楽しみね!」 「はっはっは! 美雪はいけない子だなぁ! でも、吾輩はそんな美雪が大好きさ!」 「く……くるし〜よぉ……」 もはや抵抗を諦め、全身の力を抜いて美雪に身を委ねる詩音。 「先輩達、もうその辺りで」 いつまでも終わりそうにない先輩の戯れに、衛人が口を挟もうとしたのと同時、四人の 耳に、聞き慣れた音が飛びこむ。 それは、 「大変だよ美雪! 今のチャイムで吾輩達の遅刻が決まってしまいそうだ!」 「何て事! このままでは私達の輝かしい経歴に、傷がついてしまうのね!」 学校生活の始まりを知らせる予鈴の音を認識した美雪は、名残惜しそうに詩音から身体 を離すと、後輪のハブステップに足をかけ、既にサドルに跨っている恭一郎の肩に手 を添える。 「ではさらばだ! 詩音ちゃんにイガグリ君!」 「また会いましょう!」 それぞれに言葉を残して、二人を乗せた自転車は、猛スピードで詩音達から遠ざかって いく。 「はぁ、苦しかったぁ」 瞬く間に小さくなっていく先輩の背中を見ながら、詩音は軽く息を吐き出す。 「ったく、相変わらず非常識な人達だよな。ここからじゃ走っても間に合わないし」 巻き添えを食らう形で遅刻がほぼ決定した衛人は、声と表情で不満を露わにするが、 「そうかな? 二人とも優しいし、楽しい人達だと思うよ?」 同じく遅刻になってしまいそうな詩音は、そんな事など意にも介さない、純粋な笑みを 返す。 「お前はいつでも呑気だよなあ」 「へへ、ありがと」 「誉めてないっつうの」 「あや? そうなんだ。でも、遅刻は困ったね」 言葉の内容とは異なり、ゆっくりとした口調の詩音は、校舎の方へと淡い青の瞳を向け て一瞬思案した後、結論を下す。 「ね、衛人くん」 「ん?」 「ちょっと、頑張っちゃおうか」 そう告げるや否や、詩音は足を肩幅程度に開いた姿勢のまま、軽く瞼を閉じる。 ――吸う時は、身体の隅々に気を届かせるように かつて教わった言葉をそのままに、詩音は細く長い呼吸に入る。 ――吐く時は、身体の中の古い空気を押し出すように 呼吸を繰り返し、感覚が十分研ぎ澄まされた事を認識した詩音は、閉じた瞼をゆっく りと開ける。 「よし」 遠くに見える山の模様さえも克明に捉えるようになった視界を得た詩音は、衛人の左手 を握る。 視界と同じく研ぎ澄まされた感覚は、手を通じて衛人の鼓動を余す所なく詩音に伝える。 「いっくよ〜」 全身の力を緩めた後、わずかに表情を引き締めた詩音は、その身体からは考えられない ほどの力強さで地面を蹴り、衛人ごと身体を前へと加速させる。 「おわ!」 予想していた事とはいえ、急加速に身体を引っ張られる衛人は、思わず声をあげるが、 信じがたいほどの勢いで走り始めた詩音は、その声さえも置き去りにしてしまう。 「間に合え間に合え間に合え〜」 呪文のように呟きながら、衛人を引っ張りながら風のような速度で通学路を走り抜ける 詩音。 もしこれを見る者がいれば、その人外の速度に我が目を疑うだろうが、授業開始を目前 にした通学路に、この疾走を見る者はいない。 普通の人間では到達できない速度で通学路を突き進む詩音達の視界の中、彼女らが目指 す聖城中学の校舎が大きくなっていく。 他の私立に比べても決して安くない学費と、創立してまだ十年も経っていない聖城中学 の校舎は、有名デザイナーの手による、西洋の城を現代風にアレンジしたかのような独特 な外観を有している。 衛人の手を握ったまま、常識外れのスピードで時間制限間際の校門を通過した詩音は、 そのまま下駄箱へと続く直進をせず、足を右へと向ける。 詩音と衛人のクラスは二人とも二年四組であり、その教室は、校門を背にして右手にあ る第三校舎の三階に位置している。 デザインを重視しすぎたために機能性が著しく低い事で有名な校舎において、下駄箱で 靴を履き替え、そこから自分達の教室に向かうまでに費やす時間は、決して短くない。 故に、詩音の決断は一つ。 「跳んじゃうからね!」 「マジかよ!?」 弾丸のような速度で象牙色の校舎に肉薄した詩音は、言葉通りの行為を実行する。 走りと同じく、人間離れした大跳躍を見せた詩音は、一気に校舎の二階まで到達すると、 「もう一回!」 落下するよりも早く校舎の壁を勢いよく蹴り、己の身体を垂直に持ち上げる。 壁を足場にした二度目の跳躍で三階に到達した詩音は、開いている窓の縁に手をかけ、 それを起点に身体を持ち上げ、前転をするような体勢で、文字通り教室に転がりこむ。 それに引っ張られる形で、衛人もまた、教室内に飛び込む。 「間に合った、かな?」 教室中の視線を一身に浴びつつ、詩音は満面の笑みと共に、安堵の吐息を漏らした。 聖城中学に勤める教師であり、二年四組の担任でもある御堂和尊(みどうかずたか)は、 毎朝のホームルームで教え子たちに人としての道を説く事を己に課していた。 二メートル近い長身に坊主頭、初対面の人間を委縮させてしまう強面、学生時代から今 に至るまで続けている柔道で鍛えた見事な筋肉が合わさり、生徒からは「和尚」や「筋肉 住職」と呼ばれている彼が行う毎朝のホームルームは説法のように見えなくもない。 「君達は普段、親に対し何をしているか振り返ってみなさい」 見た目と違わない、重く低い和尊の声が、静かな教室に響く。 二年四組の生徒数は、男女が十二名ずつ、合計二十四名。 無言で席に座っている生徒達は、誰も言葉を発する事無く、静かに和尊の言葉に耳を傾 けている。 和尊は、その中にある二つの空席に意識を傾け、それぞれの席に座るべき生徒の姿を思 い浮かべる。 ――天野らに巻き込まれて遅刻とは、不運な つい先ほど職員室を訪れた恭一郎が「詩音ちゃんとイガグリ君は遅刻かもしれないね!」 と、事の経緯を説明しに来たため、和尊は二人の姿が教室に無い事に疑問を抱かない。 当然、自分のクラスの生徒を巻き込んだ事と自転車の二人乗りに関して、少しお灸を据 えておいたが、遅刻という事実には変わりない。 「答えは出ただろうか」 意識を空席から離した和尊は、説法に戻る。 「君達が見つけた答えをここで聞く事はしない。普段から親に何かをしている者、そうで ない者、それぞれに自分の考えと行動があり、私はそれを否定しない。大事なのは」 教壇に立ち、生徒の視線を浴びながら話を続ける和尊は、外からわずかに聞こえてくる 音と、窓際の生徒が小さく騒ぎ始めている事に気付く。 「何事か」 「それが……」 窓際の女子生徒が問いに答えるより早く、「それ」は来た。 「間に合った、かな?」 教室の後方に位置する窓から転がりこんで来た「それ」は、女子生徒の姿をしていた。 校舎の壁を伝い、三階にある教室に飛び込んで来たという離れ業を目の当たりにしても 顔色一つ変えない和尊は、よいしょ、と立ち上がる女子生徒、詩音の前に立つ。 「あ、先生。おはようございます」 「おはよう。このような状況でも挨拶を忘れぬ心構えは、非常によろしい」 驚きに包まれる教室を余所に、普段通りの笑顔で挨拶をする詩音に対し、和尊は一拍の 間を置いて口を開く。 「ところで、だ。今、皆で『親』について考えていた所だ」 危険を顧みない無謀な行為をした詩音に対する叱責の声を飛ばさず、和尊は話の軸をホ ームルームの主題に戻す。 「特に君の場合、親の存在は特別に感じられるかもしれないな」 詩音の後方でようやく衛人が立ちあ上がった事を視界に捉えた和尊は、詩音に言葉を重 ねる。 「世界を守った勇者、月守凌牙と、彼の鋼騎、咬牙王を生み出した技術者、月守静流の娘、 月守詩音にとっては」 「はい! 私、パパもママも大好きです!」 和尊の言葉に、詩音は元気良く応えた。 東京湾に浮かぶ人工島、創世島。 かつて、異世界から破壊と闘争のみを求めて襲来してきた、鏖魔(おうま)と呼ばれる 生体兵器と戦うための拠点として造られ、その役目を見事に果たした島の地下に広がる施 設内の一室に、一組の男女の姿がある。 それなりのランクのホテルを思わせる内装の部屋の中、ベッドに腰掛けた状態の二人は、 女性の手に収められた何枚かの紙に視線を集中させている。 「これが、ロンドン郊外で起きた怪奇現象の概要、って所ね」 お互いに紙に書かれた内容が頭に入った事を確認し、女性、月守静流は手に持っていた 紙を折りたたみ、ベッドの上に置く。 肩より少し伸びた上品なプラチナブロンドの髪に、淡い輝きを見せる青の瞳、若さと美 しさを保ち続ける白い肌を持つ静流は、ここ数日の疲れを解きほぐすように大きく伸びる と、そのまま上体を右に倒し、隣に座る男性の腿に頭を乗せる。 「ねえ、凌牙は、どう思う?」 「そうだな」 眼下に位置する妻の髪を丁寧に撫でながら、男、月守凌牙は今目を通した報告書の内容 を胸の内で反芻する。 「ロンドン郊外のある一帯のみが突然夜に変わり、空には巨大な赤い月が現れた」 「そう。そして」 「鋼騎と同程度、あるいはそれ以上に巨大な人影が目撃された、という事か」 何も知らぬ者ならば一笑に付して相手にしないであろう怪奇現象も、異世界の生体兵器 と直接戦った凌牙には、決して夢物語には思えない。 「突如現れた人影が一瞬で消えてしまった、という点だけを見れば、鏖魔の転移技術とよ く似ているが、辺りが夜になる、というのは聞いた事が無い」 「そうね。鏖魔の生き残り、という可能性は低いと考えていいでしょうね」 「やはり、鏖魔とは異なる世界から来た何者か、という事になるか」 「今の所は、そうなるわね」 髪を撫でる夫の指に自分の指を絡ませながら、静流は言葉を続ける。 「鏖魔が持つ転移技術の解析と研究の過程で、この世界は、鏖魔の世界だけでなく、他の 世界とも繋がっている可能性が高いという事が判明している以上、今回の事件は、鏖魔と は異なる世界の何者かの仕業、という可能性が非常に高い」 決して穏やかでない内容の言葉に、静流の声に、思わず力が入る。 ただ戦い、その中での快楽を求める事に終始するという、人間には理解できない本能に 従い、その衝動の赴くままに行動し、滅びた鏖魔。 彼らは人類にとって大きな脅威であったが、彼らが人類の言葉を解する事と、その行動 原理が非常に単純であったため、迫り来る破壊者に対しての対策を講じる事が出来た。 だが、今回の相手が鏖魔と同じとは限らない。 何を目的としているのか、意志の疎通は可能なのか、どういう姿をしているのか、全て が不透明である現状では、警戒を強くする以上の対策を打つ事は出来ない。 でも、と静流はの口調が幾分か軽やかなものに変わる。 「今回の事件は全く予定外だったけど、私達の『鎧王機(がいおうき)計画』がひと段落 ついたのは不幸中の幸い、と言えるかしら?」 「そうだな。アレが間に合えば、大きな戦力になる」 静流の言葉に頷く凌牙は、かつて、鏖魔の用いた機動兵器の名を与えられた計画と、現 在に至るまでの過程を思い出し、口の端を小さく笑みの形に変える。 鏖魔との戦いを終えてから十五年。 人類にとっての脅威であると同時に、鋼騎を始めとする科学技術の進歩の原動力ともなっ た鏖魔の技術力に対して、この計画は一つの終着点であるといえる。 静流と結婚し、詩音を授かり、育ての父である真島烈から創世島を託された十五年の集 大成が、間も無く形となって自分達の目の前に姿を見せるのだ。 中心人物として計画の立ち上げから関わってきた夫婦は、目を合わせ、互いに笑みを浮 かべる。 が、間も無く、壁にかかっている時計に視線に目を移した凌牙は、何かに追われている かのような焦りを顔中に浮かべ、常人では到底視認できない速さで脇に置いてある携帯電 話を取り寄せる。 「抜かった。早く詩音に連絡をせねば……!」 島で働くスタッフには決して見せる事の無い切羽詰まった表情で携帯を開いた凌牙は、 鏖魔との戦闘時を彷彿とさせる速さでボタンを操作するが、携帯の反応が凌牙の動きに追 いつけないため、思う通りに操作できない凌牙の表情に苛立ちが募る。 「もう、少し落ち着きなさい」 遅々として進まない夫を見かねた静流は、凌牙から携帯を取ると、落ち着いた動作で操 作し、詩音の携帯へと繋げる。 詩音が出るまでの隙間を示すコール音を、必死な表情で聞き入る凌牙を横に、夫の腿に 頭を乗せたままの姿勢で娘を待つ。 そして、数度のコール音の後、 『もしもし、パパ?』 「残念、ママでした」 スピーカー越しに聞こえる娘の声に、だらしなく頬を緩ませる凌牙を見ながら、静流は 詩音が生まれる前の夫との変貌ぶりに半ば呆れさえ覚えながら、自身も頬を緩ませる。 「今日はどんな一日だった?」 『ん〜、今日はね』 毎日、詩音が寝る前のタイミングにかけ、娘と一日の行動を報告し合う親子の会話は、 軽く弾んだ状態で続けられていく。 母と娘の会話が長く続いていくにつれ、凌牙が目と手で「代われ」と強く訴えかけてく るが、静流はそれを軽くあしらいながら娘との会話を続ける。 「そうなの? あまり無茶しちゃ駄目よ。詩音も衛人君も怪我したら大変よ?」 『うん、ごめんね。これからは気を付けるから』 「分かればいいの。……ねえ、詩音」 『なあに?』 「パパ、今日はちょっと詩音とお話出来ないみた」 「そんな事はないぞ詩音。パパはここにいるよ」 かつて人類最強のフェンサーと言われた身体能力を最大限に発揮し、静流から携帯を奪 い取った凌牙は、これまで焦らされた鬱憤を晴らすかのように、娘へと言葉を放ち始める。 「風邪はひいていないか? 食事はきちんと摂っているか? 夜更かしはしていないか? 燃えるゴミと燃えないゴミの日を守っているか? あとは……ええい、言葉が浮かばん」 『ぱ、パパ? とりあえず落ち着いて? ね? 私は毎日元気だから」 「……む。すまん、少し焦ってしまった」 中学生の娘に窘(たしな)められ、咳払いで場を濁した凌牙は、眼下で肩を震わせて笑 いを堪える妻を見ながら、自制できない己の心の弱さを恥じると共に、これほどまでに己 の心を動かす娘への愛しさを再認識する。 「ともかく、元気ならば何よりだ。パパとママは、もうしばらく帰れそうにないが、週末 は食事だけでも一緒にしよう。詩音は何が食べたい?」 『えっと、ね』 う〜ん、と電話越しに小さく唸る声さえも愛しいと感じながら、凌牙は愛娘の答えを静 かに待ち続ける。 『あ! 私、あれが食べたい!』 「何かな?」 『ハンバーガー! 今テレビでCMやってて、すごい美味しそうだったよ!』 そういうのは友達と行くものではなかろうか、と思わず声に出しそうになった凌牙だっ たが、愛する娘の希望とあらば断る理由など存在しようはずも無い。 「よし、分かった。ならそれにしようか」 『やった! 絶対だからね?』 「約束するよ。……さて、そろそろ時間だ。おやすみ、詩音」 『うん。おやすみ、パパ。ママもおやすみ』 「ええ。ハンバーガー、私も楽しみにしておくわね」 その言葉を最後に、娘との通話は終わりを迎えた。 規則正しい電子音だけを返す携帯の通話ボタンを押し、娘との繋がりを失った携帯をベッ ドに放り投げた凌牙は、腿の上に乗る妻の上体を掴んで持ち上げ、ベッドの上に寝かせる。 「親子そろってハンバーガーなんて、何年ぶりかしらね」 シーツを手にし、隣に寄り添う夫の身体にかけながら、静流は凌牙の首に腕を回す。 「さて、な。記憶には無い程に昔の事なのか、それとも初めての事か」 照明を消しながら応えた凌牙は、訪れた暗闇の中で妻の唇に己の唇を重ねる。 「楽しみだな、色々と」 妻を強く抱き締めながらの呟きに、静流は無言で頷いた。 詩音の住む世界や、鏖魔が生み出された世界のどちらにも属さない、彼方の地。 日の光を一切寄せ付けない暗闇に満ちた空間の中、地の底から響くかのような声が聞こ える。 「白き月の地が見つかったとは真か」 「はい、首尾は上々にございます」 それに応えるのは、落ち着いた若い男の声。 「我らが一族の悲願を果たすための約束の地、確かに見つけました」 「して、決行はいつになるか」 「今しばらくお待ちを。白き月の地は広大ゆえに、準備に時間がかかるやもしれません」 「急がせろ。ここに来て停滞は許されんぞ」 「現在、ネリームが向かっております。追ってリープスも彼の地へ向かいますゆえ、もう しばらくご辛抱を」 「余の期待、くらぐれも裏切ってくれるなよ」 その言葉を最後に、声の主のもと思しき気配が消える。 「全ては我ら、紅き月の民のために」 もはや聞く者の無い空間に、若い男の声が静かに響き、溶けていった。 「明日はハンバーガーなのだ〜。なのだ〜」 「その変な歌、朝からずっと歌ってて飽きないのか?」 金曜日の授業を終え、両親との食事を明日に控えた帰路を衛人と共に歩く詩音は、軽い 足取りと歌声で、舞い上がった気持ちを全身で表現している。 他校との練習試合を明日に控え、休養と体調の調整のために部活の無い衛人は家が近所 という事もあり、詩音と帰路を共にしているが、すっかり舞い上がってしまった彼女のテ ンションについていけないまま、踊るように足を進める詩音の後ろをついていく。 「だって、パパとママと一緒に食事するなんて久しぶりだもん」 「……そっか。そうだよな」 家の一階を酒屋として経営している衛人にとって、両親とは常に近くにいる存在であり、 食事を共にするだけで喜ぶ詩音の気持ちが理解出来ないでいたが、彼女の立場に立って考 えてみれば、無理も無い話であると気付く。 人類最強のフェンサーと、最高の鋼騎を生み出すための頭脳を有する技術者は、鏖魔を 滅ぼした後も世界から必要とされ続け、満足に休む暇さえも与えられないまま、鋼騎を次 なる高みへと昇華させるため、日夜仕事に追われ続けている。 まだ中学生の娘を半ば一人暮らしのような状態にする事を選ばざるを得ないのは、人類 の脅威が鏖魔だけではないと理解し、次なる外敵に備えるためであるが、一般人である衛 人は、そこの事情を知る事は無く、ただ漠然と「人類全体のために働いている」という程 度の認識しか持っていない。 それでも、詩音の両親が決して娘への愛が足りないために家を空けているのではない事 は分かっており、彼らが娘にどれだけの愛を注いでいるのかは、詩音が明日の食事を前に こうも盛り上がっている事を見れば明白である。 「でも、何でハンバーガーなんだ? せっかくなんだから、もっと良い物食べりゃいいん じゃねえの?」 「だって、CMがすごい美味しそうだったんだよ」 「んなもん、可憐あたりと食いに行けばいいだろ。それに、詩音の親も、ハンバーガーは ちょっと気まずいんじゃないのか? ああいうの、店の中は学生ばっかりだし」 「え……? そ、そうなの、かな?」 衛人の言葉を聞いて初めて、自分と一緒に食べる両親の事に気を回した詩音は、普段利 用する駅前のハンバーガーショップの光景を想像する。 オフィスの少ない立地も手伝い、二階建てのハンバーガーショップは学生がメインの客 層であり、衛人の言うように、両親と同年代の客は非常に少数である。 週末になれば私服姿の学生が群がる店内で、両親と一緒にハンバーガーを食べる絵を頭 の中で描いてみた詩音は、そのミスマッチな光景に思わず、「うぅっ」と小さな呻きを漏 らす。 「だ、ダメかもしれない」 「な? 今日も電話するなら、その時に言ってみろよ」 「うん、そうする」 両親とのハンバーガーを諦めた詩音は、かねてからの計画が白紙になった事に対する落 胆の表情を浮かべる事も無く、愛らしい笑みを衛人に向ける。 「衛人くん、ありがとね」 「な、なんだよ急に」 「だって、衛人くん、いつも私の事気にしてくれるから。毎朝私の家の前で待っててくれ るし、晩ご飯にも呼んでくれるし」 「ば、馬鹿言うなよ。朝、お前の家の前で待ってるのは、トロいお前が遅刻したら、近所 に住む俺が和尚に怒られるから、仕方なくだよ。それに晩飯は母ちゃんが詩音も呼べ、っ て言うから」 「うんうん。いつもありがとね」 「だからそれは……って、もういいや」 一方的に会話を終わらせた衛人は、耳まで赤くした顔を逸らし、早足で詩音の横を通り 過ぎる。 「あや? どしたの衛人くん?」 「なんでもねえよ!」 必要以上の大声で返す衛人は、今の顔を見られまいと、このまま早足で家まで帰ろうと するが、 「まってよ衛人くん」 「げ! く、来るなよ!」 事態が呑み込めないまま駆け足で追いかけてくる詩音を振り払おうと、衛人はペースを 上げようとするが、それよりも早く一つの異変に気付き、足を止める。 「やった。追いついたよ」 「詩音。お前、気付いてないのか?」 「へ?」 衛人の言葉を理解出来ない詩音は、その意図を掴むため、周囲に視線を向ける。 そこに広がっていたのは、一切の日光を拒絶した夜の闇と、黒に染められた空の中、唯 一輝く、巨大な紅の月であった。 「ここが約束の地に間違いないのであーる」 突如として闇に覆われた街が、慌てて人工の光を灯す光景を遥か眼下に臨む上空に、甲 高い男の声が響く。 「我ら紅き月の民の悲願、ついに成就の時が来たのであーる」 通常では有り得ない大きさで空に浮かぶ紅の月が、男の姿を照らす。 背中に満月の刺繍が施された赤い生地の着物のような服に身を包み、全身が脂肪で出来 ているかのように肥大した身体を持つ、中年の男性のような容貌を有する男は、顎にも大 量に付いている脂肪を震わせながら、時の流れを無視した夜空に笑いを撒き散らす。 その笑いに応じ、中国の拳法家を思わせる弁髪も上下に揺れる。 「では手始めに、この地に居座る愚民どもを掃除するのであーる」 増えすぎた脂肪によって垂れ下がった腹を右手で勢いよく叩いた男の姿が、比喩では無 く、物理的に夜空に溶けていく。 その奇怪な光景を目撃する者は、誰もいなかった。 「司令! これはロンドンと同じ現象です!」 「ああ」 鏖魔との戦闘時から変わらぬ司令室に、新人のオペレーターの声が響く。 「まさか、こうも早いとはな」 「他の地域の様子は?」 以前は凌牙の育ての両親である真島烈とソフィアの夫妻が座っていた椅子に座りながら、 新しい司令である凌牙と静流が、それぞれオペレーターに指示を下す。 「他の地域で、同様の現象は発生していません。突然夜になったのは、創世島を含む、お よそ半径十キロ程度の範囲に限定されているようです」 オペレーターの報告にあるように、日本国内はもとより、世界の主要都市の様子を映す カメラの中に異常は見受けられない。 「これだけの異常事態にもかかわらず、何一つ分からないなんて……歯がゆいわ」 静流の苦々しい呟きが室内を満たすが、現状を打破できる案を持つ者などいるはずも無 く、その言葉に対する答えは返らない。 とりあえずの処置として、地域の住民がパニックに陥らないように放送を呼び掛ける事 と、警察を配置して住民を落ち着かせるよう指示を出した凌牙は、隣に座る静流を見る。 「詩音が心配か」 「あなたは心配じゃないの?」 「決まっているだろう。だが、ここに座っている間は、それを表に出すべきではない」 娘の安否を気遣うあまり、発狂しそうになる心を必死で自制し、凌牙は日光を失った街 をモニター越しに見据える。 「住民の様子はどうなっている」 「現在、大きな混乱は報告されていません。付近の警察も、間も無く到着します」 「必要ならば警官を増員させるよう指示を出せ。鏖魔の襲来時と同じケースと考えれば、 権限はこちらの方が上になる」 「了解です」 現状、大きな混乱が起きていない事に軽い安堵を覚えた凌牙は、娘の安否の次に重要な 案件を確認する。 「例の機体は無事か」 「予定通り間も無く創世島に到着しますが、このままだと夜に変化した空を抜ける事にな ります。迂回を指示しますか?」 「そうしてくれ」 こちらにも大きな問題が無い事を確認した凌牙は、ともかく一息つこうと椅子に深く腰 掛けようとする。 その瞬間、 「大気中に異常振動が発生! 鎧鏖鬼の転移とは異なる反応です!」 「早すぎる!」 モニター越しに映る夜景に皆が注視する中、闇に包まれた町の上空に、揺れる水面のよ うな揺らぎが生まれる。 そして、その揺らぎの中から現れたのは、銀の球体を繋ぎ合わせたような人形のような 形状を持つ、人型の機械らしき巨大なモノと、 「我が名はラ・ネリーム。紅の月の民にして、月紅(げっこう)騎士団の男爵級騎士なの であーる。白き月の民よ、今この時より、お前達は消え去る運命なのであーる」 その人型から聞こえてくる、甲高い男の声であった。 「な、なんだよ……あれ」 突然訪れた夜空と紅の月を背に現れた巨大な人型の存在を見た衛人は、余りに異常な事 態を前に思考する事を止め、ただ茫然と異形を見続けていた。 「大きな……丸い、ロボット……?」 衛人と同じく闇の空に浮かぶ銀の異形を見る詩音の顔に、先ほどまでの笑顔はない。 「いやだ……怖いよ……」 誰の目にとっても人間にとって害を成すモノである事が明白な銀の異形から視線を離さ ない詩音は、不安に押し潰されそうな自身を抑えるように両腕を強く交差させ、自身を抱 きとめる。 「白き月の民共よ。我が男爵級月紅機(げっこうき)『弾圧球人(プレッシャーボール)』 の前に恐怖するのであーる」 粘着質な笑みを伴う、聞く者に不快感を与える甲高い男の声に合わせ、弾圧球人という 名を持つ銀の人型は、両腕を前に伸ばす。 「これが、我ら月紅騎士団の悲願を果たすための第一歩なのであーる」 男、ネリームの言葉と同時、球体を繋げたような形状をした弾圧球人の腕の先端部が本 体から外れ、宙に浮く。 「ゆけい! 弾圧球人の恐ろしさ、愚民どもに教えてやるのであーる」 両腕から離れた二つの球は、一瞬の停止の後、音速を遥かに超える速度で夜空を一直線 に切り裂く弾丸へと変貌する。 ネリームの破壊の意志を乗せた二つの球体が目指す先は、弾圧球人の正面を飛ぶ、一機 の大型輸送機。 弾圧球人の付近を飛んでいたという、避けようの無い不運に見舞われた輸送機の正面、 ちょうど操縦席のある部分に、銀の双弾が直撃する。 着弾の音は小さく、だが、破壊は確実に行われた。 輸送機の操縦席を破壊するだけでは止まらない銀の球体は、そのまま直線の軌道を描き、 機体の最後尾を突き破って、再び夜空へと姿を見せる。 そして、破壊を終えた球体が本体の腕に戻る頃、既に操縦者を失った輸送機は、重力の 誘惑に抗う力をも失い、機首を下に向けた体勢のまま、地上へと躊躇う事無く落ち始めた。 「ぶひゃひゃは! この弾圧球人の前にあるものは、全てこうなる運命なのであーる」 地上へと落ちていく輸送機を見下ろす銀の巨体は、ほぼ前後の区別のつかない機体を傾 け、大地に水平な姿勢へと変わる。 推進のための炎を発生させる事も、音さえも無く、弾圧球人は巨体からは想像もつかな い驚異的な加速で地上へと向かう。 わずか数秒で墜落する輸送機を追い越した弾圧球人の機体が、空中で数十の球体に分か れる。 「目にもの見よ! これが弾圧球人の力であーる!」 先ほど両腕から放たれ、輸送機を破壊した時と同様、数十に分離した球体は、それぞれ に意志があるかのごとく、銀の雨となって地上へと降り注ぐ。 ビルを屋上から貫き、道路に深い穴を穿つ銀の雨は、一瞬にして街の一部に破壊の足跡 を刻んだ後、再び結合して元の人型へと戻る。 そして、数多の穴を穿たれた街に、輸送機が激突する。 人々の叫びを掻き消す衝突の破壊音の連続と、理不尽な夜を絶望に彩る、幾重にも広が る炎の海。 平和だった街が、一瞬にして狂気の夜に飲み込まれた地獄と化すその瞬間を、詩音は正 視する事が出来なかった。 「助けて、パパ、ママ……!」 丘の上から見た光景を全て否定するかのように、耳を塞ぎ、目を閉じてうずくまる詩音。 「だ、大丈夫だって。すぐに鋼騎が来て、あんなヤツなんかやっつけてくれるって」 詩音と同じく、この非日常を受け入れる事の出来ない衛人は、震える膝と声を自制する 事が出来ないまま、せめてもの希望を口にする。 衛人にとって、それは自分が壊れぬようにと言った言葉であったが、それを聞いた詩音 にとっては、それは全く別の意味を持った言葉となった。 「そ、創世島に行く!」 衛人の言葉を受けた詩音は、恐る恐る立ち上がり、眼前に広がる破壊の進む街の更に向 こうにある、創世島を見据える。 「ば、バカ! 何言ってるんだよ詩音!」 「私、パパとママの傍にいたい! パパとママなら、きっと助けてくれるもん!」 「無茶言うなよ! あの島まで行ける訳ないだろ!」 平時でさえ車で一時間程度かかる程の距離を隔てた創世島に、何の移動手段も持たない 中学生の少女が、銀の破壊者が降り立った街を抜けて行くという、無謀さえも逸脱し、た だの自殺としか思えない行動を思いついた詩音を止めるべく、衛人は必死に詩音の肩を掴 む。 「いや! 離してよ衛人くん!」 「お前、死ぬ気か!」 「死なないもん! パパとママが助けてくれるもん!」 「落ち着いて考えろよ!」 暴走した感情の赴くままに走りだそうとする詩音を落ち着かせようと、衛人は声を荒げ るが、その叫びが目の前の少女には届かない。 「いやだ! パパとママの所に行かせてよ!」 「いいかげんにしろよ!」 いかに野球に打ち込む男とはいえ、体格で負けている衛人は、全身が引き千切れんばか りに暴れる詩音を完全に抑える事が出来ずにいたが、それでも彼女を死地に向かわせまい と、気力で全身に力を込め、大地を踏みしめる。 だが、衛人の奮闘むなしく、詩音はついに自分を抑えつける両腕を振りほどく。 すぐそばに、死神の手が迫っている事も知らずに。 「詩音!」 初めに聞こえたのは、衛人の叫び。 次いで感じたのは、胸を押され、自分の身体が宙を浮く感覚。 自分の鼻先を通り過ぎる銀の影と、道路を巻き込みながら付近の家に直撃する映像。 そして、砕かれた破壊の残滓が少年を飲み込む、悪夢の結末。 「衛人くん!」 衛人の全力を受けたため、坂道を転がり続けた詩音がよろけながら立ち上がった時、全 ては終わっていた。 目の前に広がるのは、破壊された瓦礫とアスファルトの山があるのみ。 そこにあるべきはず少年の姿は、どこにも無い。 「えいと、くん……?」 擦りむいた膝から流れる血もそのままに、詩音は焦点を失った視線と力を失った足取り で、瓦礫の山に歩み寄る。 「うそ、だよね? 衛人くん、どこかに隠れてるだけだよね?」 うわ言のように不確かな言葉を吐き出しながら、目の前に積み上げられた瓦礫の山を一 周した詩音は、そこに自分の望むものが無いと改めて思い知らされる。 「こんなの、やだよぉ」 一瞬前まで自分を叱りつけてくれていた少年はもういないのだという現実を受け入れ始 めた詩音の瞳から、その証明である涙が零れ落ちる。 「パパ……ママ……会いたいよぉ」 心にひびの入る音を聞きながら、詩音は傷ついた身体を引きずり、坂道を下り始めた。 番外編(その1)